第二十話 大罪
ハクアが本気で怒った姿を、多分誰も見たことがない。
彼女は穏やかで優しく、凪のような人だ。たとえ怒るようなことがあっても、己の中に閉じ込めて消化し、表に出すことはないだろう。
故にそれを、グレイとグリシャが初めて見た。
「えっ――」
その怒りに触れ、次の瞬間グリシャは凄まじい衝撃に顔を揺らす。
「何してるの!!」
気づけばすぐ側にハクアがいて、グリシャを押し倒し、馬乗りになった。
そしてようやく、グリシャは気づいた。
今、殴られたと。
「っ姉様……」
頬を打つ痛みは、ハクアに殴られたから。
ハクアに殴られたのなんて初めてで、グリシャの心はその事実にぐしゃぐしゃになる。
グリシャは、姉が大切にするものに危害を加えてしまったのだ。
「グレイが! 大事に! 育てた花! わけわかんない、こと言って! 壊さないで!」
荒々しく叫ぶハクアも、初めて見た。
大粒の涙を溢しながら、ハクアはグリシャの胸倉を掴んで叫ぶ。
姉が泣く姿も、初めて見た。
ハクア・G・クリスタは常に冷静で完璧な少女であったはずだ。
これほどまでに取り乱す姿を、グリシャは知らない。
「また、グレイの大切なものが、私のせいで、消えちゃう……」
「っ――」
「グリシャ! 謝って!」
ハクアは何かを恐れていた。
それはただただ茫然と見つめる男に、嫌われたくないからか。
また大切なものを失わせ、愛しい人が悲しむ姿を見たくないからか。
あまりの衝撃に何も言えぬグリシャにハクアの怒りはより積もり、また拳を振り上げ――
「ちょ、ちょっと待てハクア! 落ち着け!!」
ようやく事態を飲み込んだグレイが、その手を止めてくれた。
それがなければ、グリシャはどうなっていたことか。身震いする思いだった。
◇
「痛い……」
数十分後、グリシャ・G・クリスタはトボトボと歩きながら腫れた頬を触っていた。
あれからようやくハクアは落ち着き、グリシャはグレイに謝罪した。
そうしてグレイが快く許してくれたから、ハクアの怒りは静まったのだ。
「姉様……っ」
グリシャは下唇を噛み、己の頬に落ちた雫を拭った。
それはグリシャの涙でもあるし、ハクアの涙でもある。
ハクアは泣いていた。
完璧なハクアが泣く姿も、初めて見た。
グリシャが知らないハクアの姿が、あそこにはあるのだ。
故にわからなくなる。
今まで信じていたハクアと、今のハクア。どっちが本当の姿なのだろうか。
完璧な姫騎士が正しいのか。
あるいは一人の男に恋い焦がれるあの姿が正しいのか。
「わからない。姉様は、何で……完璧なあなたが、こんな間違いを犯すのですか」
ハクアはグレイを愛している。それはグリシャの中で確信した真実だ。
しかし、その愛が間違いであるとはっきり言える。
マヌル人の平民との恋が、叶うはずがないだろう。
「平民というだけで駄目なのに……異人種はもっと、駄目です。それは大罪となる」
ハクアを案じるように、グリシャは呟いた。
クリスタ王国には異人種との
それはマヌル人、あるいはアザール人やカルル人と結婚することを禁ずるものだ。
その法はとても重く、子は例外なく殺される。
かつてマヌル人の奴隷と恋に落ちた男女は、子もろとも処刑された。
それは初代王が作った法で、クリスタ人の最も大切な力〝魔術〟を失わないためのものだ。
異人種との間に生まれた子は、例外なく魔術を受け継げず、永遠に失ってしまうのだ。
それは魔術が使えぬ平民とは違い、存在することが大きな罪となる。
平民と貴族が子をなそうと、その子には魔術が受け継がれる。あるいは平民同士であっても、魔術が使える子が生まれるのは珍しくない。
平民からも十人に一人は簡単な魔術が使える者が生まれるし、数百人に一人貴族と同レベルの魔術を使える者も生まれる。
しかし異人種との子は、その力を失うのだ。
失った子がさらに子を作ろうと、魔術が復活することはない。一度でも血が入れば、永遠に魔術は失われてしまう。
その魔術の力でここまで繁栄してきたのに、それを失うなどあってはならなかった。
決して魔術が使えない、劣等種たるマヌル人と同じ場所まで堕ちる愚行だ。
故にマヌル人との恋は叶わない。
第三王女たるハクアが、異人種と結婚なんてできるはずがないだろう。
「姉様、駄目ですよ……その恋はっ」
グレイは多分、悪い人間ではない。
だが彼がマヌル人の平民である限り、駄目なのだ。
「ああ――でも、どうすれば」
この件を上に報告する?
