第44話 邂逅
床に呑まれたその瞬間、ザイナスは運悪く椅子から放り出された。
降下が思いの外に長く、藻掻いて笠木を掴まえる。落下するより幾何かは緩い。どうにか墜落の難は逃れた。どうやら椅子は固定され、軌条に沿って走っている。脚の間を覗いて見れば、台座を曳くのが伺えた。
よくよく見れば、椅子の肘掛け、前の脚、座板に引き絞られた帯がある。どうやら椅子から落ちぬよう、固定される仕組みだったようだ。予感に慌てて逃げ出したせいで腰の座りが偶さか悪く、放り出されてしまったらしい。
間もなく、椅子は平らに走り始めた。周囲は明かりもない通路だ。下手に逃げ出して迷うより、大人しく連れて行かれた方が安全だろうか。うっかり罠を踏み抜きかねない自分の厄憑きは自覚している。ザイナスは観念して座り直した。
勿論、この先の方が何倍も剣呑ではあるだろう。
椅子は闇の中を延々と走る。やがて、耳許の風が遠くに抜けた。辺りは変わらず真っ暗だが、どうやら広い場所に出たらしい。否、闇も僅かに仄暗い。距離感の掴めない背中の方で、鉄の滑る音がした。通路の閉じる音だろうか。
椅子は速度を落として静止した。
床下に燈が灯った。所々が飾り硝子になっているようだ。夜の氷上に取り残されたように、ザイナスの椅子は却って濃くなる闇の中に取り残されている。
「スクルド、シンモラ、ヘルフ、フリスト――」
背中に囁く声がした。聖像の伝声管を介さない生の声だ。
「ヒルド、ゲイラ、この声はスルーズ?」
硬い香りに目を遣ると、仄白く煽り照らされた人影が通り過ぎた。長い髪を光沢が滑る。まるで艶やかな蛇の腹だ。ザイナスは溜息まじりに思案した。羽根の囁きが途絶えたかと思えば、どうやら伝信も取り上げられているらしい。
「ずいぶんお仲間がいるようですね、ザイナス・コレット」
ソフィーア・アシェルが向き直り、正面からザイナスを見おろした。下から燈を受けた胸下の他は、白い頬と鋭利な目許だけが薄闇に浮かんでいる。髪と薄絹の黒衣は闇に溶け、蒼く艶のある外套が水面のようにさざなんでいた。
「人が天使を飼うなどと、いったい何が起きているのです」
耳慣れない言い回しに戸惑いつつ、そう見えるのかな、とザイナスは驚いた。
「彼女たちは自由なので」
むしろ、自由すぎるので。ザイナスは従属を強要できない。御柱さえも、それが叶わない。庇護と言い換えられるなら、飼われているのはザイナスの方だ。
「ええと――」
ザイナスはふと、思ったままを口にした。
「貴方を何と呼べば?」
感覚的な問いだった。彼女の名前は知っている。人の身も、御使いも。懐疑は明確な形を成していない。ただ、灯のせいか現実感に乏しい。むしろ、香りに存在を感じる。乾いた紙の硬い匂いだけが、彼女の身体に厚みを作っている。
「ソフィーアと。今は同じ人の身ですから、許しましょう」
何にせよ、指定されるのは有難い。会話の迷いが誤魔化せる。
そも御使いを気軽に呼ぶのは憚られた。無信心と言われた身だが、教会育ちはそういうものだ。ここ最近の騒動で、すっかり箍が緩んでいる。
「さても天使の同盟とは。貴方を護る意味は何でしょう。ましてスルーズがいるのなら、供物と祭壇を聖堂に揃えれば、これを刈れるとわかっている筈」
まいったな、と途方に暮れる。どうやら虎の子の最後の秘密も彼女に知られているらしい。そのザイナスの表情に、ソフィーアは目敏く微笑んだ。
「ラングステンに滞在したスルーズの行動は把握しています。あれは
ザイナスは小さく肩を竦めた。
「僕にも理由はわかりません。人でいるのを楽しんでいるようでもあり――」
苦しんでいるようでもあり。
「だから、せめて寿命まで生き延びたい僕と利害が一致したのでは?
