世界システム

 ゆうはその日、正午を過ぎてから起床した。世間の勤め人からすれば、大層な寝坊であったが、一般的な理科系の大学院生としてはまずまずであった。

 また今日がきてしまった。

 そんな思いと共に鉛のように思い身体を無理に動かし、寝床からいずりだして歯を磨いた。ペットボトルやビニール袋、衣服、書類が足の踏み場もない程の量で床を埋め尽くしていた。掃除をする、という考えにすら至らなかった。彼はただ、苦渋くじゅうしか待ち受けていない日々に引きずられるようにして生きていた。寝ぐせのついた髪を直そうともせず、ジーンズに履き替えてかばんを持ち、外に出ようとした彼の足にビニール袋が引っかかり、中に詰まっていたゴミが散らばった。それを視界に入れた途端、胸の奥底に粘性ねんせいをもって溜まっていたヘドロのような激情が爆発しそうになるのを感じた。悠は戸棚を開け、ジンを取り出すと、水垢みずあかのついたショットグラスにそれを注ぎ、一気に飲み干した。悠は大学に到着するまでの間、いっそのことトラックが自分をはね飛ばしてくれたらと思わずにはいられなかった。


 理学部棟の六階にある研究室のドアを開けると、一学年上の谷原がパソコンに向かっていた。

「お。板垣君。今日はちょっと早かったね。研究のやる気が出たのかな」

「ええ。まあ」

悠は機械的に発声されようとする声帯を無理に動かして愛想を付与した。所定の席につき、パソコンを広げる。開きたくもないファイルを開き、近々行われる研究発表のためのスライドを作成し始めた。関数を慎重に変形し、不等式評価を与える。省略すべきところは省略しつつも、文脈を跳躍せぬように注意する。もし、わずかでも不可解を与える表現をすれば、教授によるチェックの際には必ず怒号が飛んでくる。悠はひたすら、おびえに支配されながら作業を進めていた。

「どう。あれから進んだ?」

ふいに後ろに声を聞き、悠は飛び上がらん程に驚いた。

「そんな驚く? ま、いいや。で、どれくらい進んだの。チェックしておいてあげるよ。板垣君が書いたのそのまま先生に見せる訳にいかないでしょ」

谷原は悠のパソコンの画面を覗き込んでいた。

「えっと、三頁くらいしか進んでなくて」

「ええ? たった三頁? 昨日一日、何してたの」

谷原はわざとらしく驚いた声を出した。

「板垣君、分かってる? 発表はもう一週間後だよ? 少しは危機感持ってやらないと」

「はい」

ひたすらに不快だった。谷原は悠に目もくれず、彼の作成したスライドを見ていた。

「あれ。ここ、間違ってる。え? なんでこんな間違い方する? うーん」

しばらく考え込んでいた谷原はやがてひとつ、ため息をついて黒板に数式を書き始めた。

「はい。これがその式でしょ。これをどう評価したの? 書いて」

谷原はそう言いながら、悠の手にチョークを握らせた。しかし、悠にはどうすることもできず、黒板の前でただ立っていた。

「ほら、どうするの。さっと書いて! さっと!」

これが「さっと」かけるくらいなら僕はここに立たされていない、とは、言えなかった。何も分からないまま、ただ思考停止の時間だけが流れた。谷原は悠の様子を十分に観察し終わると、その明晰めいせきな頭脳でこれ以上待つことは無意味だとさとったらしく、またもや大げさにため息をついた。

「ここの部分をこれで評価するの! するとこうなって、最終的な評価はこう。これ、学部生のレベルだよ。分からないの?」

谷原の言っていることはよく分からなかったが、悠はやっとのことで

「ああ」

と声を出した。

「ああ、じゃないよ。もっと勉強しないとやばいよ。来年からひとりになるんだし、誰も助けてくれないよ。今のうちに身を削って地獄見といたほうがいいんじゃない?」

そう言うと谷原は何事もなかったかのように自分の席へと腰を下ろした。

「さて、俺も自分のことやろ」

悠はチョークを持ったまま、黒板の前から動かなかった。ひどく、惨めだった。


 悠はパソコンに向かい、作業をしているようなポーズを見せたまま、考えていた。どうして自分はこうも勉強ができないのか、勉強ができないのにどうして学部で一番厳しいと噂の研究室に所属することになってしまったのか、どうして指導してくれる先輩に憎悪を感じてしまうのか。全てが嫌であった。自分の情けなさが身に染みて分かった。流れるべき涙は、どういう訳か一滴も流れなかった。


