第3話 イスラム教徒に学ぶ「真剣さ」

なにも日本人がイスラム教に宗旨替えする必要はないのです。

彼らの「日に5回の五体投地」という、真剣で熱心な「祈りの精神に学ぼう」というのです。

  イスラム教徒は、

○ 日に5回、決められた時間に五体投地をする。

○ 周りの人間にそれを見せつける(これが大切なこと)。

○ 座禅のように、みんなで揃ってやる必要はない。それぞれが自分のペースで祈り、自分の満足するまで祈る(5分から10分間) → これも重要。格好をつけるのではない。あくまでも、自分の心の中で神に近づく努力を必死で行うという、その真剣さが大切なのです。


日本人は日本人らしく、彼らイスラム教徒の真剣味を鏡にする。

  家の中の神棚でも部屋の植木でも、ベランダから太陽に向かってでもいいので、パンパンと柏手をついて「自分の中の神」に心を近づけるとか。

  外出時であれば、満員電車の中でも、公園でも図書館の中でも、トイレの中ででも、1分でも5分でも自分の好きなだけ「神を意識する」。これが日本流「神へ心を近づける」道。


  コロコロ変わる人の心を追うよりも、同じ目に見えなくても、確かに存在する(天地を創造した)不変・普遍の神に近づこうと努力する方が、長い目で見れば間違いがない。人間の作った自動車や建物は消えていくが、太陽や月は何十億・何兆年(永久に)変わらない。

目先の利益(ものカネ)を求めるなら人間に拘泥していればいい。しかし、その先にある無限や永久という魂のレベル(形而上)経由で現実世界を生きようとするなら「神の生き方・神の存在」に即した、自分なりの生き方・存在の仕方を目指すべきではないでしょうか。

  現実に神を見ることはないでしょう。しかし、神を追求する強い心が涵養される、ということが大切なのです。そして、単一民族で血が濃いわたしたち在来種日本人であれば、それができるのですから。


60年前、銭湯の湯船の中で、富士山の絵を背に「旅往けば~駿河の国の茶の香り~」なんて、頭に手拭いを載せて浪曲を唸っていたおっさんなんて、今にして思えば、まさに「日本的なる神の境地」だったのです。

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【形而上】

①[易経(繫辞上)「形而上なる者は之を道と謂(い)い、形而下なる者は之を器と謂う」]形式を離れたもの。抽象的なもの。無形。

②〔哲〕(the metaphysical)(井上哲次郎の訳語)時間・空間の中に形をもつ感覚的現象ではなく、超経験的で理性的思惟によってのみ認識されるような概念・対象・存在などのあり方。明六雑誌(12号)「西人の説によれば凡そ学問の事たゞ二大分あり…即ち―形而下の二項に過ぎず」⇔形而下。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

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鎌倉辺りの観光寺院で、薄らぼんやりしたクソ坊主と一緒に座禅なんかしたところで、なんの足しにもならないどころか、やればやるほど「心が落ち着いた気になる」だけの精神分裂症になるだけ。禅に限らず仏教には、神という絶対の意識が欠けているから(噓も方便という、いい加減さ。良く言えば融通無碍)。


太陽(の運行)のように、絶対に変わらない座標軸を標榜しないかぎり、人の心とは座標を特定することはできない。インドのヨガの修行者のように、奥深いジャングルで何十年も大自然と一体化するくらいでなければ「座禅の効果」など生まれない。むしろ、マイナスとなるのです。

続く

2024年10月4日

V.1.1

2024年10月10日

V.1.2

平栗雅人

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中国人とイスラム教徒という贈り物 V.1.3 @MasatoHiraguri

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