浜辺の君
@hanedakyo
君は・・
空が果てしなく広がり、海が全てを包み込む――そんな島が僕たちの新しい家になった。以前、僕たちは都会の喧騒の中で暮らしていた。ビルの合間を歩き、車の音に囲まれた毎日が、ここではすっかり変わった。街中では見上げる空も狭く、自然の息吹を感じることはほとんどなかった。僕はまだ都会と田舎の違いがわかるほどの年齢ではなかったが、風が顔を撫でる感触や、遠くまで続く海の広さが、何か特別なものだと感じた。
時が流れるにつれて、島の自然は僕の毎日の一部になった。遊び場は広がる浜辺や、木々の間の秘密の場所。僕は島のすべてが、僕の友達のように感じた。
朝起きると、すぐに外に飛び出し、風の中を駆け回る。海の潮の香りや、鳥の声が僕の一日を始める合図だった。
ある晴れた日、父が「今日は天気がいいから釣りに行こう」と言った。普段はあまり行かない防波堤に出かけることになり、僕はワクワクしていた。
防波堤に着くと、波の音が一層近くに感じられ、広がる海の景色が僕の目に新鮮だった。父が釣り道具を準備している間僕はその周りを走り回ったり、海を見つめたりして楽しんでいた。父はいつも優しく、釣りの時間を共に楽しもうとしてくれる。釣り道具を整えながら、楽しそうに話しかけてくれる声が、僕には安心感をもたらした。母は家でおいしい料理を作りながら、僕たちの安全を気にかけている。彼女の心遣いが、僕の心に温かさを感じさせた。こうして、父と母、そして僕の三人家族で過ごす時間は、どれも大切な思い出になっていった。昼から始めた釣りは、あっという間に夕方に差し掛かっていた。父が仕掛けを調整しながら、僕はその横で魚がかかるのを期待してじっと見守っていた。たくさん釣れた魚を見て、父は満足そうに笑顔を浮かべながら、「今日はたくさん釣れたから、夕食は豪華な刺し身にしような」と言った。僕はその言葉に嬉しくて、にっこり笑って頷いた。気づけば夕陽が海を赤く染めていて、釣りがより一層特別なものになっていた。少年はふと海の向こうに目を向けた。彼の視界の中で、何かが動いた気がした。波打ち際に立つ小さな影。風に揺れる長い髪がかすかに見えた。
顔はよく見えなかったが、なんとなくわかった——それは女の子だと。
「おーい!」
少年は子供特有の無邪気な興味で、大きな声を上げ、手を振った。怖いとか、不思議だとか、そんな感情はなかった。ただ、そこにいることが自然なように思えた。
少女はゆっくりと振り返り、少年に向かって手を振り返した。しかし、顔はまだはっきりとは見えない。何も語らず、ただ静かに遠くから存在を示しているだけだった。
「ん?」
隣にいた父親が少年の行動に気づいて振り返ったが、見えたのは、果てしなく広がる海と穏やかな波だけだった。
「誰かいたのか?」
父親の声に、少年は少女の方をもう一度見た。しかし、そこには誰もいなかった。海と空、そして揺れる波だけが彼の目に映っていた。父が釣り道具を片付け始めると、僕も手伝おうとしたが、まだ細かいことはうまくできなかった。父は笑って「もう少し大きくなったらな」と優しく言い、道具を丁寧にしまっていった。夕陽が完全に沈む前に、防波堤をあとにすることにした。防波堤から砂浜へ戻る途中、僕は何度も振り返り、少女がいた場所を探したけれど、もう何も見えなかった。
帰り道、父は満足げに「今日の釣果はすごかったな」と何度も笑いながら言っていた。僕も一緒に笑って、手に残った潮の香りを感じながら、少しずつ暮れていく空を見上げていた。家が近づくにつれ、窓から漏れる明かりが心を温かくした。
「家に着くと、母が夕食の準備を終えたところだった。父が釣った魚は、早速新鮮な刺し身にされ、テーブルに並んでいた。僕たち三人は食卓を囲み、今日の収穫を楽しんでいた。
『今日は本当にたくさん釣れたね!』と母が笑顔で言いながら、父にお刺身を取り分けた。