ガタンと音がして研究室のドアが開いた。悠が反射的にそちらの方を見ると、谷原の同級生、佐藤であった。

「ただいまー」

「佐藤君、どうだったパソコン。元通りになった?」

「うん。完璧に修理できてますって言ってた」

「良かったね」

「あ、そうそう。佐藤君、聞いてよ。あの黒板の数式の評価あるじゃん。板垣君、あれできなかったんだよ」

平和な日常会話を、谷原が乱した。藤はその数式を見て目を丸くした。

「え? あれって、学部生の授業でもやるんじゃないの?」

「でしょ? もうお兄さん心配だよ。来年から俺ら居ないのに、板垣君、この研究室で生きていけるのかな」

谷原が哀れな声を出し、ふたりは悠の方を見た。彼はたまらず、目を逸らした。

「あ、そういや板垣君、あれ出した?」

谷原が問いかけた。

「あれって、なんでしたっけ」

「ほら。アブストラクト。次の発表の要旨ようしをまとめた紙。先生に提出した?」

「あれなら昨日の夜中に提出しました」

突然、扉をひときわ大きな音をたてて開けた者があった。この研究室の主、松尾教授であった。少し背の低い、還暦かんれきを超えた彼は猛禽類もうきんるいのような目で中にいる三人の顔を見渡した。

「板垣! 来い」

そう言い残した彼が、そそくさと隣接した部屋に帰っていった後には緊迫した空気だけが残された。谷原と佐藤が悠をあわれむような視線を送っていた。


「座れ」

いつもより低い調子の教授の声に、悠は己の運命をうらなっていた。松尾は背もたれに身体を預けたまま、目を閉じ、眉間にしわを寄せていた。重苦しい沈黙の中、松尾が乱雑に机の上に悠が昨夜提出したアブストラクトを置いた。

「いつまで経っても成長せん奴やな、お前は」

本場仕込みの関西弁でそう言いながら、松尾は紅いボールペンを握った。

「日本語になってへんやないか。なんや“本講演の目的はこの事実を明らかにすることです”て。ちゃうやろ! 講演の目的は明らかにした事実を発表することやろが! そんなことも分からんのか。中学生でももっとましな文章書きよるぞ。中学生以下かお前は」

松尾はアブストラクトの文字列を赤ペンで消した。

「それから、ここ。“のように予想されるが”てなんや!」

声を張り上げ、悠の顔をにらみつける気迫に、彼は冷静な判断力だけでなく、まともな思考をも失くしてしまった。身体中の血が一斉に重力に従うように足元に集まり、不安と恐怖だけに支配されてしまった。

「“が”ってなんや!」

“が”の一字が数学の巨匠を激高させていた。

「その。そのように予想されていますけれども、それが正しいのかを検証するという意味で……」

「“が”は逆接以外には使わんわ!」

確実に部屋の外まで響き渡る大音量で叫び、平手で机を強く叩いた。

「何もかもなっとらんやないか。もう見る気がせん。こんなもんを俺のとこに持ってくるな。時間の無駄じゃ」

松尾は心底あきれたという風に首を振ると、二、三何かを書き加えてアブストラクトを悠の方へ投げた。

「失礼しました」

赤にまみれたアブストラクトを持って部屋を出て、研究室に戻ると谷原と佐藤がにやつきながら待ち構えていた。


「でね。その小学校六年生の子にさ、次は微分びぶんを教えるんだよ」

三人で遅い昼食をとることになり、人のまばらになった学生食堂で谷原が誇らしげに言った。

「小学生で微分ですか。すごいですね」

そう答える悠は無い食欲を無理に奮い立たせて白米を口に運びながら、主菜に生姜焼きを選んだことを後悔していた。佐藤は姿勢よく、黙々とサラダを食べていた。夏休みが終わった通りには、大学生たちが行き交い、空は秋晴れを予感させるような澄んだ色であった。悠はそんな景色を囚人のような心持ちで眺めていた。

