第3話「報道官制が敷かれると、葛原奈々美の二日酔いが治る。」


話は10年前に戻って、埼玉県で突然、言語野に支障が出る人間数名が現れ、「ピィ事案対策課」が新設された当時の事だ。



 あくる日の晩、葛原奈々美は飲み慣れない酒を胃に押し込めながら、肩を震わせて泣いていた。

子供の頃から憧れていた「婦警さん」という職につけたところまでは、自分の人生は確かに輝いていた。


「キャリアデザイン室」「事業強化人材センター」「プロジェクト支援室」

「戦略企画室」


 これらは企業が社員を不当解雇できないために社員を自主退職させる目的で異動を強いる、いわゆる「追い出し部屋」の隠語だ。

しかしそれは、はれて公務員になった自分には無縁の話だと思っていた。


「成績の悪い警官は、突然肩を叩かれて新設された場所に異動させられるらしい」


「課の名前が意味不明で、というか何から何まで意味不明で、関わった警察官は自主退職するか精神疾患を患うらしい」


 などという噂がたってもなを、まさか自分がそのような事態に陥るとは思っていなかった。



実際に肩を叩かれるまでは……



「葛原君。悪いが明日からピィ事案対策課に異動してもらう」


葛原には「ぴいじあん」の五文字が、まるで地底深くの「どん詰まり」の、さらにそこが抜けた八方塞がりの狭い狭い岩壁の中を連想させた。


「せ……選択権はないんですか……」


「ない。 君に拒否権は、ない」


「それは、何をする部署なんですか?」


上司を前に葛原は食い下がった。もはや巨像の足を目の前にして子猫がひっかくのと同じ行為だが、そうせずにはいられなかった。


「詳しくは教えられんが、新設の組織だから最初は手探りで進んでいくしかないだろう。しかし、

 ……日本を救う大事な仕事には変わりない。心して職務を遂行するように」


……ばかを言うんじゃないばかを。そんな漠然とした課があるか。


要は追い出し部屋じゃないか。


葛原は自分を責めた。…… 正直自分の何を責めればいいのかわからなかったが、

やはりそうせざるを得なかった。


翌日、葛原は晴れない気分の中、ピィ事案対策課がある、新宿区のオフィスビルに向かった……。

その日は小雨が降っていたが、快晴よりかは幾分かマシだと葛原は思った。





「では、『埼玉県英語紛失事件』の緊急対策会議を始める」


 新宿区のオフィスビル、会議室には葛原、元院含めて6人の人間がいる。

将来、人間が増える前提があるのか、会議室は300以上人は裕に座れるキャパシティがあり、元院を除く5人は最前列の中央に詰めて座っており、最前列から後の10列以上がデッドスペースになっていた。


 そして建物は改装中なのか、灰色の作業服を纏った数人が建物を行き来しており、

工事現場よろしくドリルと思しき「やかましい」音がそこら中に響いていた。


元院邦明が、5人の前に立ち、「指差し棒」でスクリーンをつついた。

プロジェクターでスクリーンに映像を映し出しているため、会議室の電気は消えている。

スクリーンには。「埼玉県英語紛失事件・元院邦明」と書いてある。

……自分の名前をわざわざ書く必要があったのか。そして、わきには、熊(?)が威嚇しているのか、バンザイをしているヘタクソなイラストが描かれてある。


……あー噂は本当だった……ここは「意味不明のあかん『課』」なんだ……

しかし、自分の周りにいる四人の警官は、年下っぽい落ち着きのない警官(確か入り口で小峰と名乗った)を除いて、みんな真剣に聞いている。

元院は、『会議を始める』といったわりに、無言で「指差し棒」でスクリーンの、ヘタクソな熊をひたすらつついている。それを、五人の警官がじっと見ている。

なんだ。なんだこの状況は。


 いっそピィ事案対策部から「カフカの仲間たち」とか、そういう名前に変更した方がいいのではないか?