僕はふと思い出して言った。『ねぇ、今日砂浜のところで女の子がいたんだよ。僕に手を振ってくれたんだ。』
母は少し驚いたように箸を止めて、僕の顔をじっと見つめた。まるで、僕が何を考えているのかを読み取ろうとしているかのようだった。『女の子?誰かいたの?』
僕は頷いて、続けた。『うん、海の方に立ってたんだ。でも、帰るときにはもういなかったよ。』
母は首をかしげて、『そう…どこの子かしらね?』と不思議そうな表情を浮かべた。
その瞬間、父が少し笑いながら、『ああ、たぶん波と間違えたんだろう。遠くだし、夕方だったからね。』と言った。そして、僕の方に目を向けて、『そうだよな?たぶん波だよな』と軽く頷きながら言った。
僕も父の言葉に同調するように頷いたが、どこか違和感を感じた。母も納得するように笑みを浮かべ、『そうね、海ではいろんなことが起こるものね』と言いながら話題を変えた。
食事が終わると、母が「さあ、お風呂に入ろう」と声をかけた。僕は母と一緒に浴室に向かい、湯気が立ちこめるお風呂に浸かった。母は僕の髪を優しく洗いながら、「今日はたくさん釣れたね」と微笑んだ。僕は、湯船の中で手を広げながら大きく頷いた。
お風呂から上がり、母と一緒に布団に入ると、いつものようにその温もりが僕を包み込んだ。外の風の音がかすかに聞こえる中、僕はふと思い出して、母に向かってぽつりと話しかけた。
「今日ね、絶対海で女の子が手を振ったんだ。」
母は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑顔に戻り、僕の頭を撫でながら言った。
「そうなの。きっと素敵なお友達だね。」
「うん…でも、すぐにいなくなっちゃったんだ。」
母は少し考えるようにしてから、優しく僕を見つめた。
「大丈夫よ。きっとまた会えるわ。」
その言葉を聞いて、僕は安心し、母に身を寄せた。母の優しい手が僕の背中を撫でるうちに、目を閉じ、眠りに落ちていった。
それから時が流れ、僕は少女のことをすっかり忘れていた。日常が忙しさを増す中で、小さな出来事はいつの間にか心の片隅に押しやられていたのだ。季節は巡り、僕は中学生になって友達と海辺で過ごす日々が増えていった。
ある日、友達数人と一緒に遊びに行こうという話になった。「海に行こうぜ!」と誰かが提案した。場所は、あの日、父と釣りをした防波堤の近くの海岸。僕は特に思い出すこともなく、ただ友達と楽しむことを考えていた。
自転車で海に向かい、到着すると、広がる砂浜が僕たちを迎えた。風が吹き抜け、波の音が心地よく響く。友達はすぐに砂浜に駆け出し、海へと飛び込んでいった。僕もその後を追い、波に触れたり、砂で遊んだりして楽しんだ。
あの日の出来事なんて、まるで遠い夢のように、僕の中にはもう何も残っていなかった。ただ、広がる海と、友達との時間に僕は心から笑っていた。
友達の一人が突然、「じゃんけんで負けたやつは体を砂に埋めようぜ!」と提案した。みんなが面白そうだと笑いながら賛成する中、僕も勢いでじゃんけんに加わった。
結果は、僕の負け。
「よし、埋めるぞ!」と言いながら、みんなは一斉に僕の体に砂をかけ始めた。砂の感触がじわじわと僕の体を覆っていく。最初は冗談めいて笑っていた僕だったが、どんどん動けなくなってきて、ついには顔だけが砂の上に残される状態になった。
「全然動けないよ!」と笑いながら言う僕を見て、友達はさらに盛り上がっていた。僕の周りで笑い声が響き、誰かが「乳作ろうぜ!」と言い出し、砂の上にふざけておっぱいの形を作り始めた。それを見たみんながさらに笑い声をあげ、楽しそうに次々と砂の造形を作っていた。太陽が強く照りつけ、砂の温かさが体に伝わってくる。僕は動けないままだったけれど、その笑い声に包まれて、なんだか心地よさも感じていた。
