第12話 足りなかった何かが満たされる

「俺……ママさんに嵌められたのかな……」


 行為の後、ディルクは両手で頬をおさえながらぽつりとつぶやいた。


「母上に我々を同衾させる意図があったのかもしれませんが、ここまで効果が絶大とは思わなかったでしょうね……」

「認めちゃうのかよ……。ええ〜俺に長男の嫁とか無理なんだけど?」

「……我が家の跡継ぎは双子の弟なので、私ではありませんよ。それに妻に家の役目を押し付けるなんて、今時ありえません」


 クレマティスは少し語気を強めて言う。ディルクに自分との結婚が無理だと言われると、胸が痛む。


「でも、貴族家の嫁は茶会の主催とかやったりするんだろ? 俺、他家の奥さんに惚れられそうで面倒なんだよなー……」


 身体を起こしたディルクはがりがり頭をかきながら、はぁっと息をはく。


「……お身体がべたついて不快でしょう。汗を流しに行きましょうか」


 話題を変えることにした。これ以上、ディルクから自分との結婚があり得ない理由を聞かされるのは辛い。


「えっ、風呂場は媚薬の匂いが充満してるだろ?」

「あれから一時間以上経過しておりますから、さすがに媚薬効果はなくなっているかと」


 ◆


 風呂場に向かうと、あれだけもくもくと立っていた湯気はなく、入浴剤の甘い匂いもかなり薄らいでいた。


「本当だ、平気だ!」


 まずは冷水のシャワーで色々な体液にまみれた身体を流す。火照った身体に冷たいシャワーが心地良い。シャワーヘッドには二つの魔石がついていて、水色の魔石に指先で触れるだけで吐水できる。湯水は赤色の魔石を触ると出る。

 ディルクは「冷たい、冷たい!」とシャワーを浴びながらはしゃいでいる。彼は帝国の皇子で十八歳になるが、宮城きゅうじょうの外にはあまり出たことがないらしい。だからだろうか、歳の割には少々言動や行いが子どもっぽいなとクレマティスは感じる。だが、その一方でディルクの皇子らしくない屈託のなさや気さくさが眩しく思えた。


