第32話 汽車と汽車

 シムリス駅の制御室がビルギットの行く先々を切り替えた。

「よし、乗った。王都行きの線路だ」

 右手の丸窓を覗き込むラーズが背中の皆に言って寄越した。操作盤を陣取るアベルが加減弁を開くと、汽車は一気に加速する。見る間に景色が狭まった。

 運転台の後ろで散財に呻く商会顧問が接収したため、路線変更は策の通りだ。逃走に速度を増した弩級の汽車は容易に離線が適わない。長く分岐のない経路に乗らざるを得ず、しかも先行する汽車がすぐ先を埋めている。

 ビルギットの汽車が軌道を降りるには減速せざるを得ない。

 丸窓の先の黒い壁が大きくなって行く。この心地よい加速には警笛のひとつふたつも必要だ。そう感じたものの、アベルは空気を読んで思い留まった。

「あたしの扱いって酷くない? ねえ、酷くない?」

 空気を読まないのはクリスタだ。運転台の後ろでザイナスに泣きついている。加速に押され、ついでとばかりに寄り掛かろうとして、リズベットに襟首を引き戻されている。とはいえ、クリスタにも言い分も尤もだ。

 彼女が徴用したのは最新鋭の完全自動型高速蒸気、商会の専用機関車だ。制御室の接収、運行管理諸々の買収も含め、莫大な費用が費やされている。

「こんなこと、クリスタしか頼れなくて」

 ザイナスは素直に謝った。

 財政負担に申し訳なく思っているのは本当の事だ。本当だから、始末に悪い。

「もう。ザイナスくんのためにお金いっぱい使ってるんだからね」

 しょうがないなあ、とクリスタが口を尖らせる。

 はあ? とリズベットは隣で呻いた。百戦錬磨の商人と思えないほど、クリスタはちょろい。ちょろすぎる。しかも、これが効率的な方法である以上、兄は悔いても、反省している訳でもない。ただ、本当に申し訳なく思っているだけだ。

「お金しか取り柄がないんだから、文句言わずに貢ぎなさいよ」

 兄のおかしな天然ぶりも大概だと思いつつ、リズベットはクリスタに呟いた。

「このまま突っ込んでいいんだよね?」

 陽気なアベルの声がする。

「急な減速に備えよう」

 ザイナスが返した。

「どう出るかな。どちらかといえば、あいつも頭のネジが飛んでる方だぞ」

 ラーズがビルギットを評して呟いた。

「ゲイラほどじゃないけどね」

 クリスタが口を挟む。

「それはどうも」

 アベルが振り返って微笑んだ。加減弁に掛けた手は、まだ限界間際に留まっている。気分で軽々踏み越えそうだ。その危うさがアベルにはある。

 運転台の面々は平然と会話しているが、それは皆が御使いだからだ。人の身のザイナスといえば、後ろの壁に張りついたまま身動きも儘ならない。

「おや、みんな」

 アベルが丸窓を指先で突ついて言った。

「あれって、大砲じゃないかな」

 元の発注は軍用列車だ。よもやの足は余計だが、武装は勿論あるだろう。

「距離を取るか?」

 ラーズがザイナスを振り返る。

「近づいて」

 ザイナスは迷いもしなかった。

「ねえ、近づいたら撃たれるんじゃない?」

 クリスタが声を上げる。

「大丈夫」

 ザイナスは頷いた。どのみち、撃たれる。

「クリスタの盾があるから」

 無邪気にも見えるザイナスの笑顔に、クリスタはぽかん、と顎を落とした。

「嘘でしょ」

 距離を取って線路を壊される方が問題だ。こちらの汽車に足はない。

 ラーズが来るぞ、と叫んで身を伏せた。砲撃の気配を読んでいる。

 正面の砲口が閃いた。

「うーわー」

 クリスタが絶叫する。

 汽車の前に白銀の壁が立つ。ひしゃげ潰れる金属質の音が鳴った。いっそ、間の抜けた音だった。宙に張りついた黒い塊が、思い出したように斜めに滑る。

 汽車の真横で砲弾が弾けた。激しすぎる雹の音が、ばらばらと打ち据える。

「ちょっと、ザイナスくん」

 今更ながらの涙目でクリスタが声を上げる。

「クリスタ、前」

「ひーいー」

 立て続けに砲弾が潰れ飛ぶ。連続する砲撃にも拘らず、クリスタの盾は汽車の鼻先に一定の距離を保ったままだ。汽車には何の反動もない。減速も揺れもなく、むしろアベルは加減弁を全開にしたまま、汽車は速度を上げて行く。

