終末絵図(誠司の場合)

  文武両道、眉目秀麗びもくしゅうれい清水誠司しみずせいじは絵に描いたような優等な人物であった。人をきつける能力が生まれつき備わっていたのか、人望の厚い彼の周りにはいつでも人が集まっていた。学校では生徒会長を務め、生徒だけでなく、教師からも信頼され、誰もが、誠司が難関大学を突破し、エリートの道を進むことになると信じて疑わなかった。しかし、そんな誠司の希望にあふれた日常は突如とつじょとして打ち砕かれた。政府が発表した緊急事態宣言のためである。巨大な小惑星の衝突により、世界が終わりを迎えるというあまりにも唐突で信じがたい、まるでSFの世界のニュースであった。

 発表の翌日、誠司は普段と同じように登校した。優等生の自覚のためではない。ただ、信じられなかったのであった。公共の電波を使った悪質な悪戯いたずらか、何かの間違いであると信じていた。誠司と同じような、不安とそれがくつがえる期待とを抱いた大多数の生徒が、その日、出席していた。教師は情報の不確かなうちは余計な心配をせぬようにと自らに言い聞かせるようにして生徒たちに忠告していた。その日は何事もなかったかのように授業が行われた。

 翌日になると世界の終末が嘘ではないと大々的に取り上げられ、神妙な顔をしたニュースキャスターが残された時間を大切にと国民に呼びかけていた。終末が決定した三日目、誠司が学校に向かうと、生徒はもう、半分以上居なくなっていた。教師の中にも学校に来ない者が多くなっていた。四日目になると、いよいよ学校は機能しなくなり始めていた。具体的な最後の日が分からないまま、誠司の不安は絶望へと変わり始めていた。学校に行っては生徒が明らかに少なくなっている事実を目の当たりにし、空虚くうきょな時間を昇華しょうかさせるばかりだった。これまで彼の周りにいた者は、もう、誰も居なくなっていた。一週間が経ち、とうとう誠司は学校に行かなくなった。これまで誠司の将来について希望の眼差しで語っていた母親は、人が変わったかのように寡黙かもくになり、一日中、家に引きこもるようになっていた。父親は対照的に家を空けることが多くなっていた。両親にはもはや、優秀な息子のことが目に入らないようであった。誠司は何処どこへ出かけるでもなく、カーテンを閉めた自室でいつ訪れるとも知れない終末の恐怖におびえていた。スマートフォンを取り出し、同級生のグループチャットルームを開いても、更新されてはいなかった。ただ、彼が数日前に投稿した“みんなどうしてる?”のメッセージに幾らかの既読を知らせる文字があるだけであった。交流のあった友人にメッセージを送ってみたものの、数回やりとりが続いただけでそれきり、返事はこなくなってしまった。

 終末の発表から二週間が経つ頃、誠司はインターネット上に“終末チャット”なるサイトがあるのを見つけた。人との繋がりを求めていた彼は、反射的に“east”という人物の開いているチャットルームに入った。

“こんにちは”

誠司が恐る恐るメッセージを送信すると、思いのほか早くに返信が来た。

“seijiさん、こんにちは。メッセージありがとうございます。誰かと話していたかったので嬉しいです”

“僕も同じ気持ちでした。こちらこそ、ありがとうございます”

チャットに慣れていなかった誠司ではあったが、誰かと繋がることができたという事実に、胸をおどらせながらメッセージを交わしていた。当たり障りのない挨拶から始まり、二人は次第に打ち解けていった。スマートフォンの向こう側にいるそのeastという人物は偶然にも誠司の住む隣の市に住んでいるということが分かった。

“eastさん、近くにお住まいなんですね。驚きました”

“私も驚きました。それに、丁度妹がseijiさんと同じで、高校生なんですよ”

“偶然ってすごいですね。僕は兄弟がいなくて。こんな状況になって初めて兄弟がいたらなって思います”

“でも、兄弟にもいろいろありますからね。少なくとも私のような兄では力になれないかと思います”

思わぬ回答に誠司は戸惑い、無難な答えを返した。

“そうなんですか?”

“私は、終末を前にして、家族より恋人を選んだんです。明日から恋人と同棲するんです。世界が終わるその日まで、私は家族とは会わないことに決めました”

予想外の告白に、誠司はしばらく返事ができなかった。

“すみません。少し重い話になってしまいましたね。seijiさんは最近外出したりしていますか?”