葛原は虚な目で代わりばえのしないスクリーンを見ていた。


 元院は、相変わらずスクリーンに映った熊をつついている。すでに、大量の汗をかいている。

数十回、無言でつついているうちに、ようやく言葉を吐いた。


「あれ…… あれ……? 画面が変わらないぞ?」


 元院がそう言うと、男性の警官が慌てて立ち上がり、プロジェクターの横に設置されパソコンのマウスをクリックした。

ようやく画面が変わる。

するとスクリーンには、『埼玉言語断絶事件』と書いてあるが、画面いっぱいにバツ印がつけられている。

男性警官は一瞬戸惑っていたが、もう一度マウスをクリックした。


「すまん。庄司くん」


 画面は、左斜め上に『埼玉県英語紛失事件』と游ゴシック体で描かれており、その下はあれこれと書かれているが小さすぎてよく読めない。

元院は咳払いをして、仕切り直した。


「えっと、じゃあ榊くん。」


 すると葛原の隣に座っていた、眼鏡をかけた痩せ型で猫背の中年警官がすっと立ち上がり、資料を片手にスクリーンの前に立った。


「……使う?」


 元院は指差し棒を榊と呼ばれた警官に差し出すと、

「え、ああ。じゃあ」と榊と呼ばれた警官は受け取った。


そして唐突に、邪教の滅びの唄、もしくは中世の喜劇が始まった。


「では状況報告から。警視庁からピィ事案宣言が出てたのと同時に国民の混乱を避けるため報道官制を敷きました。

 これには、特事法第1条1項を適応させたため既に総理大臣並びに内閣危機管理センターの承認済みです。

 それから現時点での被害者は20名~25名。年齢は10代~60代。男女の比率は10対10と推定され、先週から10名ほどアップしている状況。いずれも埼玉県、東京都を中心に新たな被害者が発生している模様です。

 被害者数の推移から、新規被害者数/日は低い、もしくは非常に低いと思われ、現状は6段階中、ステージ1であると思慮されます。以上です」


 報道官制という言葉が唐突もなく出てきて、葛原はただ呆然とするだけだった。それと特事法とは一体なんのことか?警察官になって5年になるが聞いたことがない。

榊は指差し棒を元院に返すと、葛原の隣に戻ってきた。


「はい。次に今後の方針だけれども。

 今回の事案がテロか災害か、裏のとれてるもの挙手」


 元院の前に座っている5人は誰も手を挙げなかった。


 元院は咳払いをし、「指差し棒」の人差し指を、自分の人差し指でつつきながら、話しはじめた。


「えー、では、被害者数の推移を元にこれからのスケジュールを発表します。

報道官制にも限界があるから4ヶ月もすればSNS上に『英語喪失症』とかいう言葉が並ぶことでしょう。

9ヶ月後にはインターネットや海外メディアを通じて情報漏洩が発生。政府の統制力が低下する恐れがあります。

1年もすれば、出どころが世界中にバレて、国際的な安全保障にも影響を与え、国際的な取引、交流に依存する日本の経済は停滞。

観光会社や外資系企業も日本から撤退。

日本は鎖国時代に戻ります。そして黒船はきません。そうだね榊くん」


隣で榊は頷いた。


 葛原は、事の重大さを今になって知り、昨日のやけ酒と、朝小雨が降ってたけど晴れてるよりマシだなんて稚拙な考えを激しく後悔した。

それは同時に、違う不条理に突入したことを意味した。

生ぬるい覚悟で、日本の責任を背負う立場になってしまった。

埼玉県を中心に発生している、原因不明の事象。それに対してたった6人でどう立ち向かえばいいのか?

それこそ雲を掴むような作業ではないか。


葛原から離れた席に座っている警官が手を挙げた。


「はい庄司くん」


「まずは被害者宅に行って聞き込みを開始します」


 すると、葛原とは別の女性警察官が手を挙げた。年下に見えるがいかにも気が強そうな、婦警然とした女性だ。


「湊くん」


「最優先はデータマイニングと、AIを使っての被害範囲の特定とパターンを分析し、犯罪、災害、病気、全ての線から医療関係とも連携して現場を特定することです。

埼玉くんだりまで出向くのはご自由ですが、コロナの教訓、活かしませんか?」


「はい。じゃあその二つでいきましょう。庄司くんと……えっと誰だっけ?小峰くんか。ごめん。ごめん。この二人で被害者から聞き込み。

湊くんと葛原くんで事象発生現場の洗い出し。ね。お願いね。

……コロナで思い出したけど、日本という国はね、資源がないから観光産業に依存するしかないのがコロナ禍で出た解だね。

日本にとって一番まずい事象が起きてることを肝に銘じて職務にあたるように。以上解散」


一夜にして、思いがけないという言葉が陳腐に感じるほどの責任を背負ってしまった。


 これは夢だ。そうに違いない。

葛原は右手で左手をつねってみた。その痛みのみが、白昼夢のような1日で一番現実的だった。




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