僕が砂に埋められ、顔だけが砂の上に出ている状態で、友達はしばらく笑いながら楽しんでいた。しかし、しばらくすると、「ちょっとジュース買いに行こうぜ!」と誰かが言い出し、みんなが賛同する声が聞こえた。
「お前、ここで待ってろよ!すぐ戻るからさ!」と言い残し、友達は砂浜から少し離れた売店へと走り去っていった。
僕は砂に埋められ、動けないまま一人取り残された。みんなが去った後、急に周りの喧騒が消え、浜辺に静けさが戻ってきた。波の音だけが、静かに耳元で繰り返し聞こえてくる。
空にはまだ明るい日差しが残り、柔らかな風が頬を撫でていた。埋められている体は動けないが、その状態がかえって落ち着きを与えてくれている気もする。太陽が少し傾き始めた時間、ふと、何か懐かしい感覚が心に蘇ってきた。
どこかで、この光景を見たことがあるような、そんな気がした。
周りには誰もいない。ただ、穏やかな波が遠くでさざめき、ゆっくりと砂浜に打ち寄せては引いていく。その音の中に、幼い頃の記憶が重なる瞬間があった。
ふと海の方に目を向けてみると、そこに僕と同じくらいの歳の少女が佇んでいるのが見えた。背丈はほぼ同じで、清楚な印象が漂っており、後ろ姿だけでもその可愛らしさが伝わってきた。
思春期の少年には、彼女に声をかける勇気はなく、ただ黙って見つめるだけだった。少女は海の光に照らされて顔が見えなかったが、手を振っているのははっきりとわかった。その動作に、僕の心は不思議と落ち着きを取り戻していった。しかし、その時、友達が戻ってくる声が聞こえた。僕は急いで友達の方を振り返り、その後再び海に目を向けると、そこにはもう少女の姿はなかった。海と砂浜だけが広がっており、静寂が戻っていた。友達が戻ってきたので、僕は「さっき、海辺に可愛い子が居なかったか?」と尋ねてみた。友達は首をかしげながら、「そんな子、いなかったよ」と答えた。僕は少し戸惑いながらも、「そうか、暑さで頭がおかしくなったのかな?」と自分に言い聞かせた。
友達はジュースを飲みながら笑い話にして、気軽な雰囲気で話を終わらせた。みんなで楽しみながら、砂に埋まった僕を助けてくれた。だけど、僕の心の奥底では、あの少女に対して恋とは違う、不思議な感情を抱いていた。彼女の存在が、今も僕の心に深く残っているのを感じていた。中学を卒業し、僕は高校生になった。新しい環境での生活は慌ただしく、部活動に明け暮れる日々が続いていた。放課後はすぐにグラウンドへ向かい、週末も試合や練習で過ぎていく。あの海辺に行くことは一度もなく、気づけば、あの少女のことも頭の片隅から薄れていた。
時は流れ、高校生活も3年になり進路のことを考える時期がきた。クラスメイトや友達同士で進路の話をする機会が増えてきた。
放課後、部活が終わり、仲間たちと校門を出ると、友達の一人がふと話しかけてきた。 「お前、進路どうするんだ?」
僕は少し肩をすくめて答えた。「まだ迷ってる。都会の大学に行こうか、それとも地元に残ろうかってさ」
「都会かあ、いいな。俺はこの島に残るけど、やっぱり進学する奴も多いよな」と友達は笑いながら言った。「でも、部活ばっかであんまり遊べなかったよな。海とかも全然行かなかったし」
「確かにな」と僕も頷いた。部活に夢中で、あの海に行くことは一度もなかった。砂浜や、あの防波堤での思い出は遠い過去のように感じられた。
進路についての話題は、そのまま他の友達にも波及し、みんなそれぞれの未来について話し合いながら帰路についた。だけど、僕の心の中では、少しずつあの日の海辺や少女のことがよみがえりつつあった。それでも、具体的な形として思い出すには至らず、ただ日常の一部に戻っていった。
家に帰ると、両親が夕食の準備をしていた。食卓には温かい料理が並び、家族三人で久しぶりにゆっくりと夕食を囲むことになった。
