9章 アルビオン攻防戦

第33話 王子さまは突然に

 気づけばザイナスは異世界にいた。いや、そんな視界に困惑した。

 汽車から放り出されたのは半日前だ。樹林に落ちて枝葉に縋り、身体を丸めて下生えに沈んだ。それから散々に森を彷徨い、すっかり方向を見失った。

 皆に連絡を取ろうにも、スクルドの羽根は消えてしまった。落下の際に霊力を使い果たしたらしい。こうして軽傷で済んだのは、羽根にまつわる奇跡のお陰だ。

 皆はあの後どうなったのか。ビルギットの汽車とエステルは。まずは合流しなければ。そうして足掻いて彷徨い出たのが、この場所だった。

 ようやく辺りが開けたかと思えば、目の前にあるのは広い湖だった。しかも、捩れた列車が絡まって重なり、崖の先まで突き出している。

 森を割って這い出しているのは、確かシムリスの駅で見た豪奢な列車だ。無骨な装甲に覆われた車両が崖まで横倒しになっており、それに押された真白な車両が、水辺を窺う大蛇のように、斜めに湖面を覗き込んでいる。湖に向かって目をや遣れば、横倒しのと同型の車両が崖下に真っ直ぐ突き立っていた。

 明けの駅には見当たらなかった。恐らく夜半に発ったのだろう。先でビルギットの進路を塞ぐつもりが、思いの外に速度差が大きく、追いついてしまった。

 悪い事をしたな、とザイナスは思う。とはいえ、御使いの騒動に巻き込まれたのだから、これも天災には違いない。どうか、来世が優遇されますように。

 切り替えて見渡すも、車窓に眺めた丘や線路はおろか、小山のようなビルギットの汽車さえ何処にも見えない。森の樹を割く脱線跡を目で辿れば、遥か向こうに棚引く煙。焼けた草と鉄の匂い。微かに金属の掻き毟る音が聞こえた。

 線路に辿り着こうとするなら、この跡を遡るのが早そうだ。潰れた樹々を眺めるに、列車の向こうがまだ歩き易いだろう。そう考えて車両を見て回った。

 造りが頑丈すぎるのか、車体に多少の凹みはあっても裂けてはいない。人がひとりも見当たらないのは、むしろ歪んで扉が開かないのだろう。

 道理で、中から音や声がする。乗客が抉じ開けようとしているようだ。とはいえ、ザイナスひとりではどうしようもない。少し調べて、じき諦めた。

 放って置こう。湖に突き出た車両と異なり、崖から落ちる心配はない。先に御使いを見つけた方が、体力的にも無駄がない。その方が、よほど効率的だ。

 そも、構っている暇が――ザイナスは内心で息を吐き、崖の間際を振り返った。

 湖上に突き出た白い車両は、俯いて連結を宙に持ち上げている。乗り越えるか下を潜るかが微妙な高さだ。ただ、ぎりぎりと嫌な音を立てている。

 傾ぐ車体の端に窓を見つけ、ザイナスは中を覗き込んだ。

 車内は豪邸の一室かと思うほど広かった。固定された什器や調度品の他は湖の側に寄っている。一体どういう状況か、辺り一面に書類と思しき紙片が散乱しており、白く積もった紙の山から、つるりとした真っ白な脚が突き出している。

 死んでいるなら気も楽だ。だが、どうやらそうではないらしい。

 ザイナスは連結部に取って返した。こちらは車体の歪みも少なく、辛うじてザイナス独りで抉じ開けられそうだ。隙間に身体を捩じり込み、押し開け、車両に転がり込んだ。炊事場、浴室、侍従の間。片側にもやたらと別室はある。幸い無人だ。汽車にこれほど必要か、などとぼやきながら客室に滑り込む。