「あ、こんにちは」

声の方を見ると、隣の研究室に在籍ざいせきする悠の同級生、前島が立っていた。彼は学年でも一、二を争う程、優等な学生であった。

「おー。前島君。まあまあ、佐藤君の隣座りなよ」

前島はからあげ丼の乗った盆を置いて佐藤の隣に腰かけ、悠と目礼を交わした。

「そういえば松尾研はもうすぐ研究集会に行くんでしたね。何処に行くんです?」

「中国。前回と同じ大学」

谷原は淡々とした調子で答えた。

「へー。中国。海外で発表なんてすごいですね。やっぱり、英語で発表するんですか」

前島はからあげ丼に手を付けることなく、興味深そうに尋ねた。

「うん。全部英語。質疑応答もね。何だったら、松島君も次回参加する? 前島君ならできるよ。俺から先生に言っておこうか?」

勝手に谷原は話を進めようとしていた。佐藤も黙って頷いていた。

「いやいや。僕なんか」

茶を濁そうとする前島を、谷原は逃さなかった。

「できるよ。前島君なら。だって板垣君にだって一応はできてるんだから。ね?」

悠は力無く頷きながら、嫌な予感がすると身構えていた。

「あ、そうだ。前島君、聞いてよ」

悠はうつむいて食べたくもない生姜焼きを口にねじ込んだ。

「板垣君ね、学部生レベルの不等式変形もできないんだよ。いやー俺困っちゃってさ。前島君みたいな優秀な学生が後輩だったらよかったのに」

箸で挟んでいたからあげを取りこぼしそうになる勢いで前島は否定を表出した。その時、悠の中で小さな泡がひとつだけ弾けた。

「すみませんね。僕みたいなのが後輩で!」

悠は反射的にそう叫んでいた。数学に関しては誰にも引けを取らない優秀な頭脳を持った谷原は一瞬、何が起きたのか分からないという表情で固まると、佐藤と共に笑いあった。前島だけが、さも居心地の悪そうな顔で戸惑っていた。


 研究室に戻り、発表のためのスライドを作っている風を装っていると、ドアが開いた。

「茶」

教授の一声で恒例のティータイムが開始となった。悠は席を立ち、教授の部屋へと入った。人数分の珈琲カップを用意し、適切な分量の珈琲豆を最適な加減に自動ミルで挽いた。彼はこの研究室に配属となってからこの作業ばかり上手くなっていた。フィルターに粉を詰め、ドリップを開始する。

「ケーキは冷蔵庫に入っとる」

「はい」

悠は冷蔵庫から教授が今朝、近所の名店で買ってきたのであろう開店直後限定のケーキセットを取り出した。

「発表の準備はできとんのやろな」

教授はパソコンから視線を外さず尋ねた。

「はい。もうスライドも完成間近です。それよりも僕は発表自体の方が心配で」

嘘を誤魔化そうと、悠は少しだけ話題をらしたつもりであった。

「何が」

「ええ。大勢の前で発表するのは未だに緊張するものですから」

「まだそんなこと言うてんのか」

あきれ、笑われることを想定していた悠はその声が妙に低いことに気づき、教授の方を見た。全身の血の気が引いてゆく思いであった。

「まだそんなこと言うてんのか! 学部生の頃から何回、海外に連れてってやったと思ってるんや! ほんまに成長せん奴やな」

とうとう教授は椅子から立ち上がり、悠の目の前まで詰め寄った。

「お前は分かってんのか? 俺は研究費でお前らを連れてってやってんのやぞ。お前はいつまでそんな弱いこと言うてんのや。お前だけやぞ成長してへんのは」

全身の筋肉が硬直する中、悠はただ後悔していた。

「隣の部屋で作業してるお前の先輩ら皆、ちょっとでも成長しとるわ。そら、知っとることは針の先くらいのことかもしれんけど、立派にやっとるやないか。それをなんや、今になってまだ緊張らしとんのか。ほんま、いつまも成長せん奴や」

松尾教授は過去最大のため息をつくと、隣の部屋へと入っていった。

悠ひとりが残された部屋に珈琲の香りが立ち込め始めた。


「やっぱ、ここのケーキ美味しいですね。いつもありがとうございます」

谷原は大きな口で咀嚼そしゃくし終わってからそう言った。いざティータイムが始まってみると、教授の表情は柔らかくなり、冗談まで飛び交うようになった。悠は胸をなでおろすような心持ちで珈琲をすすっていた。