食事をしながら、父がふいに口を開いた。「そういえば、お前の進路のこと、そろそろ決める頃だろう?何か考えてるのか?」
僕は箸を置いて、少し緊張しながら答えた。「うん。実は、都会の大学に行きたいと思ってるんだ。生まれた場所だし、都会の大学でいろんなことを学びたい。それに、広い世界を見てみたいんだ」
母は少し驚いたように僕を見つめたが、すぐに微笑んで頷いた。「都会か…。ずいぶん遠くなるけど、あんたがそう思うなら、応援するわよ。新しい経験がたくさん待ってるはずだからね」
父も、ゆっくりと頷いて同意した。「そうだな。都会は賑やかだし、きっと刺激的な生活になるだろう。でも、お前ならきっとやれるさ。俺たちはいつでもここで応援してるからな」
僕は両親の言葉に安心し、肩の力が抜けた。少し不安はあったけれど、二人がこうして優しく受け入れてくれることが、何よりも心強かった。
「ありがとう。本当に感謝してる。俺、絶対に頑張るから」と僕は笑顔で答えた。
母はその言葉を聞いて、優しく僕の手を握りながら言った。「いつでも帰ってきていいのよ。この島は、あんたの家だから」
父も笑いながら言った。「都会に行っても、たまには釣りに付き合ってくれよな」
僕はその言葉に少し照れながらも、家族の温かさを胸に、都会への進学を決意した。
無事に大学に合格し、いよいよ島を出る日が近づいていた。都会での新しい生活が待っていることに胸が高鳴る一方で、この島を離れることには少しの寂しさもあった。
出発の前日、僕はふと思い立って、あの少女と出会った浜辺に一人で向かうことにした。中学生の頃、友達と訪れた時以来、久しぶりに訪れるその場所。あの時と同じ風が海から吹き、波の音が耳に届いた。
僕は、無意識にあの時の少女の姿を探していた。心のどこかで、もう一度会いたいという小さな期待が膨らんでいた。そして、もし今度会えたなら、今度こそ声をかけようと決めていた。
防波堤に立ち、遠くの海をじっと見つめた。しかし、辺りは静かで、見えるのは果てしなく広がる海と空だけ。少女の姿はどこにもなかった。いくら目を凝らしても、あの時のように波打ち際に立つ影は見えなかった。
「やっぱり、現れないか…」
小さくため息をつき、僕は砂浜に腰を下ろした。会えるかもしれないという淡い希望は消え、少し寂しさが胸に広がる。もしかしたら、あの少女はただの幻だったのかもしれないと、自分に言い聞かせた。
それでも、僕の心のどこかには、彼女の存在が確かに刻まれている気がしていた。
都会での大学生活は新しい刺激に満ちていた。恋人、お酒、タバコ、そして大勢の人々。どれも僕にとっては未知の世界で、目の前に広がる都会の喧騒にすっかり夢中になっていた。毎日があっという間に過ぎていき、次々と新しい経験が僕を包み込んでいった。
気がつけば、島に帰る機会はほとんどなくなっていた。両親とは電話で話すくらいで、久しぶりに聞く母の声に、どこか懐かしさは感じつつも、話が終わればすぐに現実に引き戻される。友達との飲み会や恋人との時間、都会の誘惑は次々にやってきて、僕を忙しくさせた。
そんな生活の中で、島での生活は少しずつ遠い記憶の中に埋もれていった。幼い頃に感じた風の匂いも、波の音も、あの少女の姿も、どこか現実感のないものに変わりつつあった。僕は都会に生きていた。大学4年になり就職先をどうするか悩んでいた。都会での生活を続けるべきか、それとも島に帰るべきか――。心の中で揺れ動く選択肢を天秤にかけながらも、どちらにも決めきれずにいた。
そんなとき、母から電話があった。父の体調が思わしくないという知らせだった。急いで島へ帰ることを決め、久しぶりに島の風を感じながら実家のドアを開けた。
父は以前よりも少し痩せて見えたが、穏やかな笑顔で僕を迎えてくれた。病状は深刻ではないものの、歳を重ねるにつれて体力も落ち、少し無理がきかなくなっているとのことだった。食卓で久しぶりに家族三人が顔を揃えた。温かな食事と共に、静かな時間が流れた。