否だ。それはハクアに泣きながら止められたし、それを無視して報告すれば、引き裂かれた恨みが全てグリシャへと降り注ぐ。
そんなこと、できやしない。
だが決して叶うことなき恋に落ちたハクアを、どうすれば良いのだろう。
グリシャはわからない。
「っ……」
グリシャは答えを探すように、帰路についた。
◇
「結構。派手にやられたな」
グリシャが去ったグレイ宅では、荒れ果てた庭を見ながらグレイは苦笑していた。
氷の刃で花は吹き飛び、剣が纏った氷気によって花びらは凍ってしまった。
これを復活させるには、少しばかり時間がかかるだろう。
「ごめんなさい……っ。あの子、暴走しがちなところがあって。後でうんと叱るから」
「別に気にしてねえよ。誰かが死んだわけじゃねえ」
花壇が荒らされた程度じゃ、グレイは怒らない。
それにハクアに殴られ、泣きながら馬乗りにされたグリシャの姿を見ればそれ以上怒る気も失せるというものだ。
ただ何年もかけて世話してきただけに――ものすごく落ち込んでいた。
「……グレイ」
それがわかるから、ハクアは悲痛な顔をする。
いっそ怒ってくれた方が、贖罪もできただろう。
だがグレイは怒らず、悲しそうに花壇を見つめるだけだ。
「ま、しかたない。また一からやってくか」
「わ、私も手伝う! 妹が、こんなにしちゃったし。ちゃんと、責任とる!」
「そうか? ……まあなら、良い花の苗や種があったら、くれると嬉しい」
「わかった! いろいろ持ってくる!」
「ははっ。無理はするなよ」
拳を握って燃えるハクアに苦笑しながら、グレイは荒れた花壇を直していく。
花は全て入れ替えだろう。本当に花とは儚く美しいものだ。
「……そうだ」
折れてしまった花々を集める中で、ふとグレイは何かを思いつく。
そしてもくもくと、花を使って何かを作り出した。
「ん。何してるの?」
「昔リズリーやユウ。あとセリアって奴に作ってたものだ」
「? ……あっ」
もくもくと作られていく過程を見て、ハクアも何ができあがるか察する。
慣れた手つきで作られたものは、色とりどりの花でできた冠だった。
「久しぶりに作ったが、腕は落ちてないみたいだ」
「凄いね、グレイって何でもできるの?」
「何でもはできねえよ。ただ、作るとと喜ぶ奴らがいたから得意になっただけだ」
そう言って、グレイは思い出すかのように目を伏せる。
かつては小さなユウを喜ばすために、花冠は良く作っていた。
それをリズリー達が羨ましがったり、カストロンが真似してぜんぜん作れなかったり。ゴーズが意外と器用だったり。ウェンデルはしきりに作り方を聞きに来り。
花冠一つとっても、仲間との思いでが沢山あるのだ。
グレイは感傷に浸りながら、横にしゃがんで同じ目線でいるハクアに目を向ける。
「……いるか?」
そして物珍しそうに見つめていたハクアに、花冠を差し出した。
「いいの?」
「まあ、俺には似合わないしな」
「……わっ。ありがと」
グレイから花冠を受け取ったハクアは、そっと己の頭に乗せてみた。
花飾りを着けることはあっても、本物の花を使った冠をかぶるのは初めてで、少し緊張してしまう。
「はは。やっぱり、剣より花の方が似合ってる」
「っ……! そ、そ、かな……」
その言葉に、ハクアは徐々に頬を染めていく。
しかしそれはグレイにとって、お世辞ではなく本心から出た物だ。
剣を握って、己を押し殺して戦場に立つ姿は似合わない。
こうして花と一緒に、自然体で笑う姿が一番綺麗だ。
「グレイ……」
ハクアは目を潤ませて、頬を赤くしながらグレイを見つめていた。
その顔にグレイも鼓動が跳ねるのを感じながら、慌てて口を開く。
「そ、そうだ。時間は大丈夫か?」
「あ……。そ、そうだった。ごめんね。行かないと」
元々帰らねばならない時間だ。それがグリシャのゴタゴタでうやむやになっただけで、時間が伸びたわけではない。
「気をつけて帰れよ」
「うん。今日はごめんなさい。グリシャには、ちゃんと言い聞かせておくから。グレイにこれ以上、迷惑かけないから」
「まあ、あんま気に病むな」
「ありがとう」
名残惜しそうにそう言って、ハクアは立ち上がる。
この時間が終わってしまうのが、とても悲しそうだった。
そしてそれはグレイも同じだ。
「……またな」
「うん……」
ただ愚痴を聞くだけの関係では、もうなくなっている。
そんなのとっくに理解しているのだ。
あるいはハクアの気持ちだって――最近は何となく察してしまっている。
そしてそれと同じ思いを自分自身も抱いているって。
でもこれ以上は駄目だ。まだ自制できているうちに一線を引かねば、互いにとってよくない。
あくまでただの愚痴を聞く関係。それ以上に進んではならないのだ。
でも恋って、そんな理性を軽々と粉砕していくものだ。
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