第31話 鉄と御使い
追い掛けるほどエステルは速い。小さな歩幅で地面を蹴って、跳ねるように駆けて行く。トロルヨーテの森でもそうだ。引かれた手が伸び切らないよう、ザイナスは必死に走る。いっそラーズがそうしたように、少し権能を分けて欲しい。
そんな二人を横目に見ながら、アベルは涼しい顔で笑っていた。黒い汽車の手前で身を隠すも、ぜいぜいと呼吸を整えているのはザイナスだけだ。
隠れた車両が震えるほどに、複数の汽缶の音が響いていた。間近に見上げるその汽車は、黒く切り立つ鉄の壁に見える。このまま一斉に余蒸気を吐けば、辺り一面が煮え立つだろう。ザイナスなど一瞬で蒸し焼きだ。
夜のうちに出られなかったのは、釜に時間を要したせいか。並みの汽車など比較にならない。この大きさを賄う準備は、ビルギットひとりの手に余るだろう。
「あまり息が荒いと気づかれるかもね」
アベルが隣で揶揄うように囁く。つくづく、御使いは儘ならない。
「君らも身体は人のくせに、ずるいな」
ぼやき返して息を沈める。
「そりゃあ、使いを降ろすんだ。資質の確かな人の身を選ぶし、耐えられるよう細工もする。シンモラなんて特別製だ。親の代から造り込んでるに違いないね」
アベルは言うが、自覚のないエステルはきょとんとしている。
「キミ、身を隠すかい?」
アベルがザイナスに訊ねる。彼の施術は造作もない。御使いは特に独特で、神へ請願も詠唱もない。自身の意思を示すだけだ。指を鳴らせば終わってしまう。
「君もラーズみたいに権能を写したりできるのか」
少し気になってアベルに確かめる。
「できると思うけど、ずっと手を繋いだままだぜ? 試してみるかい?」
ザイナスは首を振った。
「今はいい」
雄牛の窯に隠れている方がましだ、とも思わない。むしろ、何かの拍子に手を離しでもしたら洒落にならない。エステルとでさえ、この有様だ。
「ビルギットを見つけて、出方を見よう」
確かめたいのは、ビルギットが
「使いと
アベルもビルギットの行動は読み切れていない。使命に従い
ふと、手の温かさにザイナスが目を遣ると、エステルは少し眠そうだった。力が大きいせいか子供の身体のせいか、エステルの食欲と睡眠は人一倍だ。
「もう少し頑張れる?」
「ん」
無理はさせたくないが、機会も逃せない。昨日は陽が落ちるまで休んだものの、ザイナスも人並みに疲労はしていた。できれば、確認だけで済ませたい。
「行こう」
アベルに声を掛け、エステルの手を引いた。
「大きくなる?」
「まだだエステル、僕がいいって言ったら――」
甲高い警笛が重なった。機関の律動は変わらず続くが、駆動音はまだしない。
「発車か?」
「いや、気づかれた。半機械式の警戒線だ」
アベルがふん、と息を吐く。エステルが反応して前に出た。
「フリストの奴、使いの癖に鉄気で権能を足すなんて反則だ」
どの口が、ともザイナスは思うが、アベルがこぼすなら大したものだ。苦笑するザイナスの口許を見て、アベルは少し拗ねたような顔をした。
砂利に杭を突き立てるような音がした。釜の音に混じって幾つも音が続く。探して目を遣ると、動輪を覆う板の影から無数の竿が、わらわらと突き出した。
鉄の脚だ。上に伸び、関節に折れたその根元に大小の丸い球の胴体を吊り下げている。蜘蛛か、蛸か。恐らく閉鎖式の蒸気炉を抱えた機械仕掛けだ。
「機械式にもほどがある」
ザイナスが呻いた。
「半神兵装だね、確かにビルギットのお得意だ」
実に
「力押しはシンモラに任せるよ」
