終末絵図(侑依の場合)

  終末絵図(侑依の場合)

 西沢侑依ゆいは午前八時きっかりに彩花あやかの家を訪れ、チャイムを鳴らした。中から返事が聞こえ、しばらくは厳重なドアロックを解錠する音が聞こえていた。やがて、制服をまとった彩花がひょっこり顔をのぞかせた。

「ニッシー。おはよ。なんか、久しぶりだね」

「やあ、彩花。一か月ぶり、かな」

二人は短い挨拶を交わすと、ひと気の無い朝の住宅街を歩き始めた。

「いきなりニッシーからメッセージきてびっくりした。それも急に学校行こうなんて。どうして?」

「どうしてって、ボクたちは女子校生だよ? 学校に行くのは当り前さ」

侑依はショートカットの後ろに手を組みながらそう答えた。

「なんてね。冗談は冗談として。彩花も知ってのとおり、巨大な小惑星のおかげで地球はもうすぐ終わる。ついでにボクたちもね。その前に慣れ親しんだ場所を見ておきたいのさ」

「でも、わざわざ制服着てくる必要なんてなかったんじゃない」

「何事も形からだよ、彩花」

二人は歩きながら、政府が発表した“緊急事態宣言”以降何をしていたのか、身の回りでどんな変化があったのか、これからどうするつもりなのかを話した。

「いやあ。彩花の話は面白いね。絶叫タンクトップの門倉さんに死神集会、深夜の夜光虫! 最高だよ。インスピレーションが湧くね」

「そうかな」

そう返事をしながら、彩花は心の中で“ニッシーってやっぱり少しヘンだ”とつぶやくのであった。

「で、ニッシーはずっと曲作ってたの?」

「そうさ。両親がうるさくてやすやすと外出できなかったからね。でも、おかげでいい曲ができたよ。聞いてくれたかい?」

「あのリンク貼ってくれてた曲? 聞いた聞いた。すごくよかったよ。なんか、ニッシーの激しさ? 怒り? みたいなのを感じた」

「おっ。そう言ってくれるとは嬉しいね。そのとおりだよ。あの曲には終末を前にしたボクの情動が詰まってる。あの曲を作った時、ボクには世界がいかにもつまらなくて汚らわしいもののように思えていたんだ。だからあんな曲ができあがった」

そう言って、侑依はふと足を止めた。

「でも、今は少し違う」

少し低くなった侑依の声に、彩花も同じように足を止めた。

「違うって、どういう風に?」

侑依は遥か上空を見上げたまましばらく黙っていた。彩花はそんな彼女の目線の先に何かあるのかと同じように視線をあげてみたものの、彼女が何を見ているのか、分からなかった。

