第八話

 母さんは同意しなかった。

 むしろ、マジでブチギレ始めた。


 けれど他に方法がないことは母さんの方が解っていたと思う。

 耳が痛くなるたくさんの文句を聞かされた後、母さんはようやく俺の案を受け入れた。ただし、「納得はしてない!」との返答だった。


 母さんの話では、あの襖の奥は「この寺で一番の結界」であるらしかった。

 最悪のケース──つまり、じいちゃんの意識が戻らなかった場合や、対応策が取れない場合に備えて、「俺とじいちゃんをあの部屋に入れ、そこで移す」と決まった。


 俺と母さんは頭と脚に分かれると、じいちゃんを持ち上げて呪物部屋へ向かった。

 本尊の横を通り、あらかじめ開けておいた引き戸をくぐると、そこは例の裏堂だ。

 じいちゃん──あるいはその中のものは、何かを察知したのかもしれない。

 呪物部屋に近付けば近付くほど、ばたばたと暴れ出した。


 頭側を持っていた俺は危うく畳にじいちゃんを落っことしそうになったが、ヘッドロックで対応し、なんとかなった。直感的に、呪物部屋に閉じ込められるのを嫌がっているのだと思った。


 お札まみれの襖の前に立つと、やっぱりそこには独特の存在感と不気味さがあった。

 俺と母さんは、それぞれ左右からお札を剥がしていった。

 初めてのお札を剥がすとき、俺は一瞬、パチッとした痛い感覚があったが、それが静電気だったのか、それとも別物だったのかは解らなかった。


 その頃になって、俺はようやく恐怖を感じ始めていた。

 じいちゃんが絶対入るなといった部屋に、遂に入るんだ。

 そこには、たくさんの恐ろしい呪物!(呪物はワクワクするとか言ってた自分を殴りたい!)

 もっとも最大の呪物はじいちゃんだが、これから俺はになろうとしている──


 ホントに今さらだが、「なぜこんな提案をしたんだろう?」などと思い始めた。

 が、母さんは冷徹だ。

 文句は言うが、この人は一度決めたら実行の鬼なんだ。

 躊躇ためらっている俺の目の前で、豪快にすぱーんと襖を開き、「ほら、お父さんを運ぶよ!」と怒鳴る。


 何だかんだ言っても、やっぱりじいちゃんの娘。

 俺は母さんに急かされるまま、呪物部屋にじいちゃんを運び込んだ。


 次は、いよいよ俺が拘束される番だった。

 母さんはじいちゃんに使ったのと同じロープとガムテで、俺を縛っていった。

 手首をキツく締め上げられた瞬間には、じいちゃんの言っていた「食い込んで痛い」がある意味嘘じゃなかったと思い知らされた。


 痛みは足首も同様で、さらにガムテで巻かれるとほとんど身動きが取れなくなった。

 事前に「口はタオルじゃなくてガムテにして!」と懇願こんがんしたので、それだけが救いといえば救いだった。


 こうして俺は、呪物部屋の板の間にじいちゃんと並んで寝かされる事になった。

 部屋に入ってみた印象としては、じいちゃんが警告したほどではないが、ガムテ関係無しにちょっと息苦しい感じだ。


 辺りからは気持ち悪いほどの甘い臭いや、酸っぱい臭い、そして何か複数の汚物の臭いがぐちゃぐちゃ混ざり合い、ケーキ屋とゴミ処理場が並んで営業しているみたいだった。

 狭い室内に人が三人も居るからか、やけに暑いが、不思議と汗が出ることはなかった。


 母さんは更に俺の行動を制限する為の下準備をした。

 具体的には梁にロープを通し、じいちゃんから移し終わった後で両手をそれにくくるというもの。(ほとんど、危ないプレイだ)