天界はそんなに退屈ですか、とは訊かなかった。慣れない言葉は抵抗がある。
「故に同盟し、おまえを護ると? 天使も堕落したものです」
「貴方も同じ人の身では? ソフィーア」
一拍の沈黙は気のせいか。
「敬意を欠けとまでは言っていませんよ、ザイナス」
ソフィーアは微かに口許を顰めて見せた。
さて、彼女をどう切り崩そうか。ザイナスは幾つかの可能性を併せて思案する。
「ですが、こんな面倒なことをしなくても、もっと簡単に僕を攫えたのでは?」
ザイナスは訊ねた。
「あの白い――霧の掛かったような場所に連れ込むだけで良かったのに」
ソフィーアは微笑んで返した。
「あれは、私も迂闊でした」
ザイナスは彼女の機微を眺めている。
「突然に見つけて気が急いたのです。あのまま攫ってしまっては、要らぬものまで付いて来る。手に入れたいのは貴方の
ザイナスは大きく息を吐いた。つまり、身体は余計だと。残ったそれは
思わず思索に気を取られ掛け、ザイナスは我に返って次の足掛かりを探った。
「気掛かりを訊いて貰えますか?」
「命乞いですか?」
「似たようなものです」
素直な言い様に呆れた顔をされたものの、ザイナスは気にせず切り出した。
「
水を被って洗い落したようにソフィーアの表情が掻き消えた。
「意味を書き換えられたとしても、その名は真理で在り得るか、なのですが?」
ザイナスは小部屋で投げた先の問いを繰り返した。
「何故、ただの占事に拘るのです」
ソフィーアは問いで返した。こちらの類は当たりかな、とザイナスは思案する。不信心の宣告前なら単なる趣味で済ませもした。だが今は、どうにも偶然が多すぎる。御使いに出遭ってからは尚の事、そこには道理があるのだろうか。
「神霊の加護なく奇跡が成るのは、何故なんでしょう」
在り得ない。それを改めて言葉にすれば、ザイナスさえも身体が震えた。神なき身にしか発せない問いだ。教会育ちの道徳観には些か以上に反している。
「貴方は柱の威もなしに明日の天気が占えると?」
ソフィーアは表情もなく皮肉を告げた。
それは彼女の是とする好奇心に反している。
「それなら、
ザイナスは脳裏に
「明日は――そうだな、晴れると良いですね」
ザイナスが微笑むと、ソフィーアは苛々と応えた。
「なるほど、詳しいのですね。ですが、それはただの名です。意味を違えれば真理は歪む。そんな児戯なる言葉の先に神など居ません。在る筈がない」
確かに。自分にはそれが居ないから、今もこんな目に合っている。
「書き換えられた、という事ですか?」
「時間稼ぎはもう止めなさい、ザイナス」
遮るようにソフィーアは言った。
「確かに、貴方の天使はも近くにまで来ています。聴かれているとも知らず、姦しく囀っていますからね。ですが、手遅れ。私の手の方がずっと近くにある」
ソフィーアはザイナスに一歩寄り、胸元に両の手を掲げた。
「此処は、
指先の間に白銀の環が現れ、冠を形造った。ミストの神器だ。皆に聞くところ、支配を顕す特異な類で、権域こそ狭いが権能は事象にまで及ぶという。
「それは残念、明日の天気をお楽しみに」
ザイナスは肩を竦めて見せた。頭頂の際にちりちりと冠の気配を感じるや、不意に手摺から手を放した。ソフィーアの両肘を掴んで下から押し上げる。
ソフィーアは動揺に震えた。ザイナスが窮屈そうに身動ぐさまは、予定の通り椅子に縛られているからだ――そう疑いもしなかった。何より、今まで慎重に避けた身体の接触が、こうも感覚を刺激するとは。血肉の五感が御しきれない。
御使いの臂力は人の比ではない。ただ冠を頭に載せる。それだけの事だ。
それだけの筈が、儘ならない。冠は両手だ。掲げた手を離せば落ちてしまう。
ソフィーアは腕を押し込むも、ザイナスの腕が閊えていた。身体ごと下に擦り下がる。御使いであれ何であれ、人の可動域は限られている。単純な物理だ。
何足る無様か。ソフィーアが苛立ち、手を払おうと肘を広げたその瞬間、ザイナスが腕の間に滑り込んだ。椅子を蹴り、拡げた腕に身を潜らせて立ち上がる。白銀の冠はザイナスの頭を通り越し、背に回った。ザイナスを一方的に抱き竦める格好だ。息の触れ合う間近の位置で、ソフィーアはその目を覗き込んだ。
冠を手放し、腕を解き、突くなり蹴るなりすれば良い。だが、その手順をソフィーアは迷った。刹那にザイナスが唇を奪う。衣擦れの音が遠退いた。延々と続く無呼吸の狭間に、どちらのものともつかない鼓動だけが鳴っていた。
