第七話

 母さんは本尊の前に座すと、数回おりんを鳴らし、読経を始めた。

 俺はというと、うつ伏せになったじいちゃんを座布団代わりにして、その上に座っていた。

 普通に考えたらかなりイカレた状況だが、仕方がなかった。儀式の間中、監視を続け、変化があったら報告するのが俺の役目だった。


 きっとお経は本当に久しぶりだったのだろう。

 母さんの読経はときおり詰まったり、箇所によって調子が狂っていたりした。

 それでも、お経が続いて行くと勘が戻るらしく、徐々にそういったことはなくなった。


 じいちゃんは一切の動きを止めていた。

 ひょっとして、死んでしまったかと思われるほどだった。

 が、時間が経つごとに痙攣し始め、やがて俺が乗っているだけでは押さえられなくなった。それでも俺は体重をかけて留まり、母さんを呼んだ。


 母さんは実にゆっくりした足取りで、こちらへとやって来た。

 読経は止まることなく、続いたままだ。

 じいちゃんの痙攣はどちらかというと規則性のあるものに変わってきて、罠に掛かって必死にもがく生き物みたいだった。


 手足を縛り、ガムテで巻いていなかったら、今頃本堂中を駆け回っていたに違いない。猿ぐつわの口からは漏れ聞こえる呻きには、明らかに俺の名前や、母さんの名前、そして何か汚い言葉が含まれていた。

 母さんはじいちゃんの正面に回ると、膝を折って、そのぶるぶる震える頭に手を置いた。


 読経が呪文に変わった。


 じいちゃんの震えが弱く、緩やかになる。

 堂内に、ほのかな腐敗臭が漂い始めた。

 母さんの呪文は声量をあげ、そして早くなってゆく。

 臭気が急にキツくなり、俺はまた吐き気を感じた。効くのかどうか知らないが、本当に鼻栓かガスマスクが欲しかった。


 じいちゃんの動きが、完全に停止した。

 母さんが、徐々に手を垂直に引き上げて行く。


 まさしく女の子のときに見た、あの光景だ。


 俺の目と鼻の先──つまり、じいちゃんの頭の上にあの黒い霧が出現した。

 手が上がって行くと、それに釣られるように霧もふんわりせり上がって行く。

 ただそれは以前見た幼虫か胎児みたいにはならず、母さんの手の付近でしばらく滞留すると、またすうっとじいちゃんの中に戻って行ってしまった。


 母さんはじいちゃんから離れると、その場にがくっと膝を付いた。

 額からは幾つもの汗が吹き出し、鼻や頬に向かって滴っている。

 母さんはそれを拭うと、



「──ごめん、蒼太。──」と言った。



 俺「母さん? それは一体どういうことだよ?」


 母「──私はお父さんと違って、呪物による力を宿していない。お父さんが云ったとおり、途中で逃げ出してしまったから──。私だけでは、あれを祓うことは出来ないわ──」


 俺「そ、そんな──」


 母「それに、壺は呪物であると同時に結界だった。壺の中に宿っていたから、まだ扱い易かったのよ。幾つもの強い結界で閉じ込めて、長い間封印することも可能だった。例えばあの襖の部屋のようにね。けれど、今は壺の役割をお父さんの身体が担ってしまっている──」


 俺「──それって現状──じいちゃんが呪物ってこと?」


 母「そう。だから今の私にやれる事は、お父さんをあの襖の奥に閉じ込めることしか出来ない──」


 俺「待ってよ! そんな事して、じいちゃんは大丈夫なのか?」


 母「徐々に衰弱して、やがてうつわとしての役目を果たせなくなるでしょうね。憑かれている分、もっと早いかも知れない──」


 俺「そんなの意味ないじゃないか!」



 俺はじいちゃんを見た。

 確かに母さんとじいちゃんの間には、わだかまりがあったかも知れない。そして母さんの云うとおり、じいちゃんは俺を巻き込んだのかも知れない。けれど、そんな事は全然重要じゃない!


 呪物を集めたのだって、悪用する為ではなく結局は誰かの為だったはずだ。そんなじいちゃんが、ここで死ぬなんてあり得なかった。

 俺は自分の無力に腹が立った。こんなの、あまりにも不条理だ!

 能力のない俺とじいちゃんなら、いっそあのとき俺が憑りつかれれば良かったんだ!

 初めから俺が憑りつかれていれば、こんな事には──

「俺が──憑りつかれて──?」



 俺「母さん! じいちゃんと母さんの二人なら、この状況を何とか出来る?」


 母「──解らない。断言は出来ない。ただ力もそうだけど、お父さんはそれ以上に知識がある人よ。対応策は色々知っているはず──」


 俺「じゃあ、祓うことは無理でも移すことはどうなの? ──」


 母「蒼太! あんた、何言ってんの!」


 俺「冷静になってよ、母さん。俺ではこの状況を変えられない。可能性はじいちゃんだけだ。そうだろ? 何としても、じいちゃんを正気に戻すしかない。それしかもう手が無いんだ。──だから、

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