「あ、そうや。今度の研究集会では中国で発表した後、向こうの学生をこっちにつれてくるからな。板垣、市内を観光させたれ」

「え、僕がですか」

予想外の指名にケーキを食べる手が止まった。

「大丈夫ですかね。板垣君に任せて」

佐藤が本気で心配していた。

「こいつはアホやし、抜けてて頼りないけどな。ま、気遣いだけはできるからな。数学にもそれくらいの気遣いできたらな」

教授にこやかにに、サラリと言ってのけた。悠の心に忘れかけていた自信が芽吹いた。これこそ、悠がどれだけけなされようと、松尾教授を嫌いになることができない理由であった。この人は何処どこかで自分を認めてくれている。その期待に応えなければ。谷原や佐藤とは決定的に違う本質を悠は知っていた。松尾教授の研究室では過去に幾人も脱落者が出たという話があり、それが単なるうわさでないことを、悠は知っていた。そんな話が出る度に、松尾教授は

「心の弱い奴らやったな」

と切り捨てるのであった。悠は彼らの選択を決して間違っているとは思わなかったが、自分が教授にそう切り捨てられることを恐怖していた。だからこそ、彼は今でもここに留まっていたのだった。


 ティータイムが終わり、食器類を洗い終わった悠は再びスライド作成と市内観光の準備を進めた。やがて夕暮れになり、彼は松尾教授が帰宅のため、自転車置き場まで行くのに、教授のカバンを持って付き添っていた。鞄を籠に乗せた途端、教授の口から戦慄せんりつの言葉が出た。

「明日、お前の話聞くわ。発表の準備、ある程度できてるんやろ」

はい、と発声する悠の視界から色が奪われていった。“話聞く”とはすなわちセミナー、教授に一対一で研究の進捗状況を報告するということであった。それは約束された怒号どごう叱責しっせき、そして今夜は夜をてっしてその準備をしなければならないことを意味していた。

「ほな」

教授の乗った電動アシスト付き自転車の後ろ影を悠は放心状態で見送っていた。

「ふーん。じゃ、今日は眠れないね」

研究室に戻り、今起きたことを話すと、谷原はわざとらしく淡々とした口調で言った。それが悠のしゃくさわった。佐藤はひと言

「まあ、頑張って」

とだけ言った。


 夜が更けてからも、ゆうはひとり、研究室に残り、作業を続けていた。夕食は、とてもとる気にならなかった。明日報告する内容をまとめ、数式を黒板に書き写そうとする手が震えて止まらなかった。いかに精巧な報告をしようと、怒号が飛んでくる未来しか見えなかった。単なる恐怖ではない、もしかしたら教授が自分に抱いてくれているかもしれない小さな期待をすら裏切ってしまうのではないかと考えると、不安でたまらなかった。彼は常備じょうびしているカフェインの錠剤を四粒、飲み込んだ。別段睡魔に襲われているわけではなかったが、それを飲むことで一時的に集中力が高まることを彼は知っていた。時間が経過すると不安感が増幅することも知っていた。

 ひと通り数式を書き並べると、悠はその内容や論理に矛盾がないかを神経質になって確認した。しかし、その行為は自ら死地に近づくことでもあった。神経質になればなるほど、もし、こう聞かれたら、こう言われたらという想定ばかりがふくらみ、明日の朝までにそれらを解消することは到底、不可能であると知るばかりであったのだ。

悠は椅子に座ったまま頭を抱えた。予想する通りの、あるいはそれ以上の言葉が、確実に明日、自分をさいなむ。恐怖と不安が募り、思いださなくともよいことばかりが思いだされた。怒号、嘲笑ちょうしょう、叱責、劣等の烙印らくいん、応えられない期待、不安、自己嫌悪、苛立ち、できない努力、失敗。何もかもが嫌になり、吐き気すら覚えた。トイレに行って洗面台に吐こうとしても、胃液すら出なかった。直ぐにでも履歴を書き換え、別な分岐ぶんきを歩んだ自分になりたかった。


 この地獄を生き抜く術を、悠は知らなかった。彼の身体は不随意ふずいいに研究室の窓辺に吸い寄せられた。このとうの高所にあたる階の窓は一様にわずかばかりしか開かないはずであったが、この部屋の窓だけは、何故か制限がなかった。悠が窓を全開にすると涼しいが吹きこんできた。眼前に広がる地方都市の夜景が悠には別世界のように思われた。六階から見下ろす景色に人通りは無かった。