「お前も、もうすぐ就職だろう?」父はそう言って僕を見つめた。
僕は都会での生活と、島での生活、どちらを選ぶべきか悩んでいることを正直に話した。都会での仕事の話は魅力的だが、父の体調を考えると、島に帰るべきかとも思っていると伝えると、父は少し笑って言った。
「好きなように生きなさい。お前の人生だ。俺や母さんのために選択を変える必要はないよ。自分が本当にやりたいことを選べばいい」
母も少し寂しそうな顔を浮かべながらも、父の言葉に頷いた。
「そうよ、あなたのしたいことを優先しなさい。私たちのことは心配しなくて大丈夫だから」
その言葉を聞き、僕は複雑な思いに包まれた。都会での生活に魅力を感じている一方で、両親への感謝と、島での時間が懐かしく、どちらを選んでも後悔しそうな気がしていた。
夜の浜辺に向かい、波の音を聞きながら自分と向き合った。 都会か島か、どちらが本当に自分にとって正しい選択なのか——その葛藤がピークに達した時、穏やかな風が吹き、視線の先には昔見た少女……いや、同じ背丈の女性が静かに立っていた。
顔は見たことないのに、確信があった。あの時の少女だと——不思議な感覚だった。
声をかけたいと強く思ったのに、その背中はあまりにも美しく、言葉が喉に詰まった。後ろ姿だけで、目の前に立つ存在が特別だと感じさせるほどに。時間にして1分も経っていないのに、あまりにも長く感じた。
何かを聞きたくて、伝えたくて、いろんな想いが交差していた。
その時、女性がゆっくりと振り向き、僕に向かって手を振っていた。
顔は海に反射する光に隠され、見えない。
でも、彼女は確かに何かを伝えようとしていると感じた。
そう思った瞬間、女性はふっと消えてしまった。 まるで、風と共に溶けるように。
彼女が消えた後、僕はしばらく海を眺めていた。波の音に包まれながら、心の中で何かが静かに固まっていくのを感じた。都会での生活は確かに刺激的だったが、やはりこの島には何か特別なものがある。
「僕の帰る場所はここなんだ、島に帰ろう。」
その決意は揺るがないものになった。都会の友達にその話をすると、夏になったら遊びに行くよと笑顔で応援してくれた。しかし、付き合っていた彼女は僕の決意に冷ややかだった。
「そんな田舎に行きたくない。別れましょう。」
あっけない別れだったが、不思議と僕はそれほどショックを受けなかった。彼女がいなくても、この島での新しい生活が、僕を待っていると思えたからだ。
そうして僕は島に帰り、両親と3人の生活が再び始まった。島では若手が少なく、どこへ行っても仕事の話が勝手にできた。そんな中、僕は高齢化が進んでいるこの島に少しでも貢献したかった。両親への恩返しも含めて、知識も経験もなく介護も仕事に挑戦することに決めた。
最初は戸惑いばかりだったけど、年配の方々の笑顔や感謝の言葉に支えられながら、少しずつ仕事のやりがいを感じるようになった。仕事にも慣れ、日々の生活が安定していく中で、父が次第に物忘れが増え、家族の顔や出来事が少しずつ忘れていくようになっていると思い、父と病院へ行き検査をすると認知症と診断された。認知症になった父を、息子として介護していく中で、父が時折同じ言葉を使うようになった。
「あの人が元気か知ってるか?」
最初は何も考えない言葉だと思っていたが、何度もその疑問を投げかけてくる。
不思議な胸広がりを感じた私は、ある日母にそのことを話してみました。
「母さん、父がよく言う『あの人』って、誰のことか分かる?」
母は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに深い溜息をついてから、静かに答えた。
「そうね…実は、お父さんが『いつか自分から話す』って、ずっと言っていたの。でも、今の状態じゃそれも無理ね…だから私が代わりに話すわ。」