「世界は今、純化されているんだよ」

「純化?」

彩花はふくろうのように首をかしげることしかできなかった。

「ま、ここから先は学校で話そうか。長くなるし。じゃ、レッツゴーだ」

侑依は再びいつもの表情に戻ると学校へ歩き始めた。


 学校は閉鎖されているかと思いきや、あまりにも容易に入ることができた。

「授業は三十分からだったね。余裕の到着だ」

「ニッシー、こんな最中さなかに授業なんてしてないよ」

「そうとも」

ふたりはそのまま三階へ上がり、彩花の通っていた教室を目指した。

「どの教室もずいぶんと荒れてるね。悪ガキが忍び込んで悪さしたみたいだ。あーあ、汚らわしい」

「でも、仕方ないよ。世界が終わっちゃうんだから」

「そうかもね」

侑依は教室に到着するなり、窓辺の席へと腰かけた。

「彩花も座りなよ」

うながされるまま、彩花は隣の席へ腰を下ろした。

「違う違う」

「違うって?」

「ボクの前の席! こっちこっち」

彩花は不承不承、言われたとおりの席へ移動した。

「なんでここなの?」

「なんでって、アニメや漫画を見ないかい? 恋人同士ならともかく、友人同士が会話するのに絶好の位置はここと決まってるのさ」

彩花は再び、ニッシーはヘンだと実感した。そのニッシーは今、遠い目をして窓から外を眺めていた。

「ねえ、ニッシー。何見てるの」

「世界、かな」

会話が噛みあっているようで噛みあっていなかった。朝の新鮮な空気が割れた窓から教室へと侵入してきた。

「ねえ。さっきの純化って、どういうこと?」

「うん。そうだね。順を追って話そう。ずは、彩花。君の居る教室に今日はボクが居る。これはどうしてだろうね。ボクのクラスは隣なのに」

「どうしてって、今はそんなこと、もう関係なくなってるから」

彩花は侑依の質問の要領を得ず、たどたどしく答えた。

「そのとおり! そのとおりだよ彩花!」

侑依はそう言いながら席を立ち、黒板の方へと歩き始めた。

「ではもうひとつ質問だ。今日は平日だよ? なのにボクたち以外が学校に来ていないなんておかしくないかい? どうしてだろうね」

「それもおんなじ。世界が終わるのに、わざわざ学校に来る人なんていないよ。私たち以外に」

「またもやそのとおり! つまりね、これまでのボクたちは規則に縛られていたことになるね。平日には登校して、決められた教室で授業を受けなければならないと」

侑依はそう言いながら黒板にチョークで“規則”と書き、それを丸で囲った。その字の美しさは板書が見やすいと評判の坂東先生にも並ぶと彩花は舌を巻いた。

「ではお次、先生が来ていないのはどういうことだろう? 先生は学校に来て、勉強を教えるという義務がある筈だ」

侑依は再びチョークを持ち“義務”を丸で囲った。

「何も義務は先生にだけあったわけじゃない。ボクたちにも勉強をする義務があったとも言えるね。そしてそれは何のため? いい大学やいい職場に行くため、つまり進路のためだ」

“進路”と書きながら、侑依の声が人の居ない教室に反響した。

「進路と言えば、ボクはいつか彩花に音楽プロデューサ―になりたい、そのために大学では音楽を専攻するつもりだと言ったことがあったね。確かにそれは僕の夢だった。君にもおぼろげながら将来に対する展望、夢があったことだろう」

“夢”。

「しかしどうだ! この現状は! 生徒は学校にやって来ない、先生も来ない、ボクは今、音楽プロデューサ―を目指していない、きっと君の将来に対する展望だって変わっているだろう?」

たかぶる侑依に声を抑えてと言おうとした彩花であったが、配慮すべき他者は今、居なかった。

「これら皆、本当の世界じゃなかったんだ」

侑依はそう言いながらチョークを赤に持ち替え、力強く、これまで書いた文字にバツをつけた。

「世界が終ろうとしている今、人間が勝手に作り出した規則も義務も進路も夢も、なんの意味も成さない! 彩花。これが本当の世界の姿なんだよ! ボクは音楽プロデューサーになりたかったわけじゃない。ただ、音楽を作っていたかっただけなんだ。だからこそ、ボクは世界の終わりを前にしても作り続けたんだ。嗚呼。ボクは今の世界に感謝すらしているよ。人間を本当の姿に戻してくれた。学校に来ない生徒も先生も、きっとどこかで本当の姿に戻っているんだろう。彩花、これがボクの言う純化だよ。世界は今、終末によって純化されつつあるんだ」