 床が傾き、まともに立てない。紙片を踏めば間違いなく転ぶ。

 軋む音は絶えず鳴り、刻々と傾斜が増すようだ。

 書類の山に辿り着き、すらりと伸びた素足を辿る。積もった紙片を払い除けた。

 気を失っているのか、呑気に眠りこけているのか。ザイナスと同じ歳頃の少女だ。寝姿は幼くあどけないが、鼻梁はリズベットにも似て気が強そうだ。

 ただ、品のある目許には微かな疲労の跡もある。まるで、徹夜仕事をしていたかのようだ。これほど豪奢な部屋で仕事に追われるなど、理解が及ばない。

 いや、そういう事もあるのだろう。ザイナスはオルガの事情を思い出した。

 恐らく、残務に追われる書記官に違いない。

 少女を起こそうと手を伸ばす。刹那、車両が大きく揺れた。悠長に構える暇はなかった。ザイナスは形振り構わず少女を抱え上げた。什器の留め具に踵を掛け、壁に肩を押し当てて、ひと息に車両を駆け上がる。

 少女が気づいた。寝惚けた半眼で目を擦り、ザイナスを見上げて声を上げた。

「じっとして、君を攫いに――」

 ――来た訳じゃない。弁解の途中で紙を踏んで滑る。肩を打ちつけ、身を支えた。少女をきつく抱き込んで堪える。息を詰めて斜めの車両を走り抜けた。

 扉を越えるや、大きく動いた。連結器が稼働域を外れ、大きく捻れて車両が滑る。ザイナスは足下が沈むに任せ、撥ね上がる間際に飛び降りた。

 少女を庇いつつ、大股で跳ねるように勢いを殺して行く。

 連結が捩じ切れ、車両が落ちた。崖の向こうに鉄と水と石の音を響かせる。森から突き出た残りの部分は、幾度も撥ねてザイナスの背を煽った。中から大勢のくぐもった悲鳴が聞こえる。扉を開けようとしていた乗客だろう。

 ザイナスは額の汗を拭おうとして、少女を抱えたままだと思い出した。蛸が窒息したような身振り手振りの少女を下ろし、怪我はないかと確かめる。

 よくよく見れば薄衣だけだ。下着とそうそう変わりがない。慌てているのも無理はなかった。ザイナスは要らぬ誤解を恐れて両手を挙げる。ゆっくり後退った。

「貴方は――」

 少女の向こう側に声がした。揺れた勢いで車両の扉が開いたらしい。蓋の外れた調味料のように、乗客かいっぺんに転び出る。

「ええと、お構いなく」

 ザイナスは言い残し、言葉も半ばで逃げ出した。これ以上の面倒は御免だ。

 車両から飛び出た大勢は、ザイナスになどには目もくれず、一目散に少女に駆け寄った。無事か無事かと取り囲む。じき、人垣に隠れて見えなくなった。

 今のうちに、とザイナスは森の脱線跡を目指して駆ける。

「兄さん」

 頭上から呼ぶ声がした。駆けながら空を見上げると、真っ白な塊に押し倒された。地面を転がり、呻きながら胸元に見ればリズベットが縋りついている。

「兄さん、無事でよかった」

 いや、たったいま怪我をした。言い掛けて口を噤み、ザイナスは頷いた。


 ◇


 この身は無事だが、肌に痺れたような感覚が残っている。まるで、夢からの地続きだ。大勢の臣下が御柱の加護に感謝を捧げていた。侍従、衛兵、専任聖務員らが取り囲む中、少女はぼんやりと背中を探した。

 あれは夢か、それとも兆しか。望みのない宿命から自分を解き放ち、纏わりつく肥えた柵を湖に蹴落とし微笑む王子。あれこそ救いの象徴ではあるまいか。

「私を、攫いに」

 少女は夢見るように陶然と立ち尽くした。

 勿論、願望が見せる夢の類だ。自嘲するだけの自覚もあった。それでも、夢見る権利くらいはあるだろう。身分も本性も関係はない。自分だけの妄想だ。

 周囲はまた、いつものように人垣で埋もれていた。誰も自分に触れられない。なのに、この身を閉じ込める。見上げる僅かな空にしか、自由はなかった。

 つと、紺碧を横切る白銀の翼が見えた気がした。少女は驚いて目を瞬いた。

「スクルド?」

 呆気に取られた少女の声は、幸い誰にも聞き咎められなかった。

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