最終話

「母さん! 母さん!」


 進みながら俺は叫んでいた。

 ガムテのままなので、声にはならない。

 当然、返事もなかった。

 

 こうなったら、少しでも棚を動かすしかない!

 並べられた呪物が落下し、壊れる危険はある。

 けれども、なりふり構っていられなかった。


 突き当りに追い詰められた時、俺は三角座りの姿勢を取った。

 一旦、壁側に向かって勢いを付けると、そのまま今度は棚側に転がった。

 ぐぐっと棚が押され、ひと一人分のすき間ができる──

 ──イメージの中ではそうだった。

 

 棚は動かなかった。

 地震対策か、それとも単純に呪物を守る為か──

 何度ぶつかっても、棚はびくともしなかった。


 ずるり──


 這いずる音がした。

 ずるり、ずるり──


 三角形の俺の両脛りょうすねに、重いものが上ってくる感触。

 眼前に現れたのは、ガンギマリのじいちゃんの顔!

 引き結ばれた口から漏れる、嫌な音の歯ぎしり。


「うわああ! やめろ、やめろッ!」


 俺は三角形の両脚を突き出し、蹴飛ばそうとする。

 が、じいちゃんは滑るように俺の左側に落下した。

 大きく開かれた口──


 それが、俺の左腕に喰い付いた!

 ガムテの薄い部分を貫通して、歯が肉に刺さる感覚。

 激痛のあまり、俺は声も出なかった。


 身体をよじって逃れようとするが、それすらも痛みを倍化させる。

 じいちゃんは荒い鼻息を立て、眼を剥いたまま、更に強く歯を立てて行く。


 ──く、喰い千切られる!


 そう思った瞬間だった。

 激痛でのたうつ俺の身体が当たったか、それとも最初の体当たりでそもそも落ちかかっていたのか──

 俺の顔の真横に、何かが落下した。

 それは四十センチ四方くらいの木製の箱だった。

 床板にドンッと落ちると同時に、よく知っている臭いが漂った。


 寺に居る間にときおり嗅いだ、あのヘドロの臭いだった。


 そして不思議な事が起った。

 じいちゃんがいきなり口を放して、どたどたと後ろに退いたのだ。

 正直、訳が解らなかった。



 



 ただ直感的に、これを利用しない手はないと思った。

 俺は痛みに堪えながら、両腕で木箱を押しやった。

 それが床板を滑って行くと、向こうも合わせてやっぱり後退する。

 じいちゃんは唸りと共にしばらく木箱を睨んでいたが、ふいに、もと来た道を引き返し始めた。


 やった、助かった──

 そう思ったが、すぐに気が付いた。


 ──


 俺は転がるようにして、前進した。

「母さん! 母さん!」言葉にならない声で、何度も叫んだ。

 一刻も早く、ガムテを外す必要があった。


 じいちゃんは仰向けの姿勢になり、尺取り虫の動きで後退して行く。

 動きは全く正確ではなく、壁や棚に平気でぶつかっている。

 けれども、スピードは早い。

 

 俺はというと、途中で箱を押さなければならなかった。

 これでは全然追いつけない。

 じいちゃんのように仰向けになり、腹の上に箱を乗せて腕で押さえる。

 そのまま尺取り虫の動きをすると、安定して前進できた。

 時間を食った分、引き離されたが何とかなりそうだ。


 一つ目の曲がり角をまがった時、じいちゃんが急に動きを変えた。

 三角座りの体勢になったのだ。

 そのまま横回転で、ごろんごろんと床を転がって行く。

 突然の加速だった。

 

 じいちゃんは突き当りの棚にぶつかると、ほんの一瞬、その場で停止した。

 脚を伸ばしてうつ伏せの体勢になり、壁を蹴って左手に消えて行く。

 その先は、母さんが倒れている最初の地点だった。

 俺はまたガムテの口で母さんの名を叫んだ。

 汗か、それとも唾液か知らないが、徐々に粘着が弱くなっているのが分かった。


 俺はようやく角を曲がった。

 目に飛び込んできたのは、母さんの足元に到達したじいちゃんの姿。

 あとほんの数秒で、じいちゃんは攻撃を開始するだろう。

 どう見ても、間に合わないのは明らかだった。


 俺は箱を押した。

 脚をスロープのようにして、その上を滑らせる。

 そして床に落ちた時点で、躊躇いなく、思いっ切り蹴り飛ばした。

 母さんに向かって這い上っていたじいちゃん──

 その顔面に、見事命中!