“最近は全くです。どこにも出かける気がしなくて”

“家にひとりでいると気が滅入めいると思うので、たまにはどこか出かけるのもおすすめですよ。夜間は危険かもしれませんが、日中なら危険も少ないと思います。私の町でも、結構、日中は喫茶店が開いてたりするんです”

人との関りが絶たれていた誠司にとって、顔も、本名さえ知らない誰かと会話をするのは忘れかけていた感覚を思いだす貴重な体験であった。しかし、幾らかやりとりを重ねると、eastという人物は丁寧に挨拶をしてチャットルームを出ていってしまった。


「外出、か」

薄暗い部屋で、誠司はスマートフォンから顔を上げるとひとり、つぶやいた。彼は服を着替えると、玄関まで下りていった。

「母さん、ちょっと出かけてくる。すぐ戻るよ」

そう声をかけてはみたものの、なんの返事もなかった。

 外に出ると、秋の近づいた快晴の空が夕焼けの色を帯び始めていた。深く息を吸い込むと、新鮮な外気が肺を満たした。

「しまった」

歩き出そうとしたその時、彼はいつからかひげっていなかったことに気づき、あごに手を当てた。

「まあ、いいか」

模範的生徒会長は体裁ていさいを取りつくろうことの無意味さをさとり、街へと歩きだした。人がまばらに行き交う道に終末が知らされていなかった頃の平和を思いだしていると、遠くの方から誰かの絶叫する声が響いてきた。世界に平穏と狂気が混在していることを、誠司はかすかに感じ取っていた。

 誠司はあてもなく歩いていたはずであったが、いつしか通学路を辿たどり、学校の正門までやってきていた。

「学校。いつぶりだろう。誰か、居るかな」

彼は誘引されるように門を潜り、平生通っていた教室へと向かっていた。道中、いくつかの教室を見て回ると、荒らされている教室も少なくなかった。時折教室に人影を見つけることがあったが、彼らは一様に暗く沈んだ表情で語り合っているのであった。そんな彼らに差す夕陽が美しいようでもあり、残酷なようでもあった。

 誠司が教室に着くと、窓辺にひとり、立っている影があった。少しずつ、彼はその人物に近づき、見知った人物であると確信すると声をかけた。

「北塚? 北塚だろ」

振り返った人物は果たして、彼のクラスメイト北塚浩輔きたづかこうすけであった。

「ああ、清水か」

逆光に北塚の姿が影法師のようになっていた。

「清水、何しに来たの」

「ちょっと、まあ、散歩。北塚は?」

「俺も同じようなもんかな」

「そう」

答えたきり、次に投げかける言葉が思い浮かばなかった。しばらく、彼らはきまりが悪そうに立ち尽くしていた。

「そうだ。北塚は、何してた? 学校に来なくなってから」

「うーん。なんも。家にいたよ」

「そうか。俺も」

「ふーん」

沈黙の中、からすの声が悲しく響いていた。

「これから、どうなるんだろうな」

清水はたまらなくなって胸中の不安をなんの注釈ちゅうしゃくも無しに吐きだした。

「さあな。おかしくなったヤツや連絡の取れなくなったヤツも多い。俺らも、そうなるのかもな」

同じように不安を吐露とろする彼は、もはやお調子者でありながら代わる代わる異性に言い寄られていた女たらしの北塚ではなく、誠司と同じように、終末に怯えるひとりの少年であった。

「清水。おかしくなったヤツ、知ってる?」

「え?」

北塚の問いかけに、誠司は嫌な予感がした。

「兄貴がさ。おかしくなったんだよね。ずっと部屋で独りごと言ってんの。それでこの間、自殺しかけた。包丁持ちだして、首切ったんだ」

「自殺?」

死を選ぶほど、悲しみや不安に取りつかれている人物がいてもおかしくないとは容易に予想できた。しかし、クラスメイトの口から語られる事実は重みが違った。夕焼けの色が酷く不気味に思えてきた。