母の顔には、長年抱えてきた何かを解放するかのような、複雑な感情が浮かんでいた。
「実はね、お父さんも小さい頃、あの海で女の子を見たんだって。その女の子が、お父さんの成長と同じように大きくなっているのに気づいたとき、少し怖くなったらしくて、それ以来、あの浜辺には行かなくなったんだって。」
母は僕の目をじっと見つめ、続けた。
「あなたがあの浜辺で釣りをした時、女の子を見たって言ったでしょ?あの時ね、実はお父さんも同じようにその子を見たのよ。数十年ぶりに見たから、最初は怖く感じたみたい。でもその子が手を振っているのを見て…『元気で良かった』って、そう聞こえたんだって。」
母の話を聞いて、僕は自分と父が同じ体験をしていたことに驚き、言葉が出なかった。
「なんで、父さんは怖かったのにあの浜辺に僕を釣りに連れて行ったの?」と、僕は母に聞いた。
母は少し考えてから、静かに答えた。
「都会での生活をしていたから、もしかしたらもう見えなくなってるかもしれないって思ったんだって。それでも、何か気になってね。あの場所に連れて行きたくなったみたい。」
母は少し微笑んだが、どこか複雑な表情をしていた。
「そしたら、あなたもその子を見たから…父さんも驚いてね。気づかないふりをしようとしたんだって。」
「他に父さんは女の子のこと、何か言ってた?」と、僕はさらに母に尋ねた。
母は少し考えてから、優しく言葉を紡いだ。
「会いたくて行っても会えない、会話もしたことがないし、顔は見えない…そんな感じだったかな。あとはね、昔、父さんに『その人ってなんだと思う?』って聞いたことがあったの。」
僕は興味深く聞き入った。
「そしたら、父さんね、『怖いと思うことはあるけど、なんだろうな〜…守り神?みたいな感じかな』って笑って言ってたのよ。」
母の言葉を聞きながら、父の中にあったその不思議な存在について、僕の中でも何かしらの答えが浮かび上がりそうで、まだ掴めずにいた。
「へぇ〜、母さんは見たことないの?」と僕は母に聞いた。
母は穏やかに微笑んで、「私は見たことないのよ。一度会えたら感謝を伝えたいと思ってるの」と答えた。
「なんで?」と僕は不思議そうに問い返した。
「父さんのことを守ってくれて、ありがとうってね」と、母は優しくそう言い、話を締めくくった。
その言葉が胸に響き、僕は少しだけ暖かい気持ちになった。
僕は母からの話を聞いて、仕事が休みの日に父をあの浜辺へ連れて行った。父は「ここはどこ?」と、まるでこの場所が初めてのように、分からない様子を見せた。
釣りをした防波堤に連れて行き、椅子に座らせて一緒に海を眺めた。波の音だけが響く中、僕たちは無言だったが、不思議と心が穏やかだった。
昔のことを思い出しながら、ふと父に感謝を伝えようと横を見ると、父の目から涙が溢れていた。
「どうした?」と僕が尋ねると、父は涙を拭いもせず、ぽつりと言った。
「あの人が、居たんだ。手を振ってくれて…『頑張ったね』って、そう言ってくれたんだよ。」
そして、父は僕の方を見つめて「ありがとう」と優しく言った。そして「家に帰ろうか?」と微笑みながら続けた。その瞬間、父はまるで昔のようにしっかりしていて、僕は不意に胸がいっぱいになった。
父が昔の自分を取り戻したかのように、あの時の釣りの思い出が鮮明に蘇ってきた。感極まった僕は、言葉にならない感謝と温かさに包まれていた。
しばらくして、僕は地元で知り合った女性と結婚した。彼女は父のことも理解してくれる、とても優しい女性で、僕たちは実家で一緒に暮らすことにした。やがて息子も一人生まれ、家族としての新しい日々が始まった。
その頃には、父の認知症もさらに進行しており、母とも相談した結果、父には施設での生活をお願いすることにした。寂しさはあったが、父が安心して過ごせる場所でケアを受ける方が良いと、家族全員で納得しての決断だった。