 じいちゃんは何か大げさな声をあげて後方に跳ね飛んだ。

「──母さん! 起きて!」

 べらりとガムテが外れ、初めてそう声が出た。

 母さんは飛び起き、一瞬、俺を見た。

 

 片方の鼻から流れる血が痛々しかったが、その口からはすぐさま呪文が発せられていた。

 母さんは床の上でダンゴムシのように縮こまったじいちゃんの頭を、がんと片足で踏みつけた。

 正直、若干恨みがこもっていそうな踏み方だった。

 そのまま上半身を折ると、じいちゃんの首の辺りに手の平を置く。


 途端に、辺りに腐敗臭が満ち始めた。

 けれども、俺が気になっていたのはヘドロの方だった。

 じいちゃんに当たった後、転がった木箱は一瞬だが、蓋が開いたように見えたのだ。

 母さんの手の平に黒い霧が集まって行く中、腐敗臭は徐々に薄まって行き、濃厚なヘドロ臭が存在感を増していった。


 俺はそれを口に出そうとしたが、もう遅かった。

 目の前に、じいちゃんから抜け出た霧が迫っていたからだ。

 幼虫のような胎児のようなそれは、俺の鼻先に進んだ。


 黒い霧はまるで中から脈動するみたいに、か弱く、小さく、粒子の一つ一つが生きているかのようだった。

 見つめていると、そのまま吸い込まれそうになる恐ろしさと、不思議な哀しさがあった。

 すっと、霧が俺を包んだ感覚がした。

 

 息苦しくもなく、痛みもなかった。

 霧の中、俺は棒のようにやせ細った真っ黒な女の姿を見たように思ったが、麻酔か何かで瞬時に意識が飛ぶようにあとは何も解らなくなった。



 ※  ※  ※



 次に気が付いたとき、俺は客間の布団に寝かされていて、傍らに心配そうな母さんの顔があった。


「──良かった。気が付いたのね、蒼太。本当に良かった──」


 母さんの目には涙が浮かんでいた。

 普段から気丈で、こんな表情を見せる人ではなかったから、俺はちょっと困惑した。

 

 母さんは俺の体調について訊ねた。

 そうしてみると、空腹と喉の渇きと痛み、そして異常なまでの下半身の気持ち悪さに気が付いた。(ちなみに、じいちゃんに噛まれた左腕は、しっかり治療が施されていた)


 俺は、痛過ぎる事実を知った。

 あれから二日経過していた事も驚きだったが、そっちじゃない。

 なかなか意識が戻らなかった俺は、、まあ、ようするに──その中に致してしまっていたのだった。


 母さんは「新しいオムツは幾つもあるから、さあ履き替えなさい」と言ったが、俺は断固拒否し、トイレと風呂に向かった。

 俺の身体は俺が思う以上に疲労していたのだろう。廊下を進む途中、何度も壁に向かってぶつかったり、よろめいたりした。


 トイレと風呂を済ませると、気分はかなりスッキリし、同時に激しく食欲が高まってくる。

 俺は台所の隣室で、母さんの作る大量の手料理を頬張った。(びっくりするぐらい、俺の好物ばかり並んでいた。普段と違って──)


 そうしていると、じいちゃんが部屋にやって来た。

 なんというか俺とじいちゃんには、短い間に色々な事があり過ぎた。

 だから、やっぱり複雑な感情があった訳だが、現れたその姿を見た途端、全てが吹っ飛んでしまった。


 頭に巻かれた分厚い包帯、顔には幾つもの絆創膏が貼り付き、右腕はギブス固定され、ホルダーによって肩から吊り下げられていた。

 俺なんかよりも明らかに重傷だったのだ。


 じいちゃんは俺に対して、自分が至らなかった事、そして巻き込んでしまった事を詫びた。

 俺は黙ってそれ聞いていたが、むしろ気になっていたのはあの後の事だった。

 じいちゃんはそれを察したのだろう、全て話してくれた。

 その内容をまとめると、だいたいこんな感じだ。


 じいちゃんが意識を回復した時、俺は母さんによって拘束し直され、梁のロープに固定されていた。

 じいちゃんと母さんは二人して何とか祓おうとしたが、じいちゃんの身体のダメージが想像以上だったので、封印を選んだ。


 封印とはこの場合、中のものを呪物に戻し、襖の奥に閉じ込めることを指すが、そうすると宿る物が必要になる。


 そこで、驚くことに、


 つまりオミキを再現し、それにもう一度移し直したというのだ!