自らで自らを固く抱きしめながら語る侑依に狂気にも似た情動を感じながら、彩花はただ圧倒されていた。侑依は大きく息を吐くと、席に戻ってきた。

「ちょっと熱くなりすぎたかな」

「かなり、ね」

「そりゃ失礼。外の風に当たりたいな」

そう言葉を切ると、侑依は悪戯な笑みを作った。

「屋上、行ってみない?」

「行ったことない。行けるのかな」

「大丈夫、今はもう、規則なんてない。ボクたちを止める者はないさ」

ふたりは連れ立って教室を出た。


 屋上へ続く階段を上り、使用禁止の張り紙がされたドアを侑依は開けようとした。しかし、ガタンと音がして扉は開かなかった。

「あー残念だったね。ニッシー」

「ま、こんなことだろうとも思ったけど」

「じゃ、教室戻ろうか」

「いや、彩花、待ってくれ。ボクは今日、どうしても屋上に行きたいんだ。鍵を探そう」

「探すって、何処を?」

「心当たりがあるんだ。以前、ボクが職員室に行ったとき、教頭の机の引き出しに大量の鍵束を見たことがある。もしかしたらあの中にあるかも」

「えー。そこまでする?」

「するする。いいじゃないか。なんだか探索ゲームみたいで面白くない?」

侑依は半ば強引に彩花を連れて職員室に向かうのであった。


「ねえ。ニッシーは世界が終わっちゃうの、怖くない?」

職員室へ向かう道すがら、彩花は侑依に問いかけた。

「うーん。怖くは、ないかな」

「すごいね。私はやっぱり怖い。緊急事態宣言からもう一か月以上も経つよ。もしかしたら明日世界が終わっちゃうかもって、死ぬかもって思うと、私は怖いよ」

彩花は立ち止まり、机が散乱し窓ガラスの割れた教室の方を見た。侑依もつられるようにそちらを見た。

「ものは考えようだよ、彩花。明日死ぬかもしれない。その事実はボクたちが日常と呼んでいた世界にだってあっただろう? 登校中にトラックにかれるかもしれないし、巨大地震に巻き込まれるかもしれない、あるいはイカれた通り魔に刺されるかも。普段から僕たちはこんな危機を上手くかい潜って生きてきたんじゃないかな。それと変わらない。ま、詭弁きべんだけど」

「そうかな」

「そうとも。だからこそ、ボクたちは純化された世界で自分が本当に為したいことを為せばいいのさ。ボクにとってはそれが音楽。彩花、君にとってはなんだい?」

侑依は真っ直ぐに彩花の目を見ていた。

「私がしたいこと、なんだろう? 私は音楽も作れないし、絵も描けないし」

「別に何かを作り出すことばかりを考えなくたっていいさ。君は何が好きだい? どんなことに心が動く?」

そう問われた時、彩花の脳裏に浮かんだのはかつて見た夜光虫のちりばめられた海だった。

「あの海が、見たい」

侑依はそれを聞くと口角をあげて頷いた。

「そうか。なら、それをすべきだ。今すぐにでもね。と言っても君が言ってるのはきっと夜光虫の海だろう。流石に日中は無理だね。ま、しばらくボクに貴重な残りの人生を共有させてくれないか」

ヘンなニッシーはテンプレートの王子様のような台詞をすんなりと口にした。


 職員室は他の教室に比べるとあまりにも整然としていた。今日から何事もなく授業が再開されるとしても、そのまま使えそうであった。そんな職員室を、侑依と彩花は手分けして捜索していた。

「ニッシー、そっち、教頭先生の机に鍵あった?」

「うーん。あったにはあったけど」

侑依はそう言うと巨大な鍵束を机の上に置いた。どっしりとした金属質の音が響いた。

「うわー大漁だね」

「しかも、タグがついてて何処の鍵か分かるのなんてごくわずかだ。弱ったね」

侑依は教頭の椅子にどっかりと腰を下ろし、しばらくくるくると回っていた。

「それにしても、この空間だけまるで何事もなかったかのようだね、彩花」

「うん。まだ先生が出勤していないってだけみたい」

「緊急事態宣言の前で時間が止まってるみたいだ。凍結された時間……悪くないモチーフだよ。考えてみれば、規則やら義務やら、嘘にまみれた世界だったけど、存外悪くもなかったのかもね」

「戻れるなら、私は戻りたいよ」

彩花の呟きに、侑依は沈黙で答えた。

しばらくふたりは黙ったままで、窓から差し込む日を眺めていた。薄暗い教室に物音は無く、鳥のさえずりがかすかに聞こえてくるばかりだった。

「この世界にも、きっと美しいものや楽しいものは幾らもあるさ。彩花だってそれを知ってるだろう? これからボクたちでそんなものを見つけるのも悪くないと思うよ」

「ニッシー……」

そう呟いた後、彩花が目を向けたのは、侑依の背後であった。

「そこにかかってるのって」

「え?」

侑依が戸惑って目を向けると、壁に何種類かの鍵がかけられていた。そのうちのひとつには“屋上”という札がついていた。


「いや、お手柄だったね、彩花。まさかボクのすぐ近くにお目当てのものがあったとは。視野狭窄きょうさくはアーティストにとって致命的なんだ。ボクもまだまだ修行が足りないようだよ」

侑依は屋上の鍵を指先で器用にもてあそびながら上機嫌だった。ふたりが歩く一階の教室はひと際荒れており、スプレー缶での落書きや扉や窓の損壊が激しかった。先を歩いていた侑依がとある教室の前で足を止め、その中を覗き込んだ。

「うへー。彩花、見てごらんよ」

彩花が中を覗き込む。

「酷いね、これ」

彩花はいつか見た、荒らされたコンビニのことを思いだしていた。

「ああ、でも面白そうだ。ちょっと入ってみようよ」

侑依は笑顔で教室へと入っていった。

黒板には白のスプレー缶で放送禁止用語が大量に書かれ、部屋の片隅には乱雑に机が固められていた。そして教室の中央にはおびただしい量のアルコール飲料の缶や瓶が放置されていた。