それから息子が3歳になる頃、母も父と同じ施設に入ることになった。実家には僕たち家族だけが残り、新しい生活が始まった。両親のこと、息子の世話に追われ、気づけば時間があっという間に過ぎていった。
毎日が忙しくも充実していたが、ふとした瞬間に、静かな家の中で昔のことを思い出すことがあった。父と母と過ごした日々、あの浜辺で見た不思議な女性のこと。だけど今は、目の前の家族の幸せが何よりも大切で、僕はその日々を一生懸命に生きていた。しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かなかった。父が次第に物忘れが増え、家族の顔や出来事を少しずつ忘れていくようになった。最初は些細なことだったが、やがて父は認知症と診断された。
認知症になった父を、息子として介護していく中で、父が時折同じ言葉を繰り返すようになった。
「あの子が元気か知ってるか?」
最初は何気ない言葉だと思っていたが、何度もその疑問を投げかけてくる。僕はどうしても気になり、「誰のこと?」と尋ねても、父は答えることなく、遠くを見つめるだけだった。
不思議な胸騒ぎを感じた僕は、ある日母にそのことを話してみることにした。
ある日、僕は母に尋ねた。
「母さん、父がよく言う『あの人』って、誰のことか分かる?」
母は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに深い溜息をついてから、静かに答えた。
「そうね…実は、お父さんが『いつか自分から話す』って、ずっと言っていたの。でも、今の状態じゃそれも無理ね…だから私が代わりに話すわ。」
母の顔には、長年抱えてきた何かを解放するかのような、複雑な感情が浮かんでいた。
「実はね、お父さんも小さい頃、あの海で女の子を見たんだって。その女の子が、お父さんの成長と同じように大きくなっているのに気づいたとき、少し怖くなったらしくて、それ以来、あの浜辺には行かなくなったんだって。」
母は僕の目をじっと見つめ、続けた。
「あなたがあの浜辺で釣りをした時、女の子を見たって言ったでしょ?あの時ね、実はお父さんも同じようにその子を見たのよ。数十年ぶりに見たから、最初は怖く感じたみたい。でもその子が手を振っているのを見て…『元気で良かった』って、そう聞こえたんだって。」
母の話を聞いて、僕は自分と父が同じ体験をしていたことに驚き、言葉が出なかった。
「なんで、父さんは怖かったのにあの浜辺に僕を釣りに連れて行ったの?」と、僕は母に聞いた。
母は少し考えてから、静かに答えた。
「都会での生活をしていたから、もしかしたらもう見えなくなってるかもしれないって思ったんだって。それでも、何か気になってね。あの場所に連れて行きたくなったみたい。」
母は少し微笑んだが、どこか複雑な表情をしていた。
「そしたら、あなたもその子を見たから…父さんも驚いてね。気づかないふりをしようとしたんだって。」
「他に父さんは女の子のこと、何か言ってた?」と、僕はさらに母に尋ねた。
母は少し考えてから、優しく言葉を紡いだ。
「会いたくて行っても会えない、会話もしたことがないし、顔は見えない…そんな感じだったかな。あとはね、昔、父さんに『その人ってなんだと思う?』って聞いたことがあったの。」
僕は興味深く聞き入った。
「そしたら、父さんね、『怖いと思うことはあるけど、なんだろうな〜…守り神?みたいな感じかな』って笑って言ってたのよ。」
母の言葉を聞きながら、父の中にあったその不思議な存在について、僕の中でも何かしらの答えが浮かび上がりそうで、まだ掴めずにいた。
「へぇ〜、母さんは見たことないの?」と僕は母に聞いた。