「ま、助かったんだけどね。今、入院してる。こんな最中さなかでもやってるんだな。病院って。全く、馬鹿な兄貴だよな。どうせぐ、皆死ぬのに」

北塚のそのひと言が、鮮烈せんれつに、誠司に自らの置かれている逃げ場のない状況を認識させた。一瞬で体温が消え去る感覚がした。

「なあ、清水。世界って、どんどん汚くなってないか。どういうことだろ。人間って本当は弱くて汚いものなのかな」

夕陽を眺めたままの姿で北塚がたずねた。誠司は何も答えられなかった。

「もしさ、こんな状況になっても綺麗きれいなままの人間がいるなら、会ってみたいな。そしたら、俺は人がちょっとはましな存在かもって思えるのに」

言葉を失くした二人の耳に、遠くで女子生徒が号泣している声が聞こえていた。


「じゃ、俺、もう行くわ」

北塚は窓辺から離れ、誠司の横を抜けて、ドアの方へと歩いた。

「北塚、待って」

反射的にすがるように誠司は呼び止めていた。

「なあ。俺たち、また会えないかな。誰かといると少しはマシかもって思って。その、お前の言う最後まで綺麗なままの人間がいるかも。一緒に探さないか? 俺と」

誠司の必死の呼びかけに北塚は悲しげな微笑を返した。

「ありがとな、清水。でも、駄目なんだ。俺、明日、退院する兄貴連れて親父の実家に行くんだ。しばらく家族だけでゆっくりしたいんだってさ。親父が」

「そっか」

落胆に、声がまともに出なかった。

「じゃあな」

「ああ」

北塚との最後の別れを予感しながら、誠司は去って行く後姿を見送っていた。

「あ、そうだ」

北塚はふいに振り返った。

「高橋と先崎がまだこの辺にいるってさ。声、かけてみれば? じゃあな」

別れ際に見せた笑顔に、誠司はかつてのお調子者の面影を見た気がした。


 誠司が食堂の前を通りかかったとき、空は幾らか暗くなっていた。

「あれ、食堂、明かりついてる。誰かいる」

食堂の一角に、大きな鍋の乗った机があり、誰かが立っていた。誠司は何気なく、扉を開けて中へと入っていった。ほのかにカレーの香りがした。

「いらっしゃいませ」

鍋の横に立つエプロン姿の女性がにこやかな笑顔を見せた。

「カレー、いかがですか。無料です」

「カレー?」

鍋をのぞくと大量のカレーが湯気を立てていた。

「もし、良ければどうぞ。清水君」

女性はカレーをよそった皿を手近な机に置いた。誠司はゆっくりと席に腰を下ろした。

「あの。俺のこと、知ってるんですか?」

「はい。生徒会長の清水君ですよね」

女性は水を入れたコップを皿の横に置きながら答えた。

「私、この食堂で働いてた白川しらかわです。ここで働いてた時と服装が違ってるから分からないかもしれませんね」

「ああ。白川さん。思いだしました」

白川の言葉を聞いて、誠司は彼女と幾度か食堂で短い挨拶あいさつを交わしたことがあるのを思いだした。

「思いだしてくれましたか。さ、どうぞ冷めないうちに」

白川に勧められ、誠司はカレーをひと口、食べた。

 どこにでもある家庭の味。しかし、二週間近くも、保存食を食べ続けていた誠司にはそれが何にも勝る味に違いなかった。人のぬくもりを思いだしたと気づいた時には、彼のほおを涙が伝っていた。

「清水君? 大丈夫ですか?」

追い打ちのように気遣いの言葉をかけられ、誠司は決壊けっかいした。終末発表以来の不安、両親の無関心、交流の断絶、人々の発狂と自殺の影、逃げ場のない恐怖。彼は脈絡なくそれらを嗚咽おえつ交じりに打ち明けていた。白川は終始落ち着いた様子でそれを受け止めていた。


「白川さんは、どうしてこんなことを?」

ようやく落ち着きを取り戻した誠司は、冷めかけたカレーを食べながら問いかけた。

「そうですね。これ以外にできることが見当たらなかったからでしょうか」

「できること?」

「ええ。世界が少しずつ終わりに近づいて、仕事だとか義務だとか、何も無くなってしまいました。不安からおかしくなってしまう人も、見てきました。そんな中で誰かの力になりたいと思ったんです。私にできることといえば料理しかありません。料理を食べて、お腹がいっぱいになれば、少しは不安も和らぐかと思いまして。それで、ここでカレーを出すことに決めたんです」

白川の言うことは、日常の中であれば決して珍しいことではなかった。しかし今、この状況で同じ言葉が言える人間を少なくとも彼は知らなかった。北塚の言っていた綺麗なままの人間を、誠司は早くも見つけたのであった。


「カレー、ご馳走様でした」

「いえ。しばらくは毎日やってますから、また来てくださいね」

「はい。是非」

誠司は白川の存在を北塚に知らせようと、帰路、メッセージを送った。

“今日は会えてよかったよ。綺麗なままの人を見つけた。また戻ってくることになったら教えてほしい”


 誠司せいじは次の日も、その次の日も、夕方になると食堂へ出かけていった。食堂にいる時間だけ、彼は穏やかな心を取り戻すことができた。しかし、終末への不安がまるでなくなったわけではなかった。ひとりに時間になると人々が狂ってゆく予感や大切な人を失うかもしれないという不安にさいなまれていた。いつしかそれは唯一の安寧あんねいの場所だった食堂の存在にも向けられた。

 いつか、白川もいなくなってしまうかもしれない。安寧が失われるかもしれない。

 そんな気持ちが白川のカレーを食べる度に強くなっていった。大切なものを失うことよりも、それを危惧きぐしている時間の方が、余程恐ろしい時間にすら思えた。平穏を見つけたがための不安が、彼の心で肥大化ひだいかし、いつしか死への憧憬しょうけいという影を落としていた。

 死んでしまえば、不安から解放される。

 際限なく膨張ぼうちょうする喪失そうしつの予感を前に、北塚の兄の気持ちが分かる気がした。


 終末が発表されてから一か月近く経った日の深夜、誠司は早足に学校へと向かっていた。十月に入った夜風は涼しく、上着を持ってきて良かったと安堵していた。校門の近くまでやってくると、彼は人影を認め、声をかけた。

「西沢! ごめん。待たせたかな」

西沢侑依にしざわゆいはスマートフォンを見ながら校門にもたれかかった姿勢を起こすと手を振った。

「やあ。清水君。それ程待ってもいないさ。ボクも今来たところだ。待ち合わせの零時にはまだ早い。大丈夫さ」

「なら、よかった」

誠司はその日の夕暮れ、いつもどおり、食堂でカレーを食べていたところ、彼女と彼女の友人、東条彩花とうじょうあやかに出会い、深夜の冒険に誘われたのであった。もはや学校に訪れる者がいなくなっており、誰と会うことも期待していなかった彼には嬉しい誤算であった。

