第2話 「台東区を工事中のクレーンに鳥が止まる間、鮎川瑞穂は眠りにつく」



カール・ギブソンの事件から実に10年が経ち、オフィスも様変わりした。

今ではピィ事案対策課は、全警察署に配置され、

海外支部まで存在している。

署員の怒号と、電話のなる音と、キーボードを叩く音。

そして般若心経を唱える声、聖書を読み上げる複数の声、コーランを読み上げる声が鳴り響くオフィス。

その個室の窓際を背にしたデスクにて、新たに課長になった庄司が、ピィ事案対策課の新人田所から新たなピィ事案発生の報告を受けている。


21時だと言うのに、カーテンの隙間から、太陽から発せられる緑色とオレンジ色を混ぜ合わせた光が漏れている。



デスクの向かいにはホワイト・ボードが申し訳程度に置いてあり、全て赤い太字で書かれたメモ書きはホワイト・ボードを埋め尽くし、収まらなかった分のメモはA3用紙で壁に乱雑に貼られていた。



田所は、緊張した表情でメモを読み上げた。

「鮎川瑞穂21歳。車を運転中に睡魔に襲われて事故を起こし都内の病院にて入院中。軽症。

 取り調べの結果、鮎川は今年に入って数回、職場で突然寝るなどを繰り返していたが、本人の動向を調査するに、前日22時には就寝。翌8時に起床。普段からナルコレプシーを含む睡眠障害のような症状が無いことから、ピィ事案の可能性あり、とのことです。」


庄司は、田所から報告を受けると、一瞬田所の背後に貼られたメモ群に目をやり、タバコを灰皿に押し付けた。


「鮎川を施設に更迭しろ。間違っても今後車の運転なんかさせるな。従わないようなら逮捕しろ。」


「え、逮捕?しかし鮎川は犠牲者を出したわけでもなく・・・」


庄司は大きくため息をついて、田所にこう、尋ねた。


「風が吹くと桶屋が儲かる理由は?」


「えっと・・・なんだっけ、忘れました。」


「ピィ事案には共通する事があるんだ。事象の発生因子と、発生条件があることだ。

 俺たちは発生因子までは突き止めることはできる。しかし、だ。」


庄司は、タバコを取り出そうとしたが、さっきのが最後の一本であった。


「・・・詳しく説明したところでお前にはまだわからんだろうが、ピィ事案から庶民を衛るにはこういった合理的な判断が必要なんだよ。結局。」


「しかし、それでは鮎川さんの人権はどうなるんです?」


庄司は、田所を睨んだ。


「・・・もし、お前の住んでる家の素材が全部パンになったら?」


「えっと、それって青梅市で発生した事案ですよね。」


「青梅市の全家屋だ!!その事案に対して我々がとれた対処方法はなんだ!?

 青梅市に緊急避難所を設けたら、今度は避難所がパンになる!

 急拵えでプレハブ小屋を建設したら一晩でプレハブ小屋がパンになっちまうんだぞ!?お前、パンの家で暮らせるか!?

 それで結局俺たちにできたことは青梅市の人口15万人を他に疎開させることだった!!今では青梅市は野犬と熊と猿と野鳥の楽園になってんだぞ!!」


庄司はさらに語気を強める。


「でもそんな事象は可愛いもんだ!アメリカのワイオミング州の特定の人間300人が突然数秒おきに身長が3メートル伸びる事案は!?

 渋谷区の全信号機が、突然10歳未満の男児の声で『このオカマ野郎!』と叫ぶようになった事案は!?

 佐賀県の住民が突如巨大なキノコになってしまった事案は!?

 大体今朝からこの太陽はなんだ!!全部未解決だ!

 それに比べてなんだ?鮎川の人権?本人はこんなご時世にたくさん寝れて幸せだろうよ!

 いいか!10年前不条理と呼ばれていたものは、今では常識になりつつあるんだ!世界中でな!!

 解ったらさっさと鮎川を施設に更迭しろ!当該施設に然るべきお祓いを済ませているかと、ピィ事案対策係が常駐してるかを忘れないで確認しろよ!!」


「は、はい!!」


田所を追い出した後、庄司は窓の方を見た。

・・・いや窓自体を見た。というよりも、窓をバリケードよろしくふさいでいる段ボールと、さらにそれを覆っている黒いカーテンを見た。

21時だというのに、まだ西日(のような光)がわずかな隙間から差し込んでくる。

10年前日光を妨げていたビルは、無くなって空き地になっていた。

どうやら、ビルから足が生えて東京湾に向かって歩いていったそうだ。


「もし俺が板金屋だったとして・・・」


庄司は、かつてこの場所で元院に言われたことを思い出していた。


しかし、桶屋にしたって、まさか自分が儲けたのは風のおかげだと、桶屋本人は気づいていたのだろうか?

10年前に不条理と呼ばれていたことは今では常識になりつつある。この言葉をここ数年で何人の若手刑事に言ってきたことか。

そしてこの言葉を口にするたびに庄司は思うことがある。それは10年以上前から不思議だと思っていたことだ。

鳩が、人間を怖がらなくなったのはいつのことだろう?それは自然の摂理だとしても、その瞬間は存在したはずなのである。



庄司は窓から視線を逸らし、再び田所が去っていったドアの方を見た。赤いステッカーで元々「禁煙」と書いてあるところの「禁」の字の上に黒ペンでバツが書かれており、

上から「キツ」煙と書かれていた。それには喫煙者にとっては切実な理由があり、この広い新宿区でこの部屋のみがタバコを吸っても安全の保証がされているからだ。

しかしそれもどこまでの保証なのか、誰も説明できるものはいない。



庄司は席につこうとして、ふと、この席に座っていた人物のことを思い出した。

(元院さん・・・)

元院さんのことを思い出すと、敗北感に似た悔しさを覚える。

カール・ギブソンの事件を解決に導き、「ピィ事案対策課の父」と呼ばれた元院邦明。

しかし、今は行方不明だ。


なぜ、元院さんはあんな目に遭わなければならなかったのか・・・


庄司はデスクに座り、資料で散らかっている机から、一枚の写真を手に取った。

そこには元院と庄司を含む、6人の警官が写っていた。

これは、カールギブソン事件が解決した直後、初の勝利を記念して大雨の中撮った写真だ・・・。

皆それぞれ、レインコートを羽織り、カメラ目線で口を閉じながら控えめな笑みを浮かべているが、

ただ一人、庄司だけは下をみて、「不機嫌である」様子を隠そうとしていなかった。

写真を手に、庄司はつぶやいた。



「よお・・・元気か?戦友。

キヨジ、葛原、サカさん、湊・・・元院さん・・・。」




感傷に浸ってしまいそうになり、庄司は慌てて写真を資料の海に紛れさせた。


カール・ギブソンか・・・。


思えば、庄司を取り巻く世界が、いや世界観、いやいや、世界の価値観?を変貌させたのは、このカール・ギブソン事件だった。

そういえば当時は・・・「埼玉県英語紛失事件」とか呼ばれていたっけ。


なんで世の中は、なんで俺たちは、こうなっちまったんだ?

教えてくれよ。元院さん・・・。


庄司は夕日を眺めて、悪夢の方がよほど現実味があると思わせる、この10年間を、

そして・・・カールギブソン事件のことを振り返った・・・。

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