「彩花、ちょっとこっち!」

侑依が激しく手招きして彩花を呼んだ。

「何?」

「ほらこれ」

そう言って侑依が床から摘み上げたのは避妊具の空袋だった。

「そんなもの触らない方がいいよ」

「ボクだって少しは配慮したんだよ。こっちにはこれの中身がたくさん落ちてるんだ。あ、この箱、空だよ。まさかひと晩で使い果たしたのかな。だとしたら凄い体力だよ。いや、それよりも、この最中に避妊をするという意思があったことに驚きだよ」

侑依はあくまでも楽しそうだった。

「ねえ、彩花。これもやっぱり、人間の姿なんだね」

「そうかな」

「少なくとも、僕はそう思うけどね。終末を前にして規則や義務から解放された時、人は寸時の快楽に走るのさ。そんなことが何になるかなんて、大した問題じゃない。刹那的な快楽こそ、人が求めるものさ。ボクが作曲をする動機と何も変わらないのかもね」

「そうかな」

「ああ。でもね。ボクが思うに、この人たちのオタノシミはあくまでも過渡期の混乱さ。恐怖や不安を紛らわそうとして、或いは自暴自棄になって快楽に走るのさ。でもそれはいつまでも続くわけじゃない。何故といって、それらは彼らが本当にすべきことじゃないからだよ。だんだんと世界が純化されていけば、人は本当に自分がなすべきことをするようになるんじゃないかな。この人たちももしかしたら、今頃それを見つけているかもしれないね」

侑依は手にしていた袋をその場に投げ捨てると腰をあげた。

「さ、行こうか。あんまり長く居て気分のいい場所じゃない」

しかし、そう言う侑依の表情には確かに笑みが浮かんでいた。


「おお! いいね、屋上というのは。見晴らしは良好、そして物が少ない。人が入った形跡もなし。ヤッホー」

侑依は子供のようにはしゃぎながら手すりまで走っていった。彩花はそんな後姿を母親になったような気持ちで見つめていた。侑依は手すりまでたどり着くと、今度はずっと遠くを見据みすえたまま、動かなくなった。彩花はその背中に向かってゆっくりと近づいていった。侑依と同じ方向に目を向けたが、彼女が何を見ているのか、分からなかった。凪いでいるような街並みの中を自動車や人がまばらに行き交っていた。

「やっぱりここに来てよかった。町が見晴らせる。彩花、ボクはね。今、世界を見ているんだ」

「純化された世界をってこと」

「そうさ。世界はだんだんとあるべき姿に戻りつつある。何より人間がそうなっているんだ。例えば、ほら、あそこを見てごらん。トラックが走っていくのが見えるだろう? あれは何を、何処どこに運んでいるんだろう」

「さあ」

アーティストの真意が彩花には伝わらなかった。

「もちろん、ボクにも分からないさ。食品か、衣類か、それとも家電か。ま、そんなことはどうだっていいのさ。あのトラックは今、走っているんだ。終末において、物流なんか、自分以外の誰かに任せておけばいいのに。どうしてだろうね? もちろん、何も運ばず、ただ走っているだけということもあるだろうけど、結局は同じことだ」

彩花には少し、侑依の言いたいことが分かってきた。

「それが、その人の為すべきことだから?」

「そう。規則もなんにもなくなった今、人を動かしているのは真なる意思のみだ。人は今、なんのしがらみもなく、ただ一個体として生きてるんだよ。階級も、役職も関係ない。山ほどの資産があってなんになる? 高い地位についていたからどうした? 優れた学歴がなんだ? 皆、皆、どうでもいいことだったんだよ! 見たまえ今のこの世界を。ボクたちの信じていたものはことごとく崩れ去って本質だけが残った。これが純粋世界の美だよ。ご覧! これが世界だ」