 具体的な材料や作成方法については「絶対教えない」との事だったが、あの壺の再現が一番難しかったので、仕方なく総代さんが割った破片を、再利用したのだという。


 俺は話を聞きながら、開いた口が塞がらなかった。

 この人はその気になれば呪物だって作れる輩なんだ!


 というか、本当にクソジジイである!


 そんな訳で現在あの壺は、しっかり襖の部屋に安置され、実に安心安全に保管されている──らしい。


 これについて母さんは「結局、すべてお父さんの思い通りになった!」と激怒していた。俺としては、たしかに激怒したいような気持ちと、成るようになった気持ちの半分半分で正直どう捉えて良いか分からなかった。


 最後にじいちゃんは、壺については全く心配ないが、「──ただ一つ、問題が起った」と言った。

 何となくだが、俺には解っていた。

 目覚めたときから、ごく僅かに、ヘドロの臭いを感じていたからだ。



 じ「──お前が母さんを助けるため、一生懸命だったのは理解しとる。

 けれど、それが例え偶然だったのだとしても、。それは、相手にしても同じこと──


 お前とあの呪物は、そうして結びついてしまった。


 ワシがあの部屋に入るなと言ったのは、その結びつきを恐れてのこと。

 一度複雑に絡み付いてしまった糸同士を解くことが難しいように、魂の結び付きも同様なのだ。

 ──さて、ここからは少し言い難い事だが──


 あの呪物が結び付いた時、──心当りがあるか?」



 ふと考えて──あるといえばあった。

 目覚めて以来、やけに左目が霞んで見え辛い感覚があった。

 てっきり、土壁にぶつかったときのゴミが今でも入っているのだろうと思っていた。



 じ「──本当に申し訳ない事だが、お前と呪物の結び付きは徐々に強まるだろう。

 そのとき、呪物はお前が与えたその一部を、ゆっくりと喰ってゆく。つまり、今は霞む程度だが、いずれ完全に見えなくなってしまうという事だ。

 

 残念だが、ワシにはそれを止める事はできん。そして喰われてゆくほどにお前の力は強まるだろう。強い力はときにお前を苦しめるかもしれない──


 ワシにできることは、それを適切にコントロールできるよう導いてやるぐらいだ。

 こんな事になって本当に、本当にすまなかった──」



 俺はぼんやりと、その話を聞いていた。

 感覚が麻痺していたといえばそうかも知れない。

 ただ、なんとなく「そういうものか」と思っただけだった。


 じいちゃんは「結び付きは偶然だった」と言ったが、俺は違うような気がした。

 ヘドロの臭いは終始、俺に付きまとっていた。

 だとすれば、俺の運命は寺に来た時点で決まっていたのかも知れない──そんな気がしたのだった。


 俺はじいちゃんに、あの落下した木箱の中身を見せろと言った。

 けれども「今は悪影響しかない」と押し留められた。

 それでも俺が食い下がると、

「人魚でも鬼でも、ましてカッパでも無い、別のミイラ」と教えてくれた。

 俺はとりあえず、今はその説明で満足した。


 力のコントロールについては、定期的に寺へ来て、それを学ぶことになった。

 ただその過程で、目は見えなくなるだけでなく汚い変形、例えば腫れや爛れが起こるかも知れないのだという。


 それはかなりの大問題で、俺はどうやって友だちにそれを隠そうかばかり考えた。

 いっその事、今のうちからゲゲゲの鬼太郎みたいに、半分髪を伸ばして隠そうか?

 ──いや、それは絶対ありえない!

 そんな風に、悩みが尽きることはなかった。



 寺を去るとき、俺は試しにじいちゃんに訊いてみた事がある。



「どうしてこんな大変な事を、ほぼ無料でやってるの?」と。



 じいちゃんはしばらく沈黙した後、

「──上手く説明できんのだが、金をもらった瞬間にワシは力を失うような気がする。あるいはその力に喰われる、とでも言えばいいのか──。自分でも理屈はよく解らん。ただそんな直感がするんだ」と言った。


 俺は「ふうん」と答えたが、正直その直感の意味はよく解らなかった。


 ただ、なんとなく「そういうものか」と思った。

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俺とじいちゃん ~封印の部屋とオミキノツボ~ 百々嗣朗 @100100momo

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