「西沢は、今まで何してたの? ずっと作曲?」

「うん。なかなか捗ったよ」

「そうか。君がどんな曲を作ってるのか気になるよ。完成したら聞かせてよ」

「もちろん」

侑依が高校生ながらに作曲をしているというのは学年の中で少しうわさになっていた。それを知って驚く者もいたが、誠司は別段、驚かなかった。他の生徒とは少し違った雰囲気をかもし出し、個性的な言動をする彼女には作曲家、ひいてはアーティストという称号がいかにも似つかわしいように思えた。そして何より、自らの意志で自らのすべきことを見つけ、実行しているような彼女に、周囲の期待に流されて日々を送っている自分にはない魅力を感じていたのである。

「ねえ、清水君」

侑依に声をかけられ、そちらを見ると、彼女が顔をぐっと近づけた。整った顔立ちが間近に迫り、一瞬間鼓動こどうが跳ね上がった。切れ長な目に心を見透かされているような感覚を覚えた。

「何?」

息を詰まらせながら言うと、侑依は口角を上げた。

「うん。いい。いい表情だよ。夕方、ボクたちと会ったばかりの君より、ずっといい表情だと思うよ」

そう言うと、侑依はようやく誠司から離れた。

「表情って?」

「そのままの意味さ。夕方会った君は不安の先に何か良からぬことを考えていたんじゃないかい」

街灯の光を受けた侑依の目が獣のように光った。

「良からぬ、ことって?」

しらを切れていないとは、誠司にも分かっていた。

「さあね。そこまではボクにも分からないな」

侑依はわざとらしく両手を頭の後ろに組んだ。

「分かっちゃったのか」

「さあ」

あくまでも彼女は核心に触れようとしなかった。

「参ったよ。そんなに俺、暗い顔してたかな。西沢はすごい観察力だね。」

「アーティストには観察力は必須ひっすのスキルだからね」

「すごいな。アーティストってのは。そう。夕方、良くないかもしれないこと考えてたんだ。死んだら、不安から解放されるのかなって」

侑依は否定も肯定もせず、黙って聞いていた。

「俺、不安なんだよ。北塚の兄貴が自殺しかけたなんて聞いて。実際、周りで誰かが死んでもおかしくない状況だ。そう考えると、次に何を失うか、怖いんだ。怖くて、怖くて、どうしようもない。あの食堂だって、白川さんだって、もしかしたらって。きっとこれからは西沢や東条がいなくなるかもって考えてしまうと思う。そう思いながら日々を過ごすくらいなら、ってね」

誠司ははぐらかすような笑みを作った。侑依は小さく頷いた。

「確かに、死を思うことが逆説的に生を助けることもあるだろう。そういう考えを、別に捨て去ってしまうべきとも思わない。でも、それを実行してしまうのは、間違ったことだよ。うん。間違ってるんだ。ボクは君がそれを実行しなかったことを嬉しく思うよ」

「西沢、ありがとうな」

誠司は自身の生を肯定された嬉しさに、泣きだしそうになるのをこらえていた。

「ありがとう、は君の周りにいる全ての人間が君に言う言葉さ。それにね、ボクも彩花も、いなくなったりしないさ。ボクは今、この世界を描いた曲を作ってるんだ。少なくともこれが完成するまではどんな手を使ってでも生き延びる。そしてね、いつか、いよいよ世界が終わるとなったら、大音量でその曲を流してやるんだ。世界のフィナーレにアディオスってね。どう? 洒落てるだろ?」

「なんだそれ」

思わず誠司から笑みがこぼれた。

「え? 笑うところかい? ボク、そんなにおかしなこと言ったかな?」

侑依は心底不思議そうな顔をして首を傾げた。

「いや、ごめんごめん。別に可笑おかしいわけじゃないんだ。なんていうか、西沢らしいなって思ったんだ。すごいね、西沢は。こんな状況になっても変わらない」

誠司は侑依のことも“綺麗なままの人”として北塚に知らせたかった。

「こんな世界だからこそ、さ。世界は今、どんどんありのままの姿に戻っていってる。世界が終わるその日、ボクたちは有史以来、誰も見たことのない純粋な世界を見ることになるのさ。そう考えると、途中で舞台から降りるなんてもったいないと思わないかい?」