 悠はしばらく、黙って眼下を眺めていた。完全なる解放への道が通じているように思えた。残されたたったひとつの逃避行に身をゆだねようとしたものの、落下の恐怖がありありと迫ってきた。その場にしゃがみ込んだ悠はカフェインの副作用による吐き気をこらえながら考えた。

「怖い。けど、今僕が感じている恐怖に比べたら、なんてことはないのかも。この恐怖は今日乗り越えても、明日もある。明後日も、次の日も、その次の日も。今、恐怖を乗り越えれば、それから解放される。なら、乗り越えないと。大丈夫、きっと怖いのは一瞬だけだ」

悠は手を広げ、窓枠をつかむと、目を閉じたまま、一気に身体を空中へ放り出そうと腕に力を込めた。その時。

ガチンと巨大な歯車のみ合うような音が町中に響いた。

悠の腕から力が抜け、彼はその音の出所を探るように空を見渡した。

「なんだ、今の」

明らかに空耳ではない大きさの音に悠の不審ふしんが増幅していると、やがて町を覆いつくす程の大きさもあろうというモーターの駆動する音が聞こえた。徐々に回転が速くなるように高まってゆくその音はついに悠の可聴域かちょういきを超えたかのように静かになった。

「止せ」

空から拡声器で叫ぶような声が聞こえた。悠は一瞬間、ストレスのために自分が発狂したのではないかと疑った。しかし、それを否定するかのように声は続いた。

「君だ。理学部棟の六階から飛ぼうとしている君だ。止せ」

「僕のこと?」

悠は律義りちぎにもこの超常的音声に返答した。

「そうだ。君だ。良かった。音声の伝達に不具合は無いようだ。死ぬのは止せ」

「誰?」

悠は小さな声で呟いた。声の主にそれは届いたとみえ、返答が降ってきた。

「世界システムの管理者だ。ちょうど今、それを起動させたところなんだ。良かった。間に合って」

「世界システム? 何のこと?」

悠は再び、自分が発狂したという可能性を信じ始めた。

「君のいる時点では存在しないシステムだ。私のいる時間軸で、丁度、先程完成したところなんだ。このシステムは世界のあらゆる時間や空間に干渉かんしょうできる。世界が明らかに間違った分岐ぶんきに進もうとするのを阻止そしするためにね」

壮大そうだいな話を、悠は半分以上、信じきれないでいた。

「時間や空間に干渉? とんでもないことだ。それに間違った分岐って?」

「君が自ら死を選択するという未来のことさ。世界から君が失われることはとんでもない損失だ。だから、死ぬな」

「僕が死ぬことが、損失」

悠の脳裏に浮かんだ数々の言葉と景色が自嘲じちょうを生んだ。

「そんなわけないだろう! 何もできない、誰の期待にも応えられない僕が!」

「今の君に何ができて、何ができないのかなんて問題じゃない。ましてや誰かの期待に応えられるかどうかなんて、どうでもいいことだ。大事なのは君が生きるという選択をすることだ」

声は落ち着き払った様子で、はっきりと告げた。しかし、悠の意志は固かった。

「僕にとっては大事なことなんだ」

そう言いながら、悠の目には涙がまり始めた。

「君の状態は、私もよく知っているつもりだ。だから、この意見がぐには君に受け入れられるはずもないことだって、分かってる」

くやし気な声はしばらくの間止んでいたが、直ぐにまた降った。

「教えて。今の君にとって、君自身は本当に何もできない?」

「うん」

「だから死ぬの?」

「うん」

「他に死ぬ理由は?」

「怖くて、苦しい。逃げ出したい」

悠のほおを涙が伝った。久しく忘れていた感覚だった。モーターの音が鈍ったのかと思う程の重低音が響いた。それはどうやら声の主の唸り声であるようだった。

「ひとつずつ片付けよう。先ずは恐怖と苦しみからだ。私から言えることはひとつ。世界はそんなせまい研究室の中だけじゃない。広い世界には、君が勝手に思い込んでいるテンプレートの例外が幾らでもある。逃げようと思えば、君は何処へだって逃げ出せる。忍従にんじゅうの果てに君が自ら死を選ぶくらいなら、そこから逃げ出せばいい。もちろん、言う程簡単じゃないのは分かってる。でも、可能性はあるんだ。もちろん、あと少し、忍従するって手もある。死ななくとも、いいんだ。いいかい。自殺は悪だ。間違ってる」