さて、これで駄目なら万事休すだ、ザイナスは冷静に思案した。状況が今までとは異なっている。彼女が想像の通りなら、御使いたちさえ想定外の事態だ。
息苦しいな。困ったな。この中途半端な舌をどうしよう。
不意にソフィーアの膝が崩れて滑り、ザイナスの首に縋りついた。反射的に抱き止めながら、ようやくザイナスも詰めた呼吸の再開が敵った。
「ソフィーア、ミスト、それとも他の誰か?」
胸許に撓垂れ掛る上気した頬を覗き込み、ザイナスは声を掛けた。
「ええ、ええ。大丈夫――あれは、もういません」
ソフィーアは喘ぐような吐息を漏らした。
別人とは少し違う。同じソフィーアだが意思が異なっている。勿論、ただの思い違いかも知れない。ザイナスにはその変化を信じる以外の選択肢がない。
問いも疑いも山ほどあったが、ザイナスは敢えて呑み込んだ。
「勿論、証明は難しいですけれど」
朱色の頬と、やや過呼吸気味の息を取り戻してソフィーアは自ら答えた。
「これも演技かも知れませんよ?」
思わず緩めた腕に対して、彼女は過剰に体重を預ける。
「あら、もう少しこのままで」
突き放す訳にも行かず、ザイナスはぎこちなく凍りついた。
「ああ、こうやって何人も使いを堕としたのですね」
本当に大丈夫かな。
「あれについては、私も詳しくは申せません。使いも知らない――使いだからこそ知り得ない知識の範疇です。それは、貴方も予想されていたのでは?」
確かに敏い。
「つまり、さっきのはソフィーアでもミストでもない?」
取り敢えず、これも変化の証左と前向きに受け取る事にした。
「流石に使いのことをよくご存じです。ええ、あれは
ザイナスの対話相手も、正確にはミストではない。あくまで受肉したソフィーアの人格だ。その部分に割り込まれ、乗っ取られていた――という事らしい。
「他の御使い、ですか?」
「スクルドとシグルーンの権能連結ならば、あるいは」
答えるものの、ソフィーアは思案する。
「ですが、あれは貴方の妹で――どうして妹なんです? あれは最も御柱に忠実で、スルーズの次に融通の利かない子ですのに。貴方の
話がソフィーアの関心に逸れた。とはいえ、リズベットについてはザイナスも理由がよくわからない。妹の正体を知ったのも、つい最近の事だ。
「いずれにしても、使いは迂闊に信用なさいませんように。特に、私を」
話を戻すや、ソフィーアは悪戯な目で囁いた。
「あれは私の知識を利用し、記憶を奪いました。本当に私から消えたのか、正直その確証もありません。記憶に罠を仕掛けた可能性も否定できません」
「罠、ですか?」
「
なるほど、ソフィーアだけではない。その可能性は、なくもない。
「現状で、あれの正体の推測は?」
溜息まじりに頷いて、ザイナスは訊ねた。
「その理知は私に高得点です、ザイナスさま」
ソフィーアが嫣然と微笑む。
「正直、私にもまだ確信はございません。ただ、ザイナスさまの
こめかみを押さえようとして、ザイナスは手が塞がっているのを思い出した。ようやく御使いも半数を越えたかと思いきや、さらに得体の知れないものが出た。
「これも御柱の?」
「さて、気紛れであれば私にも。御柱の因果は後先が同時に生じます。地上の我らは時に沿って識るだけ。御心を確かめる術はありません」
前にアベルもそう言ったが、ザイナスは愚痴らずにいられない。不信心が悪いのか、それとも故の不信心か。何を悔い改めれば良いのだろうか。
「ザイナスさま」
ソフィーアが囁く。
「記憶に欠落はありますが、欠けた部分は認識できます。
巧く立ち回りさえすれば魔女の手を擦り抜ける事はできる、と彼女は言う。
「必ず、貴方のお役に立ちます」
暗い熱を帯びた視線はザイナスも腰が引けるほどだった。
「無理に僕といなくても、貴方の自由にして良いんですよ?」
「何を今更。私を穢しておいて、ねえ」
ソフィーアのねっとりとした上目遣いに思わず怖気る。
「自由というなら、ザイナスさまこそ」
ソフィーアの細い指先が無自覚に自身の唇を弄ぶ。
「私を自由にされてはいかが?」
オルガと同じ頃合いの女性だが、性質は真逆だ。陰の気が強い。溶けて纏わりつく腕に、ザイナスは思わず逃げ場を探した。
「もう」
ザイナスの表情に気づいて、ソフィーアは恨めしげな目を向ける。
「ならせめて、もういちど口づけをいたただいても?」
熱い吐息の混じる声で、彼女はザイナスにそう囁いた。
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