誠司には侑依の言葉の意味がほとんど分からなかった。しかし、彼女が美しく、強い人間であることだけはこの上なくよく分かった。

「それにしても、彩花、少し遅くないかい?」

侑依が腕時計を確認した時、こちらへ駆けてくる人影があった。

「ごめん。遅くなっちゃった。母さんに見つかりそうになって」

冒険の仲間である最後のひとり、東条彩花であった。


「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃって。待った?」

三人で国道の方へと歩きながら、彩花が二人に尋ねた。ひと気の無い真夜中の通りにくまなく輝く満月の明かりが降っていた。

「そうでもないさ。ね、清水君」

「ああ。気にしないでよ」

「そう。ならよかった。それにしても、こんな時間に海まで行くなんて、本当に冒険みたい」

日ごろはおとなしい性格の彩花が心を躍らせているのが、誠司にもよく分かった。

「海か。確か、東条は夜光虫を見たんだってね。きっと、綺麗なんだろうな」

「うん。すごく綺麗だったよ。それをじっと見てるとね、なんだか世界の声を聞いてるような気になるんだ」

「世界の、声?」

侑依以外にもアーティストに近い感受性を持っている人物がいると知って、誠司は驚いた。

「声っていっても、本当に聞こえるわけじゃないんだけどね」

「へー」

もしかすると、自分にもその声が聞こえるだろうかと誠司は淡い期待を抱いていた。

「でもね、清水君。彩花が体験したのはそれだけじゃないんだ。絶叫タンクトップの門倉さんに死神の集会だよ? いかにも面白そうじゃないかい?」

侑依が興味深そうな笑みで問いかけた。

「絶叫、タンクトップに死神……」

強烈なインパクトの言葉に、誠司の興味が刺激された。


「あ、そうだ」

ようやく国道に出た頃、彩花がふと足を止めた。

「どうした? 彩花」

侑依と誠司もつられて足を止めた。

「あのさ。せっかくだし、二人とも、死神集会、見る? ここ曲がってまっすぐ行くとね。公園があるんだけど、そこで見られるよ。どう?」

誠司は恐怖と好奇心の間に揺れていた。しかし、そんな彼の隣でアーティストは目を輝かせていた。

「いいね。せっかくだし見ていこう。ね、清水君。なかなか見られるものじゃないよ」

「ああ。そうだね」

誠司はいよいよ覚悟を決めた。


 歩道橋のすぐ近くにある公園の植え込みから、誠司は侑依と共に集会の様子を覗いていた。黒ずくめの集団が砂場の中に密集し、親玉のような人物がベンチに上り、水晶玉のような物を空へ掲げた。

「アンゴルモアの大王よ。罪深き我らをゆるたまえ」

「赦し給えー」

死神集団が深く頭を提げながら復唱した。

「我ら滅亡の意図をむ者なり」

「酌む者なりー」

「選ばれた者の他、ことごとく消え去るは浄化のハルマゲドンなり」

「ハルマゲドーーン」

誠司はその異様な光景に圧倒され言葉も出ず、侑依は笑いをこらえるのに大変な苦労をしていた。その後ろから彩花が抜け出て、公園の入り口に立ち、死神集団に向かって声をあげた。

「わっ!」

死神たちは一斉に彩花たちの方に振り向いた。

「ちょっと、東条! 何してるのさ」

誠司は突拍子とっぴょうしもない彩花の行動に命の危機すら感じていた。

闖入者ちんにゅうしゃだ!」

死神たちはわらわらと駆け寄ってきた。

「東条、西沢、逃げよう!」

そう言ってはみたものの、足がもつれて上手くけだせなかった。そんな誠司を横目に、彩花は胸を張って立ち尽くしていた。彼女に組み付くかと思われた死神たちは、どういう訳か、公園の入り口で立ち止まったままであった。しばらく、彩花たち三人と死神集団が無言のままに対峙たいじしていた。

「二人とも、びっくりした?」

突然、彩花が悪戯いたずらな笑みを振りまいた。

「どういうこと、東条? なんでこの人たち、動かないの」

「あれ見て。なんか、線が引いてあるでしょ?」

誠司が彩花の差した方を見ると、石灰のようなもので引いたのであろう白い線が見えた。

「この人たち、あそこから外へは絶対出てこないんだ」

「そういうことか。清水君だけじゃなくてボクもすっかり驚いたよ。清水君、これは彩花に一本取られたね」

侑依がほっとしたように誠司に声をかけた。

「じゃあ、ドッキリは大成功ってことで、行こっか。コンビニで何か買ってこうよ」

先立って歩き出す彩花を呼び止める声があった。

「待て」

死神をかき分けて親玉が彩花たちの前まで歩み出た。真っ黒なロングコートに身を包み、顔には蝙蝠こうもりのようなマスクを着けていた。誠司は今月末がハロウィンに相当することを頭の片隅に考えながら固まっていた。

「何故、我々の祈りを邪魔するか。アンゴルモアの大王に祈りを捧げ、その意志を酌む者のみが助かるのだぞ。お前たちもその結界を越えて仲間となり、祈れ。助かりたいのであれば」

妙に甲高い、説得力のないような声であった。

どうやら彩花にとっても死神の親玉が口をきいたのは想定外のことであったらしく、誠司と同じような顔をして固まっていた。侑依だけが姿勢を正し、ポケットに手を突っ込んだまま親玉と向き合っていた。

「滅亡から助かりたいというのなら、私の手を取れ。我こそは覚醒したアンゴルモアの子孫、トンゴルモアである。さあ。私と共に世界を滅し、選ばれた者の楽園を創るのだ! ハルーーーマゲーーードーーーン!」