声は強い意志を帯びて響いた。

「そんなの、あんまりだよ。こんなに苦しいのに」

悠の涙声は蚊の鳴くような音だった。

「分かってる。私だって、苦悩の果てにその選択肢を選んでしまった人やそうするしか道がなかったという人を知らない訳じゃない。そんな人たちにとって死は救済にすら思えただろうね。その人たちの安寧は守らなくちゃいけない」

声は悔しそうに息を乱していた。目の前の町はまるで何事も起きていないかのように凪いでいた。

「でも、君はまだ、生きてる。私は生きている人に自殺を美化するような言葉はかけられない。こんな言葉はその苦しみを間近に体験していない偽善者の言葉に聞こえるかもしれない。そうだとしても、なん度だって言うよ。自殺は、悪だ。その選択をしてはいけない」

悠はその場に崩れた。

「でも、こんな僕が生きてたって、なんにも……」

「そう、次はそこだ」

声が被せるように響いた。

「君は自分に何もできないと、そう言ったね。じゃあ、その。なんだ。もし、そうでないと分かったら、死なないでくれるかい」

声は何かを言いよどんでいるようであった。

「さあ」

悠がそう返すとしばらく、うーん、という声がしていたが、やがてひそめた声でこう続けた。

「ここから先のことは内緒にしておいてね。ばれるとまずいから。それに詳細までは語れない。こちらにも事情があってね」

かなりの音量で降る声に内緒も何もないだろうと、悠は反論しなかった。

「私がいる、この世界。君が生きるという選択をしたその未来の話だ。そこでの君は今、僕がこうして語りかけている世界システムの設計に携わっている重要な人物だ」

「僕が、設計?」

他の世界に干渉するという、とてつもないシステムの設計に自分が関与しているなどと、悠にはとても信じられなかった。

「システムといっても、これは物質世界の機械の話じゃない。精神的深層で行われる研究と開発だ。世界は常に複数の可能性を帯びて同時に存在している。でも、間違った分岐が多く発生すると、正しかったはずの世界へ向かう確率はゼロに収束して、こちらの世界は消える」

理科系の大学院生の脳でも、処理が追い付かなかった。

「つまりね。これは私たちのためでもあるんだ。君が今死ぬと、私たちも消えるかもしれない。そして、世界のそんな構造を探り当て、精密に構造を研究し、世界システムを実用化に結び付けた人がいる。その人はひたすら、過去の自分と同じような人を生まないためだけに、研究してるんだ。もっと未来の世界では世界システムで大勢の人が間違った選択をせずに済んだという報告もある。ね、君。これがどれほど偉大な事か分かるかい? 開発チームのリーダーであるその人の名前は、板垣悠。君だ」

時が止まったかのような衝撃が悠を撃ち抜いた。

「僕が? そんなの、嘘だ」

「嘘だと思うなら、確かめてみればいい。生き延びるんだ。生き延びた君を観測すると、どのような分岐を選んだとしても、必ず、この研究に携わることになってる。あらゆる形でね。そして、君の大規模な――チームのメンバーもまた、――だ。世界に沢山――。彼らは――。私はこれから、そんな人たちに――ステムを使って語りかけるんだ」

徐々に、声にノイズとモーターの鈍い音が混じるようになっていた。

「あれ、試運転――接続が安定しない。接続が――れそうだ。いいかい。君、いや板垣リーダー。――誤った選択をしな――。どんな手を――もいい。――生き延び――。君に幸せな――あることを、私は――。だから、どうか――」

声は途絶え、モーターの音も消えた。近くの道路を車が行き交う音が悠に認識され始めた。彼はしばらく、その場に座り込んだまま動かなかった。

「そんなの、ありえない」

そう口にしながらも、彼には今の話を何故か否定しきれなかった。これ言葉が己の発狂によるものなのか、真実であるのか、気になり始めていた。


 涙をぬぐった悠は落ち着いて、窓を閉めた。世界にある超常的な現象を前にして、明日の怒号に対する恐怖がほんの少し、和らいだような気がした。

「どれだけやっても、結局怒られるんだよな。なんだよ、世界システムって」

急に様々なことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。

悠はパソコンを閉じ、研究室の電気を消し、帰路についた。見上げた夜空は何処までも広く、彼を包み込んでいた。いまだ恐怖と不安を抱える彼は、今、世界の分岐を正しい方へと導いたのであった。

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