 ただ、それでも俺が暴れる危険は残っている。

 なので、念には念を入れて、俺周辺の呪物を奥の棚に移すのも忘れなかった。


 すべてが終ると、母さんはしばらく俺を眺め、「──始めるよ?」と言った。

 俺はこっくりと頷いた。

 それを合図に、母さんはうつ伏せに寝かされたじいちゃんの上に乗り、体重をかけると、低く呟くような声で読経を開始した。


 室内の空気が徐々に張り詰めてゆくような感覚。

 同時にどこかで起った気流の渦が、ぐるぐると臭気を撹拌しているかのようだった。


 じいちゃんはさっきから、激しい動きを繰り返していた。

 全身をのたうつようにして、ばたんばたんと板の間を鳴らす。


 母さんは振り落とされないよう、身体を低くしながら読経を続けていた。

 奇妙だったのは、いつまで経ってもじいちゃんが静まらないことだ。

 まるで最後の抵抗でもするように、じいちゃんは荒々しさを増して行く。


 俺は嫌な予感がした。

 解ってはいたが、この案には一つだけ欠点がある。

 母さんが一人で対処できないとき、


 俺は心の中で、何度も母さんを応援した。

 頼むからじいちゃんに、このまま大人しくしてくれと願った。



 けれども、予感は的中してしまった。



 横回転でもするように、じいちゃんが大きく身体をひねった。

 母さんは飛ばされ、後頭部から棚の一つにぶつかった。

 仰向けの姿勢になったじいちゃんは、尺取り虫のみたいな動きで、少しずつ母さんに向かって行った。


「逃げろ、母さん!」

 俺は言葉にならない声でそう言った。

 頭を強く打ったらしい母さんの動きは鈍かった。


 じいちゃんは一旦転がり、腹ばいになると、棚に背を預ける母さんに這い上った。

 唯一自由に動かせる頭を大きく振り、打ち付ける。

 骨と骨がぶつかるような鈍い音。

 じいちゃんは母さんの顔面に向かって、二度、三度とそれを繰り返した。


「やめろ! やめてくれッ!」

 俺は叫び、身体を激しく動かした。

 棚にぶつかった衝撃で、どんと音が伝わる。


 瞬間、じいちゃんが俺を見た。

 ギョロリとした、獣のような眼だ。

 額には、どちらのものか判らない血が付着していた。

 じいちゃんは転がるようにして母さんから離れ、こちらへと向きを変えた。

 

 俺に視線を固定したまま、猿ぐつわの口を動かす。

 まるで巨大な飴玉を口の中で舐めているみたいだ。

 が、やがて、小さな歯ぎしりの音がし始めた。


 ──タオルを食い破っているのだ!

 普通では出せない、どうなってもいい力で!

 歯の削れるような、折れてしまうのではと感じる摩擦音。

 口を結ぶタオルはゆっくりとその内側に飲み込まれて行く。


 大量の唾液と共に、じいちゃんはタオルの破片を吐き出した。

 するり、とタオルの残りが首元に落ちる。

 自由になった口──

 その歯を何度もがちがちと鳴らすと、じいちゃんは俺に向かって前進を開始した!


 ──ヤバいヤバい、ヤバい!


 俺は尺取り虫の動きで、逃げ出した。

 拘束された脚を三角形に立て、一気に床板を蹴る。

 三、四回動きを繰り返すと、多少距離が空いた。

 うつ伏せのじいちゃんよりも、仰向けの俺の方が進める距離が長いのだ。

 が、五度目の動きをしたとき、俺は頭に衝撃を感じた。

 壁にぶつかったのだ。


 顔面に土壁の粉末を浴びながら、俺は何とか方向転換をしようとした。

 棚のすき間、部屋の奥側に逃げるのだ。

 けれども、拘束されているので上手くいかない!


 俺は身体をひねり、勢いをつける。

 何度か繰り返す内に、半回転。

 縛られた手が食い込み、痛みを感じたが、なんとかうつ伏せの姿勢になった。

 足の指と肘の先を使い、少しずつ目の前のすき間に角度を合わせて行く。


 急に、足に痛みが走った。

 振り向くと、真横からじいちゃんが、俺の右足に噛みついていた!

 歯を立てたまま、獣のように喉を鳴らし、頭を振り乱す。

「痛い、痛い痛い! 離せッ!」

 俺は怒鳴り、思いっきり上下左右に脚を振りまくった。


 噛み付かれたのがガムテの厚い箇所だったからだろう、俺の動きが勝って口が離れた。

 俺は腰のバネを利かせて、何度もじいちゃんの横顔を蹴り上げる。

 一瞬、相手が怯んだ。俺は全力で前進した。


 足の指を動かすと、痛みが走る。

 出血しているかどうか、よく解らない。

 けれど構ってなどいられなかった。がちがちと、後ろから音が迫ってくる。


 俺は必死に、棚と壁の間を進んだ。

 足の指だけでなく、肘や腕を使うと距離が稼げるが、その度にロープが食い込んで痛んだ。

 すぐ向こうに、奥側の壁が近付いてきた。また壁と棚の間に方向転換が必要だった。

 俺は寝転んだまま、三角座りの姿勢を取った。

 ロープだけでなく、ガムテまでもが圧迫して節々が痛い!


 けれども、そうやって転がると上手く曲がって行くことができた。

 後ろで、かちん、と歯が嚙み合わされる音。

 一瞬遅かったら、また噛み付かれていたかも知れない。

 俺はまたうつ伏せの姿勢に戻り、前進した。回避できたことが正直嬉しかった。

 

 が、すぐに気付いた。


 前方の突き当りに、棚の切れ目がないことに──


 いや、正確にはあるのだが、拘束された人間が通れるすき間じゃない。

 直立した瘦せ型の人間がやっと通れるかどうかという程度。


 俺が入り込んだその直線は──袋小路ふくろこうじだった。

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