突然、侑依は手すりを乗り越えた。彼女の靴の先端が校舎の縁から中空にはみ出していた。

「ニッシー! 何してるの!」

彩花は思わず、彼女の制服のえりつかんだ。

「彩花、落ち着いて」

彩花を動揺させた張本人は至って冷静だった。

「ボクが今飛び降りたなら、どうなるだろうね。無論、ボクは死ぬ。それで? 普段なら警察だか救急だかが飛んできて、先生は会見を開かなくなるかもしれない。地元の新聞社かなんかが入ってきて妙な記事を書くかもしれない。女子校生、謎の自殺、なんてね。でも今、そんなことをする人間が居ると思うかい? つまりはボクの生死すらどうでもいいんだよ。どうだ、世界というのはこんなにも無表情なんだ。ただただ、己の為すべきことを為せばいい! そんな世界に生きてるなんて、身震いがするよ。好きに生きればいい。以前、世を悟ったような連中が偉そうにコピーアンドペーストでまき散らしていた上っ面のだけの戯言がとうとう現実になった! 嗚呼、ボクは嬉しいよ」

彼女の襟をしっかりとつかんだまま、彩花は侑依がヘンなのではなく、ヘンタイなのだと確信していた。侑依はようやく手すりからこちらへ、ひらりと戻ってきた。

「ちょっと。驚かさないでよ」

「ごめんごめん。死ぬつもりはなかったんだ。ボクにはしなくちゃならないことがあるからね」

侑依は地平線の方に目を向け、動かなかった。

「ボクはこの世界を音楽にしたいんだ。以前作ったような世界への怒りなんかじゃない。そんな、そんなくだらない曲じゃない。今のこの世界、信じたもの皆消え去った純粋世界の美を表現したいんだ。タイトルはもう決めてある。アディオス、さ」

「アディオス?」

「そう。純化され、滅びゆく世界にボクからの挨拶さ。洒落しゃれてるだろ。もしかすると、これがボクの作る最後の曲になるかもね」

その言葉が、急に彩花に現実を突きつけた。

「ねえ、ニッシー」

「なんだい」

「絶対、絶対その曲、聞かせてね」

侑依は静かに頷いた。


 二人が食堂の前に差しかかった時には昼近くになっていた。何気なく食堂の中を覗いた彩花が足を止めた。

「ねえ、ニッシー。誰かいる」

「え?」

薄暗い食堂の一角、鍋を前にした女性とその近くに座る人物の後姿が見えた。

「なんだろうね。入ってみようか」

侑依が先に立って食堂の扉を開けた。

「いらっしゃいませ。カレー、いかがですか」

家庭的なエプロンを着けた女性が良く通る声を出した。座っていた人物も反射的に二人の方に目を向けた。平生なら時間を問わず混雑している食堂を、二人はスムーズに歩いていった。

「カレー?」

彩花の目はカレーの鍋と女性の顔とを交互に見ていた。

「そう。お代はいりませんよ」

「では、いただきます。彩花も食べないかい。ボク丁度、お腹がすいてたんだ」

侑依が手近な椅子に腰を下ろすと、彩花もそれにつられて腰を下ろした。

「はい、どうぞ」

二人の前に湯気の立つカレーが置かれた。

「わあ。美味しそうだ。いただきます。うん! 美味しいよ彩花」

カレーに舌鼓したつづみを打つ侑依の隣で、彩花はカレーとにらめっこしていた。

「カレー嫌いでしたか」

エプロンの女性は不安げな顔で彩花を覗いた。

「いえ、そうじゃなくて。あの、どうしてこんなことを?」

女性はしばらく宙を眺めていたが、やがて口を開いた。

「これぐらいしか、できることないですから」

彩花はまだ釈然としなかった。

「世界がもうすぐ終わってしまうとなって、色々、変になってしまいました。そんな中で、私は誰かのために何かしたいと思ったんです。でも、私にできることは少ない。だからせめて誰かが少しでも元気になってくれたらと、働いていたここで毎日料理を振舞うことに決めたんです」

