第43話 捜索
「兄さん」
駆け込むリズベットの足下は、寄木模様の床だけだ。ザイナスは椅子ごと消えていしまった。名残りはおろか、跡さえない。目を凝らしても見当たらない。
床の模様の筋目に辿る。屈めた頭のその上を、壁の瓦礫が掠めて飛んだ。
重い鉄を打つ音に土埃が弾ける。髪を払いつつ、リズベットは咄嗟に竦めた首を掲げた。エステルが瓦礫を掴み上げ、再び投げようと身構えている。
振り返れば、間近に影が圧し掛かっていた。黒いミストの聖像だ。緩く傾いだ鉄の肌が、砕けた義石材に白く塗れている。さも当然のように、それは動いた。
リズベットが飛び退くその位置に、像の台座が滑り込む。
趣味が悪い。表情のない微笑みを見上げてリズベットは呻いた。
「オルガ、兄さんが攫われた」
羽根に向かって忌々し気に叫ぶ。語尾に派手な金属音が重なった。エステルが無造作に投げつけた瓦礫は、配管の連なった義石材の塊だ。さすがの聖像も仰け反った。だが、見れば像の繊細な造作は折り重なった可動域だ。半身で瓦礫を受け流し、台座は浮きもしていない。舞う粉塵にリズベットが咽た。
「フリスト、これも貴方が造ったの?」
『え、何』
「すかした冠女の鉄の像」
『あー』
ビルギットの間の抜けた返事が返った。
『あれ、動くから』
「ええ、知ってる」
二人に虚ろな硝子の眼を向け、聖像はきりきりと鉄と歯車の音を立てた。動輪を収めた台座の縁からは、館内動力と繋がる幾束もの管が伸びている。絡まぬものかと思いきや、床や腰壁の寄木の模様が連動して管を収めていた。どうやら、この部屋そのものが大掛かりな仕掛けになっているらしい。
「壊す」
ふん、とエステルが言い放った。聖像がきりきりと部屋を巡り、二人に向かって対峙する。慈愛に満ちた笑みを向け、たおやかに組んだ腕を解く。
迎えるように拡げるや、鉤の並んだ幾対もの義腕が台座から生え出した。
◇
「おい、誰かこれがわかる奴をこっちに寄越せ」
一面に管の這い回る部屋に立ち、ラーズは途方に暮れて呟いた。一脚しかない椅子の傍、何気に周りを見渡せば、まるで地蜘蛛の巣のようだ。蒼く薄暗いこの中にいると、どちらが獲物かわからなくなる。ラーズは知らず顔を顰めた。
『こっちのミストを何とかして』
リズベットの声が割り込んだ。
『これじゃ、兄さんを追い掛けられない』
とはいえ、物理でエステルに優る戦力はない。リズベットもいるなら尚更だ。
『フリスト、ヘルフはヒルドに合流しろ』
オルガは迷いなく応えた。
いずれミストはザイナスに接触する。ならば一方は巣を抑え、獲物を迎える蜘蛛を追う。糸が撚り合うラーズの場所なら、彼女を手繰り出せるだろう。
『ぐずぐずするなフリスト、とっとと走れ』
『ヘルフ、そっち逆』
羽根の声を聞き流しつつ、ラーズは席を眺め遣る。
椅子の周囲に折り重なっているのは、見る者のない映写盤だ。動く絵画のその中に、館内のあらゆる場所が切り出されている。その内の揺れる一枚絵には、刺々しい脚を拡げた黒い鉄像が映っていた。どうやら、エステルとリズベットを追い回している。あの二人にしては苦戦している様子だ。
『ゲイラ、スクルドに合流してザイナスの跡を辿れ』
『人使いが荒いなあ』
ラーズは真紅の椅子から残り香を辿った。部屋に居たのは一人のようだ。移動の範囲も極端に少ない。椅子からほとんど動いておらず、一直線に――。
「何やってんの」
壁に張り付くラーズを眺めて、クリスタが鼻根に小皺を寄せた。彼女に引かれて部屋に飛び込んだビルギットは、肩で大きく息をしている。
「気配は此処までだ。扉がない」
つるりとした壁をこつこつと指で打ち、ラーズは二人に一瞥を向けた。
「開ける、あそこ」
切れ切れに応えてビルギットが椅子を指す。
「なら、さっさと開けて。ザイナスくんを取り返して、図書館女をボコるんだ」
クリスタが手を引いて中央に駆け、ビルギットを椅子に放り込んだ。
「あー」
すっぽり椅子に嵌り込み、ビルギットがじたばたと藻掻く。小柄なビルギットでは背も丈も足りず、目の前の操作盤に手が届かない。
「もう」
クリスタは舌打ちしてビルギットを抱え上げ、上背を操作盤に押し遣った。
「もっと寄って、も少し右」
ビルギットの注文に、クリスタがぎりぎりと歯を鳴らす。
「邪魔なの、この無駄肉が」
だゆん、と揺れる傲慢な肉の塊を鬱陶し気に払い上げた。
「おまえら、真面目にやれ」