親玉が絶叫と共にロングコートの正面を大きく開いた。薄汚いタンクトップの他には何も身につけていなかった。何も、である。

 思わず目を反らした誠司の視線が彩花を捉えた。露出された下半身と向き合った彼女の顔が見る見る赤くなっていくのが街灯の明かりしかない暗がりでも分かった。どういうわけか、侑依は腹を抱えて爆笑していた。

「二人とも、行くよ」

誠司はほとんど反射的に二人の手を取って、駆けだした。


 三人は近くに合ったコンビニの駐車場で息を整えていた。

「ごめんね。二人とも、変なもの見せて」

彩花が蚊の鳴くような声で謝った。

「まさか、あんなことになるなんて。これまではそんなことなかったから、それで……」

「いいんだよ彩花。気にしないで。むしろボクは君に感謝したいくらいだよ。終末が発表されて以来、こんなに笑ったのは初めてだよ」

侑依はまだ笑いを止めることができない様子で涙をぬぐっていた。

「まあ、純化の過程にはああいう妙な信仰や選民思想のなりそこないみたいなものにに陶酔とうすいする連中も出てくるさ。さ、面白いものも見られたし、せっかくコンビニまで来たんだ。何か買っていこうじゃないか」

侑依は彩花を慰めつつ、先に立ってコンビニへと入っていった。誠司は未だ動悸の止まぬらしい彩花を連れて侑依の後を追った。



「らっしゃっせー」

明らかにやる気のない声が誠司せいじたちを迎えた。終末の深夜にもかかわらず、危険人物も無く、平穏に保たれているコンビニが、誠司には少し、妙にすら思われた。雑誌コーナーには一か月以上も以前の雑誌が並び、防災グッズの並んでいる棚には何もなかった。誠司たちはコーラとジャスミンティーとカフェオレを買い、アヒルグミを三つ買うとレジへと向かった。

「らっしゃっせー。東条とうじょうさん、今日はお友達と一緒っすか」

武藤むとうというネームプレートの店員が商品をスキャンしながら親しげに彩花あやかに話しかけていた。

「はい。学校の友達と」

「グループで深夜徘徊はいかいなんてワルっすね。あ、レジ袋つけますよね。千百六十四円っす。今日も海っすか」

武藤は慣れた手つきで形よくレジ袋に商品を詰めていた。

「はい」

「あれ?」

武藤がふと手を止めて彩花の顔を見た。

「なんかありました? 顔、強張ってますけど」

「いえ、その。ちょっと汚いもの見ちゃって」

「汚いもの? ゲロとかっすか」

「まあ、そんなものです」

侑依がき出した。

「ドンマイっすねー。お釣りっす」

彩花はお釣りを受け取りながら小さくため息をついた。そんな様子を見た武藤がおもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。

「そういや、誰におすすめするか迷ってたんすけど、最近すげーいい曲見つけたんでドンマイな東条さんにおすすめしますよ。合成音声の音楽とかって聞きます?」

「え、そうですね。時々」

彩花はそう返事をしながら侑依ゆいの方に目線を向けていた。

「すげーいい曲見つけたんすよ。このWってアーティストのBark Outバークアウトって曲」

そう言って武藤はスマホの画面を見せた。彩花が衝撃の表情で再び侑依の方を向くと、彼女は黙ったまま人差し指を唇にあてがった。

「これ、終末発表の直後にリリースされてるんですけど、なんていうか、すごいんすよ。なんか怒りとか破壊みたいなイメージで。俺、よく合成音声の音楽聞くんすけど、こんなにヤベエ曲は初めてっす。しかも、これ作ってるの高校生らしいんすよ。いるんすね、世の中には天才ってやつが」