母は穏やかに微笑んで、「私は見たことないのよ。一度会えたら感謝を伝えたいと思ってるの」と答えた。
「なんで?」と僕は不思議そうに問い返した。
「父さんのことを守ってくれて、ありがとうってね」と、母は優しくそう言い、話を締めくくった。
その言葉が胸に響き、僕は少しだけ暖かい気持ちになった。
僕は母からの話を聞いて、仕事が休みの日に父をあの浜辺へ連れて行った。父は「ここはどこ?」と、まるでこの場所が初めてのように、分からない様子を見せた。
釣りをした防波堤に連れて行き、椅子に座らせて一緒に海を眺めた。波の音だけが響く中、僕たちは無言だったが、不思議と心が穏やかだった。
昔のことを思い出しながら、ふと父に感謝を伝えようと横を見ると、父の目から涙が溢れていた。
「どうした?」と僕が尋ねると、父は涙を拭いもせず、ぽつりと言った。
「あの人が、居たんだ。手を振ってくれて…『頑張ったね』って、そう言ってくれたんだよ。」
そして、父は僕の方を見つめて「ありがとう」と優しく言った。そして「家に帰ろうか?」と微笑みながら続けた。その瞬間、父はまるで昔のようにしっかりしていて、僕は不意に胸がいっぱいになった。
父が昔の自分を取り戻したかのように、あの時の釣りの思い出が鮮明に蘇ってきた。感極まった僕は、言葉にならない感謝と温かさに包まれていた。
しばらくして、僕は地元で知り合った女性と結婚した。彼女は父のことも理解してくれる、とても優しい女性で、僕たちは実家で一緒に暮らすことにした。やがて息子も一人生まれ、家族としての新しい日々が始まった。
その頃には、父の認知症もさらに進行しており、母とも相談した結果、父には施設での生活をお願いすることにした。寂しさはあったが、父が安心して過ごせる場所でケアを受ける方が良いと、家族全員で納得しての決断だった。
それから息子が3歳になる頃、母も父と同じ施設に入ることになった。実家には僕たち家族だけが残り、新しい生活が始まった。両親の面倒を見に施設に通う日々と、息子の世話に追われ、気づけば時間があっという間に過ぎていった。
毎日が忙しくも充実していたが、ふとした瞬間に、静かな家の中で昔のことを思い出すことがあった。父と母と過ごした日々、あの浜辺で見た不思議な女性のこと。だけど今は、目の前の家族の幸せが何よりも大切で、僕はその日々を一生懸命に生きていた。
僕は息子を連れて、かつて少女と出会った浜辺に釣りに行くことにした。父が話してくれたあの日のことを思い出しながら、もしかしたら同じように声をかけられるのではないかと、淡い期待を抱いていた。
風は穏やかで、波は静かに打ち寄せる。息子は楽しそうに釣り糸を垂らし、僕もその隣で海を見つめながら釣り糸を送り出す。しかし、どれだけ目を凝らしても、あの少女の姿はどこにもなかった。あの頃、確かに彼女はそこにいたのに、今はただ広がる海だけが僕たちを包んでいた。
時間が過ぎ、釣りを終えた僕たちは、特に何も言わず浜辺を後にした。静かな午後の海を背に、いつも通りの日常が戻ってくる。息子も特に反応はなく、ただ無邪気な顔で僕の隣を歩いていた。
ところが、帰り道の途中で、息子がぽつりとつぶやいた。
「おともだちがいたよ。」
その言葉に、僕は驚いて足を止めた。息子は僕の顔を見上げて、にっこりと笑う。
「どこにいたの?」と尋ねると、息子は遠くの海を指差しながら言った。
「あっちで、手を振ってた。」
僕はその方向を見つめたが、そこには何も見えなかった。静かな波の音だけが、かすかに耳に残る。
それでも、胸の奥には、何か懐かしい感覚がふっとよみがえった。少女は確かにそこにいて、今もどこかで僕たちを見守っているのかもしれない。そんな気がして、僕はそっと目を閉じた。
浜辺の君 @hanedakyo
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