「……浴槽の湯を温めますね」


 クレマティスは浴槽に視線を移す。ディルクの白い肌をいつまででも眺めていたら、また催しそうだ。

 浴槽を温める魔道具はあるが、あれは湯を温めるのに時間がかかる。

 少し悩んだあと、クレマティスは水面に手のひらを翳した。すると、淡く湯気が立ち始めた。


「将軍、魔法上手いよなー。スライム相手に放った炎榴弾もすごかったけど、こういう生活魔法も上手いなんて。お湯を温めるのって調節がむずかしいのに」


 そんなクレマティスの気を知らないディルクは、タオル一つまとうことなく、とことこと彼の隣にやってきてその場にちょこんと屈んだ。


「……褒めていただけて嬉しいです」

「もしかして、将軍はエレメンタルマスターの称号持ちだったりする?」

「……ええ、まあ」


 クレマティスは幼い頃から、公国軍の将軍となるために魔法や武術などあらゆる研鑽を積んできた。ジェニース家の名に恥じない人間となるよう、努力を重ねてきたのだ。

 血の滲むような努力の甲斐あり、大公付きの将軍に選ばれ、次期大公候補にも名が上がっている。世界に数百人しかいないエレメンタルマスターの称号を得ることもできた。

 側から見れば、順風満帆な人生。

 だが、クレマティスはずっと自分には何かが足りないと考えていた。


「すごいな。俺にも魔法を教えてほしいな」

「はい、ぜひ」


 自然と、口角が上がる。ディルクと一緒にいると、足りなかった何かが満たされるような気がした。


「公国に来て二週間になるけど、将軍いっつもいないからさぁ」

「……申し訳ありません」

「うそうそ、忙しいんだろ? 俺の相手ばかりしてられないよな」


 確かにディルクの言うとおり、スライム討伐に出かけた日を除けばあまり一緒にいられていない。

 こんな他愛のない会話を交わすのも、討伐の日以来かもしれない。

 クレマティスは多忙だった。毎日転移装置を使い、登城していた。以前受け持っていた仕事の後処理があったからだ。

 だが、その後処理もあらかた片付いた。


「……これからは、もっとディルク様と一緒に居られると思います。以前受け持っていた仕事が片付きましたので」

「そうなんだ。大公閣下から次の依頼がなかなか入らないからさ。時間があいたら、魔法や剣を見て貰えたら助かる」


 帝国の皇子という恵まれた立場にあったディルク。だが、彼は研鑽を怠らない。ジェニース家に来てからは、毎日蔵書室にある魔導書を読み漁っているらしい。

 努力家なディルクに、クレマティスは好感を抱かずにはいられなかった。



「ふぁっ〜生き返るっ!」


 湯に浸かったディルクは、満足げな顔をして浴槽の縁に持たれかかった。

 ディルクの高い声が、風呂場に響き渡った。


「確かにこの入浴剤、肌がすべすべになりそうだよな。トロッとしてる」


 クレマティスもディルクの隣りに腰かける。湯の表面がにわかに波打った。

 確かにディルクが言うように、湯にはとろみがあり、肌に良さそうな感じがする。

 ふと、クレマティスは思う。

 こんなふうに、誰かと寛ぎの時間を過ごしたことが今までなかったな、と。

 隣りを見ると、ディルクは細長い腕をのばし、湯を掬ってかけたり、撫でたりしている。


「……ディルク様は美容に感心がおありですか?」

「別にぃ? でも俺は人に見られることが多いから、なるべく綺麗にはしてたいかな。帝国王家の印象が悪くなるとアレだし」

「……偉いですね」

「まぁこれでも帝国の皇子だからな。……追放されたけど」


 ははっとディルクは笑う。だが、翠玉の瞳はどこか寂しそうにも見える。

 故郷に帰れないのは辛いだろうと思い、提案した。


「……ディルク様さえ良ければ、帝国へ戻れるよう尽力いたしますよ」

「えっっ!? いいよ、そんなの! ……別に俺、帝国に未練ないし。戻ったところで何かあるってわけじゃないし」


 ディルクは首をぶんぶん横に振った。細かな水滴が辺りに散る。


「帝国に大切な方はいらっしゃらなかったのですか?」

「特にいなかったかな……。母さんは俺が赤ん坊だった頃に亡くなったし。俺、帝国にいた時は恋人どころか好きな相手すらいなかったから」

「ご友人とか、恩師とか……」

「まったくだ。講師や指南役は毎年のように変わったからな」


 両手のひらを上向けるディルクに、意外だとクレマティスは思った。

 ディルクは人懐っこく、ジェニース家にもすぐに馴染んだ。人と仲良くなる術に長けた彼は帝国にも大切な人がたくさんいただろうと考えていたのだが、どうも彼の人間関係は希薄なものであったらしい。


「……ディルク様はすぐに人と打ち解けられるのに、意外ですね」

「宮城じゃあ、人間関係がころころ変わったからなー。出会ってすぐに仲良くなった方が楽しく過ごせるだろう? まぁ、嫌なやつと出会っちゃうこともあるけど、その時はその時だ」

「仲良くなってしまうと、別れる時に寂しくありませんか?」

「別に一生会えないって決まったわけじゃないし。寂しく思う必要はないんじゃないか?」


(……なるほど、ディルク様は面白い考え方をなさる)


 確かにディルクの言うとおり、その場は短い付き合いになっても、また再会した時は分からない。

 ディルクの考え方は興味深いとクレマティスは感じる。もっともっと彼と話をして、彼の考え方を知りたいと思った。


「あぁ、でも!」

「……なんですか?」

「将軍と離れる時はすっげー寂しいかもしれない」


 ディルクは形の良い眉を下げながら、クレマティスを見つめる。

 クレマティスの胸が、今までにないほど大きく揺れた。

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