武藤はあくまでもダウナーな雰囲気をくずすことなく、静かな熱意をたたえていた。

「まあ、良かったら聞いてみてください。誰かと共有したくて」

そう言いながら武藤は商品の詰まった袋を彩花に渡した。


「すごいね、ニッシー。武藤さん、あんなに褒めてたよ」

死神の公園を大きく迂回うかいして海へと歩きながら彩花が晴れやかな表情で侑依に語りかけた。

「え、さっきあの店員さんが言ってたのって、西沢の曲なの? すごいね」

二人に注目された侑依は少し照れくさそうにほおいた。

「こんな近くに聞いてくれてる人がいるなんて、ボクも驚いたよ」

「武藤さん、ニッシーのこと天才って言ってたね」

スキップをしながら彩花は侑依が褒められたことを自分のことのように喜んでいた。

「ボクは別に天才じゃない。そもそも才能なんて言葉自体あてにしていないからね。ただ、好きなことを好きなようにやっただけさ。でも、ボクの音楽が誰かに届いてよかった」

誠司にはポケットに手を入れたままそうつぶやく侑依の姿が、やはり、天才的アーティストという称号に相応ふさわしいと思えた。

 秋の虫が鳴く、曲がりくねった道を三人は海の方へ。高い坂から見晴らすと、夜の海が闇のように染まって見えた。

「夜の海って、なんだか少し怖いような気もするね」

誠司はふいに自らが小惑星落下による終末を前にした地球に住んでいるのだということを思いだした。インクがにじみでるように不安が彼の心を塗りつぶしていった。

「普段、ボクたちは昼間の海しか見ないからね。見慣れていないというだけさ。慣れていないことに恐怖を感じるのは当然だよ。大丈夫。世界はまだこのままるさ」

アーティストは何処どこまでも他人の心情を察知することに長けているようであった。


 誠司たちは坂を下りきり、踏切を渡ると堤防ていぼうを抜け、浜へと出た。波打ち際まで歩くと彩花が声をあげた。

「ニッシー、清水君。ほら、光ってるでしょ」

誠司が彩花の指す方を見ると、寄せては返す波間に青白く光っている粒が見えた。周囲に人工的な光源がないため、それはより鮮明に幻想的な魅了を辺りに振りまいていた。

「すごい」

誠司は感嘆かんたんを漏らしたきり、声を出すことなく波間に見入っていた。暗闇の中に光が漂う様子は、彼に宇宙を想起させた。終末が訪れているにもかかわらず、ありのままの自然は愛おしい程に美しかった。

「東条。すごいよ。こんな光景、見たこともない。ありがとう。教えてくれて」

誠司が彩花の方を見ると、彼女は目を閉じ、大きく手を広げたまま、夜光虫の海と向き合っていた。

「東条、何してるの」

誠司が問いかけても、しばらく彩花は身じろぎひとつせず黙っていた。

「声を、聞いてるの」

「声? 世界の声ってやつ?」

「そう」

耳を澄ませても、打ち寄せる波の音ばかりで誰の声も聞こえなかった。

「なあ、西沢。声、聞こえる? なんのことかな?」

「さあ」

感受性の研ぎ澄まされたアーティストにも今の彩花の心は分からないようであった。


「彩花はしばらく動きそうにないし、座ろうか」

侑依にうながされ、誠司は手ごろな流木を見つけると、彼女と並んで腰かけた。暗闇の中、吹き付ける肌寒い風が潮の香りを運び、波間では依然いぜん小さな青白い粒が発光しながらただよっていた。

「ねえ。西沢。君にはこの夜光虫の海がどう見えるの」

誠司はアーティストの視界にこの絶景がどう見えているのか気になっていた。

「君が見ている景色と変わらないさ。幻想的で、美しい」

侑依は目線を波打ち際にえたまま答えた。

「そうなの? 俺はてっきり、アーティストには世界がもっと違って見えるんだろうと思っていたけど」

「見る人によって世界が変わったりはしない。世界は常に存在しているだけさ。もっとも、そこから何を感じるかは、個人の感性によるけれどね。別にボクが作曲をするからといって特別なことは何もないさ。在るがままの世界を、ボクはただ在るように曲にするだけ」

「やっぱりすごいや。西沢は」

誠司は星々のまたたく空へ向けて、何かを投げ出すようにして言葉を放った。

「ボクはただ、それをせずにはいられないからそうするだけ。さっきも言ったように何も特別なことではないんだよ」

そう微笑む侑依のほおが月明りにあわく照らしだされ、いつか資料集で見たアテネの彫像のように見えた。

「俺にも、そんなものがあったら、少しは不安じゃなくなるのにな。俺には、何もない。世界の終わりを前にして、どうしていいか分からないんだ」

今、誠司は終末が発表された事実をうらんでいた。いっそのこと何も知らされずに終わりを迎えられたならどれだけ幸せだったであろうかと。

「清水君に何もないなんて、ボクはそんな風には思わないよ。社会が作った規則のかせを外れたボクたちに強制のもとですべきことなんて何もない。あるのは自身の衝動だけ。清水君は清水君であればいいんだ。儚くも完全な自由を得たこの世界で、君はひとつの生命として生きるんだ。ねえ、君は何が好きだい? どんなことに心が動く?」