 着弾、暴発の音よりも、その都度に上げるクリスタの悲鳴の方が大きかった。それに相乗りするように、アベルも無責任に燥いだ声を上げる。

 どうにか手慣れたクリスタが、盾を斜め向けて砲弾を滑らせる。大きく逸れ飛ぶ砲弾は、通り過ぎた線路の脇に次々と火柱を立ち上げた。

 砲弾の軌跡が上にずれて、飛び去る音が頭上に流れた。恐らく伏角の限界だ。汽車は既にその鼻面を、ビルギットの汽車に擦りつけている。

 丸窓の向こうは真っ黒な鉄の壁だ。

「無茶なことさせないで」

 全身の骨が砕けたように、へにゃりとクリスタがしなだれ掛かる。流石のリズベットも身の毒に思ったのか、むしろ兄に呆れた目を向けて見逃した。

「ありが――」

 尻を槌で打たれたようにザイナスの身体が前に跳ねた。汽車が後尾に乗り上げている。咄嗟にリズベットがザイナスの手を取り、ラーズが間で受け止める。傍らを跳んだクリスタは、運転台を横切って前の計器に張りついた。

 汽車の頭は潰れたが、咄嗟のアベルの操作がなければ、軌道を撥ねて弾き出されていた。今もなお、隙あらば急減速で後ろに押し込もうとするビルギットに対して、アベルは制動と反転で巧みに距離を取っている。

「こっちを潰そうってか?」

 ラーズが丸窓を覗き込むも、視界は空と鉄の壁だ。悲鳴のような金属音が背筋を掻き毟るなか、ザイナスが皆に声を張り上げた。

「あっちに移ろう」

 窓と計器に目を配りつつ、アベルがぼやいた。

「頭のネジが飛んでるのはどっちさ」

 ラーズは意見も反論もなく、ひと蹴りで運転台を渡り、後部の扉を開け放った。それを潜った側面に昇降口がある。リズベットがラーズの腕を掴んだ。

「兄さんを連れて飛ぶのは無理」

 車両は今なお速度がある。風に煽られ、吹き落ちるのが関の山だ。

「手を貸せ、向こうに綱を渡す」

 ラーズは言うなり昇降口を蹴り開けた。運転台に突風が雪崩れ込む。

「言ってから開けてよ」

 噛みつきながら、リズベットがラーズを追い掛ける。転がって行きそうなクリスタを抱え、ザイナスは傾いだ運転台を滑って壁に張りついた。

「ほらみろ、キミの無茶がうつったぞ」

 アベルが背中越し、呆れ顔でザイナスを責める。

「なら、せめて君は冷静でいてくれ」

 ザイナスは真面目にそう返した。

 丸窓の向こうにラーズとリズベットの姿が見える。手掛かり足掛かりを選んでは、汽車を伝って行く。髪や裾の乱れは暴風の只中だが、それを除けば街なかを歩くのと大差ない。さすが御使いというべきか、足許にも不安がなかった。

 ザイナスなど、運転台にいてさえ足許が覚束ない。むしろ、今度はザイナスが転がって行かないよう、クリスタがザイナスの腕を掴まえている。

 それにつけても、ビルギットの運転は反射的で杜撰だ。状況の把握も間が悪い。やはり、あの巨体を彼女は独りで動かしているのだろう。

『兄さん、準備して』

 リズベットの声に懐の羽根を思い出した。丸窓を覗くも二人は見当たらない。通った跡に綱があり、空に向かって伸びている。風に震えるそれを辿って見上げれば、リズベットとラーズはいつの間にか車両後部の天辺にいた。猛然と走る汽車でなければ、崖の上で燥ぐ能天気な姉妹のようだ。

「お先にどうぞ」

「何でこんなことになるかなあ」

 惚けたアベルに応えたクリスタは、こぼしながらザイナスの手を引いた。開け放たれた昇降口は、轟々と鳴る風の坩堝だ。辺りは枝葉の見分けもつかない緑が一面、遠くに牧歌的な丘の頭が覗く。確か、反対側の森を越えれば湖だ。

『兄さん、私が迎えに――』

『待て、前に列車だ』

 リズベットの向こうでラーズが叫んだ。

 車両の天辺で線路の先が見えたのだろう。前を塞ぐ列車に追いついたらしい。ラーズの視力は特別性だが、ビルギットはそれに気づいているだろうか。

 ザイナスは運転台を振り返って叫んだ。

「停まるぞ」

 アベルは反射的に従った。

 急減速の反動に滑ったザイナスをクリスタが引き止め、二人して後部扉に縺れて嵌った。堪え切れず、ザイナスが昇降口の隙間を転がる。

 その刹那、汽車がが跳ねた。聴覚外から金属の轟音が鳴り響く。ビルギットの汽車が手遅れの制動を掛けたらしい。急制動を上回る圧が来た。

 逆の加速で斜めに傾ぐ。押されて滑る汽車が立ち上がり、運転台が空を向いた。ザイナスの身体が滑り落ち、昇降口の壁沿いに転がる。

 誰のものかもわからない悲鳴。

 ふと、身体が圧から解き放たれた。ひとたび風が耳を聾するや、只々無音の中にいた。一面の樹々、一面の空。それがザイナスの目に交互にやって来る。

 リズベットの羽根を介した微かな奇跡が、ザイナスを宙に滑らせた。視界の隅に黒い鉄の山、その先で豪奢な列車が捻れて行くのが見える。

 不意に視界を緑が埋めた。ザイナスの身体が枝葉に跳ねて、暗闇の中に沈んで行く。ザイナスはその様を他人事のように眺めていた。

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