儚げな笑顔が彩花には力強く思えた。為すべきことを為す。侑依の言っていた言葉の本質に、彼女は接した気がした。

「あの、もしかして、東条と西沢? 俺、清水」

振り向くと、これまで一人でカレーを食べていた人物と目が合った。

「あの清水君かい?」

侑依が声を上ずらせたのも、もっともであった。学校一の美貌びぼうと称されたかつての生徒会長はやつれた頬で目の下にはくまを作っていた。

「ああ。あんまり話したことなかったけど、覚えててくれた?」

「もちろん。我らが生徒会長だからね。ね、彩花」

彩花はカレーを食べながら頷いた。

「そうか。それは嬉しいな。二人はどうして学校に?」

「きまぐれついでに世界を摂取しに来たんだよ」

「世界? 摂取? 相変わらず、西沢は独創的だな」

彩花はまたしても無言で首を振った。

「それで? 生徒会長はどうして学校に?」

カレーの匂いの立ち込める空間に、清水はしばらく俯いたまま返事をしなかった。

「えっと。ここで臨時の食堂をやってるって聞いてね。それでなんとなく」

侑依は憔悴しょうすいし、目を合わせようとしない彼の様子を注意深く、観察していた。

「清水君は時々来てくれるんですよ。ここがきちんと生徒の食堂になっていた時より頻繁ひんぱんに。ね」

「家に居ても、誰とも話すことはないし、ここに来るとなんだか安心できるんだよ。二人とも、よかったら今後も来たらどうだい」

「それはいい。楽しみができたよ」

「うん」

カレーを食べ終えた彩花は大きく頷いた。

 これまで接点のなかった清水と二人は臨時食堂の中で急激に接近していた。話題は尽きなかった。校長のカツラが発覚した重大事件、トイレで喫煙した生徒がいたために起こった火災報知器騒動、昼休みに起きたシュールストレミング爆発事件、北塚君の二股に端を発した緊迫のホームルーム。少しずつ、彼女たちは終末の現実から解放され、ただの高校生に戻りつつあった。

「あったあった。そんなことも。北塚は濡れ衣だよ」

「そうなのかい? てっきりボクはクロだと思っていたんだけれど」

「うん、私もそうだと思ってた」

「そうじゃないんだよ、北塚はなんにもしてなくて、うわさだけが独り歩きしていたのさ。一説によると、被害者の女生徒の自作自演だってさ」

「それであの騒ぎかい? 恐ろしいな」

取り戻せない筈の平穏な日常が仮想としてでも、確かにそこに実現していた。

「清水君」

突然、侑依が清水の方へ目を向けた。

「何?」

「君、随分表情が柔らかくなったじゃないか」

「そう、かもね」

「確かに、さっきとは別人みたい」

「だって、こんな風に人と喋るのなんて、もうできないと思ってたから。それに、いつ世界が終わってしまうのかって考えると怖くて。でもふたりと話しててそれをすっかり忘れてた。ありがとう」

安堵の息をつく侑依の隣で彩花が声をあげた。

「じゃあ、これからも会おうよ。私も、世界が終わるのが怖くて、不安で仕方なかったんだ。でも、今は清水君と同じ思い。ニッシーはどう?」

「ああ。いいんじゃないかな。これでボクにも作曲以外の楽しみができたよ」

正午を過ぎても、彼らの声ががらんどうの食堂に響いていた。


「私は先に洗い物を済ませてしまうわ。ゆっくりしていってね」

やがて女性は空の皿を持って洗い場の方に消えていった。

「ところで彩花、清水君。今晩、抜け出せるかい」

侑依が声をひそめてたずねた。唐突な質問に彩花だけでなく、清水も戸惑っていた。

「どうして?」

「海を見にいかないかい? 君が見た夜光虫の海を、ボクも見てみたい。清水君だって興味があるんじゃないかな。どう?」

「夜光虫って、あの光るヤツ? 見たことないな。見られるのかい」

「ああ。彩花が見てるんだ。今夜、どう?」

侑依は親指を立て指先を背後へ動かす素振りをした。

「小学生に戻ったと思って冒険ごっこさ」

「冒険、か。いいね。ウチの両親は不干渉だから何時でもいけるさ」

清水は笑みを作りながら賛同した。

「生徒会長に深夜徘徊はいかいをさせることになるけど、いいのかい?」

「いいさ。こんな状況で規則も何もあるもんか」

彩花は湧き上がる興奮を抑えるのに精いっぱいであった。

「じゃ、行こう! ニッシー、清水君! なん時にしようか」

「今夜の零時。ここに集合だ。本当はそれまで一緒に居てもいいんだけど、ボクには作曲があるから、そろそろ家に戻るよ。君たちはどうする?」

「私は、もう少し清水君と話していようかな。いい?」

「ああ。東条がいいのなら。俺は別にすることもないし」

「そうかい。じゃ、ボクはいったん失礼するよ。また夜にね」

侑依は二人に別れ、正門の方へと歩きだした。

「純化された世界はかくも美しい。終末は嘘でした、なんて結末はあり得ないと思っていたけれど、それも悪くないのかな。いや、これも終末があったからこそのストーリー、か。さ、ボクはボクの為すべきことをしなきゃね。純粋世界の美を表現しないと」

侑依は正門を出るとアディオスのフレーズを口ずさみながら家路についた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る