「俺の、好きなもの……」

自己の内面を見渡してみても、それらしい答えは何も見つからなかった。ただ、終末に対する恐怖と不安がタールのように沈殿ちんでんしていた。

「よく、分からないや。それを見つけないとね」

誠司は好きなものすら答えられない己の空虚さに落胆していた。

「大丈夫だよ。清水君。既に答えは君の中にあるはずさ。きっと、君が気にも留めないようなことこそ、君にとって大切なものだよ」


「二人とも、おまたせ」

何かの声を聞いていたという彩花が二人のもとに駆け寄ってきた。

「どうだった? 声とやらは。どんなことを言っていたんだい」

侑依が立ちあがるのにつられ、誠司も腰を上げた。

「あんまり言ってることは変わらないかな。世界が絶対に滅んじゃうとか、このまま世界は混乱していくだろうとか。まったく、人類をなめてるよね」

彩花は随分とあっさり言ってのけたものの、既に分かっていた筈の結末に超自然の認印みとめいんが押されたようで、誠司には恐ろしかった。

「じゃあ、彩花も戻ってきたことだし、皆で乾杯といこうか」

侑依がコンビニの袋から取り出したコーラとカフェオレを銘々めいめいに配った。

「じゃあ、乾杯」

彩花の掛け声に、三人がペットボトルで乾杯した。誠司は胸に一瞬間、晴れ間が見えたことを自覚した。

「ニッシーと清水君は何話してたの?」

「今後について、かな」

侑依がジャスミンティーのキャップを閉めながら答えた。

「今後って、清水君の? 清水君はどうするの?」

「それが、さっきまで分からなかったんだ。自分が何を好きなのかさえね。でも、今、少し分かった気がするよ」

「興味深いね。教えてよ」

侑依と彩花が誠司の回答を期待の眼差しで促していた。

「俺、多分、誰かといるのが好きなんだ。今日もこうやって東条や西沢と冒険してて、何度も終末の恐怖を忘れられた。それだけじゃない。北塚と話してた時だって食堂で白川さんのカレーを食べてた時だって、少しの間でも不安が和らいだんだ。これから、西沢の新しい曲だって聞きたいし、こうやって三人で冒険にも出かけたい。ただ、不安から逃れるためだけのことかもしれないけど、俺はこれからも誰かと思い出を作っていたいよ」

彩花と侑依は同時に満足そうな表情でうなづいた。

「そう。なら、清水君はその感情に忠実に動けばいいさ。ボクと彩花でよければいつでもお供するよ。ね、彩花」

「うん。私もひとりでいる時間が多いと不安になっちゃうから、清水君の気持ち、わかるような気がする。じゃあ、清水君。これからもよろしくね」

終末の迫った深夜の海辺で夜光虫が漂う様子を眺めながら、三人は長い時間、語り合っていた。


「ねえ、清水君」

帰り道、踏切を渡ったところで侑依は誠司に声をかけた。

「もし君がこの先、不安に取り殺されそうになった時は、自分自身が偉人であることを思いだすといいよ」

「俺が、偉人?」

思いもよらない言葉に、誠司は驚いた。

「だってそうじゃないか。世界の終末を知って、不安と恐怖に押しつぶされながらも誰も傷つけず、犯しても誰もとがめない筈の罪も作らず、君として生き続けているんだよ? こんな人物を偉人と思わずしてなんとするんだい。そしてそんな偉人は勇敢ゆうかんにもこれから終末を迎える世界を最後まで生き抜くんだ。ボクはそんな偉人がこれからどんな道を歩むことになるのか、楽しみだよ」

投げかけられた笑みが胸に刺さり、沈殿していた粘液を浄化するような気がした。


 三人は連絡先を交換し、それぞれの家路に就いた。誠司は家の戸締りをすると、音をたてないように自室に戻った。ベッドに身体を預けると今日の出来事が脳裏を駆け巡った。

「なんだか、すごい、いち日だったな。いつも通り白川さんのカレーを食べるだけかと思ってたら、東条と西沢に会って。二人とも、何も変わってなかったな。変わったのは俺だけだったのかな。不安で仕方なかったからな。そうだ。西沢にそんなことも見透かされてたんだ。やっぱアーティストってすごいな。そして三人で夜の街を歩いて、死神のリーダーに変なもの見せられて。やばかったな。そう。それからコンビニへ行って。あ、コンビニの人が西沢の曲知ってたんだった。西沢の曲、聞かなきゃ。なんてアーティスト名だっけ。曲名は……」

思いだす程に記憶が薄れてゆく実感が湧きあがってきた。

「駄目だ。これを忘れちゃ駄目だ」

誠司は棚から新しいノートを取り出すと表紙に“終末日記”と記した。彼が書き始めたのはこんな内容であった。


 世界はあと少しで終わってしまうらしい。僕はこれから毎日、この日記を書こうと思う。終末が知らされてから、人々はおかしくなっていった。僕はそれが普通なんだと思っていた。でも、違った。終末を知っても変わらない人や、善くあり続けようとする人たちもいた。僕はそんな世界を生きる人間として、世界の記録をとりたい。誰かに見せる日が来るはずもないことは分かっている。でも、世界の様子を、生き続ける人のことを、記録に残したい。そうせざるを得ない気がする。

 まずは、今日のことから。今日は食堂で東条と西沢に会って、深夜の冒険に出かけることになった。


 誠司は日記をつづりながらあらゆる注釈ちゅうしゃくを付け加えた。彩花と侑依に会うまでの経緯けいい、北塚の家族に何があったのか、白川がどうして毎日カレーを振舞っているのか、どれくらいの頻度ひんどでビーフシチューが出てくるのか、彩花にだけ聞こえるという世界の声とは、侑依の不動の作曲への意志。克明こくめいに、克明に、克明に! ペンを走らせ続けるうちに、ひとつの書きらしもあってはならぬという言い知れない義務感が彼を支配していった。

 滅びゆく世界を記録するんだ。

 全てを忘れて、彼は明け方までかかって記録を続けるのであった。ノートのページはまだ幾らも残っていた。

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短編集 不触世界の部分集合 時津橋士 @kyoshitokitsu

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