ラーズが壁際で呆れて呻いた。再び覗き見る映写盤には、まだ先の部屋が映っている。固定の盤面を聖像が横切り、リズベットが危うく身を躱した。
どうやらミストの聖像は、御使いとの敵対も想定していたらしい。動きがどうして儘ならない。鉤の腕を振り翳し、逃げ遅れたエステルを抱え込んだ。
◇
聖像の腕は矢のように迅い。エステルの身体を抱き込み――次々捩じ切り、投げ捨てられた。エステルは腕の根を掴み、そのまま像に這い上る。
エステルは強い。臂力も頑丈さも格段に優る。だが、その体躯は極端に小さく、踏み堪える足下がなければ十二分に戦えない。
台座が大きく回転した。掴んだ腕ごと切り離し、小石のようにエステルを振り払う。エステルの身体が真っ直ぐ飛んだ。鞠のように壁まで跳ねる。
飾り壁に穴が開き、切子の破片が割れ飛んだ。
巨大になればその分だけ、エステルも重さは持ち込める。ただ、確実に床を踏み抜いてしまう。落ちたザイナスもろとも潰しかねない。
像は腕を槍衾に構え、止めとばかりに壁に埋まったエステルに突進した。が、不意に傾いで台座を捻る。上手く進めず、行きつ戻りつ小刻みに動いた。
床の隙間に白い羽根が潜り込んでいる。リズベットの神器だ。
壁際の瓦礫が跳ね上がり、埃まみれの不機嫌な顔が突き出した。それを見遣ったリズベットが、立ち往生する神像を顎で指した。
「シンモラ、床を剥がして。こいつの足下を丸裸にしなさい」
呆気なかった。部屋と一体化した聖像の機構は、床裏壁裏の軌道を暴かれ、一気に機動力を消失した。捲り捨てられた床と壁、捩じ切られた軌条の間で、ミストの聖像はひっくり返った虫のように、じたばたと藻掻いている。
「フリストが余計なものを造るから」
エステルと聖像を眺め遣り、リズベットがこぼした。
『知らない。彫像は別発注だし』
『彫像なんて全員、扱ってるし』
ビルギットとクリスタが耳許でぼやき返した。
『ああ、それと――』
ビルギットが思い出したように口にした。
『それ、動けなくなったら爆発するから』
◇
「こいつはまた派手にやったね」
部屋の中を覗き込み、アベルは呆れ顔でリズベットに声を掛けた。
壁という壁が割れ、配管が糸を引くように崩れた義石材に絡みついている。床はといえば、さらに異様で、板らしき物は断片しかない。梁と思しき捩じくれた鋼材が、吹きこぼした麺の如く周囲に堆く押し積まれている。
「遅い」
アベルを睨んでリズベットが言い捨てた。エステルは床にしゃがみ込み、鋼材を引き摺り出しては放り投げている。どうやら床下を探っているらしい。
アベルは片手に抱えた女性を廊下に放り出し、恐る々々部屋に踏み込んだ。捨てられたのは案内の司書官だ。部屋の前で竦んでいたところを、意識を奪って捕まえたらしい。見目に反してアベルは女性の扱いが雑だった。
「なるほどね。しかし、これは面倒な」
剥き出しになった床下には、幾つもの竪穴が開いている。あるものは深く、あるものは折れ、どれも先が暗くて見えない。ザイナスは何処に落ちたのだろう。
「追ってみた?」
アベルがリズベットに訊ねる。スクルドの羽根はその手の芸当が得意だ。
「全部、奥で閉じてる」
「なるほどね」
中扉だ。アベルは部屋を見渡すが、この惨状では手掛かりがない。当然、自爆した聖像は跡形もなかった。リズベットの護りとエステルの頑健さがなければ、生身の人など部屋の染みだろう。ザイナスがいたら、と思うとぞっとする。
「フリスト、そっちの扉は開いた?」
今度は羽根にそう訊ねる。
『まだ』
「通路はわかる?」
『わかる』
作業片手のビルギットはエステル並みに会話が続かない。
「この部屋と合流する通路を教えて」
暫しの沈黙。先に反応したのは羽根を操るリズベットだった。
「シンモラ、そっちの穴」
どうやら、ビルギットが遠隔で中扉を開いたらしい。リズベットが指さすや否や、エステルは無造作に飛び込んだ。罠も仕掛けも、警戒する気が端からない。アベルは呻いてリズベットを窺うと、彼女は気にした様子もなかった。
「ほら、さっさと行くわよ」
エステルに露払いさせる気だ。穴を覗き込み手招きするリズベットに、アベルは小さく嘆息した。キミ、兄としてあの妹たちを御せるのか? 胸の内でザイナスに投げ掛け、アベルは二人の後を追い掛けた。
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