アベルの不得手だ。人の意識は翻弄できても、機械のそれは難しい。アベルはエステルを促した。傍目には、小さな女の子を楯にするようで気が引ける。
汽車の底から這い出た蜘蛛が、一斉に襲い掛かって来た。伸ばした脚は人より高く、絡まりもせず地を突いて走る。鈍重さなど微塵もなかった。下げた球には触手のような鉄の管が幾本もあり、うねうねと蟲のように動いている。
「いい趣味だ」
アベルの皮肉と短刀を投げた。鉄を打つ音が脚を断ち、蜘蛛がたたらを踏んだ。エステルも駈け出し、手近の一機の脚を掴む。蜘蛛は振り払えずにつんのめるが、先のと同じく多脚で堪えた。容易にひっくり返らない。
エステルの足が砂利に滑った。持ち上げられて押し返される。
「千切れ、エステル」
ザイナスが声を掛けるや、エステルは鉄の脚を飴のように捩じ切った。エステルの力は圧倒的だが、身体が軽くて足が浮く。踏ん張りが効かない。
「エステル、大きく――」
「邪魔しないで、向こうへ行って」
声がした。見上げて探すと、黒い絶壁の中ほどに少女が頭を突き出している。
「やあ、フリスト」
アベルが見上げて名を呼んだ。
「え? なに」
ビルギットが嗾けた蜘蛛の群れに目を眇める。
「ゲイラ? シンモラ? それと――
「キミに話があるんだけれど」
茫然と竦んだビルギットは、不意に無邪気な笑顔を浮かべた。
「丁度よかった」
彼女が手元で何かを触るや、蜘蛛が一斉に飛び掛かった。檻のような無数の脚が取り囲む。アベルが慌ててザイナスを抱え、蜘蛛を躱して飛び退った。
「エステル」
鉄の多脚が絡まる中にエステルの暴れる音がする。折れた脚、千切れた触手がばらばらと砂利に落ち、笛の音と共に幾筋もの蒸気が吹き出した。
みるみる辺りが真っ白に煙る。
「落ち着け、ザイナス。その気になればシンモラは逃げ出せる」
蒸気の縁に身を潜め、アベルはザイナスに囁いた。このまま皆が捉われるのは愚策だ、とザイナスが駆け出さないよう抑え込んだ。
蜘蛛の脚が絡まって行く。エステルの破壊を上回る数で、次々と重なり膨れ上がる。しかも、毬のように転がっていいた。汽車に向かって動いて行く。黒い側面が口を開け、エステルごと蜘蛛の塊を呑み込んだ。
攫われた。ザイナスが一拍、目を凝らす。
「どこか潜り込めるところを探そう」
汽車を指す。口調は至って平静だ。拍子抜けするほど落ち着いている。
「簡単に言うよね」
呆れた目を向けるアベルに、ザイナスは肩を竦めて見せた。
「簡単だろ、君がいる」
ザイナスはリズベットに貰った白銀の羽根を取り出し、囁いた。
「エステルが攫われた。リズベットはこっちに」
「ボクは
嫌味を言いつつ、アベルはザイナスの目線を動輪の先に促した。
堆く折り重なった幌の壁がある。あの陰に隠れて進めば機械の目も誤魔化せるかも知れない。上手くいけば梯子の垂れた尾部まで行けるだろう。
ザイナスは頷き、身を伏せて幌の陰に駆け込んだ。御柱の使いであって、ザイナスの使いではない。アベルの言葉を反芻する。困ったことに、皆そうだ。
だから、全てに油断ができない。
耳が割れるほどの警笛が鳴った。口を開けねば歯が割れそうだ。わざわざ鳴るのは警告か高揚か。いや、今度こそ発車の合図だ。
アベルがザイナスを横抱きにして、そのまま猛然と走り出した。刹那、巨大な汽車の全周でドレン弁が余蒸気を噴いた。辺り一面が真っ白に吹き飛ぶ。
ザイナスの肌がちりちりと焼ける。
不意に空から伸びた手が、アベルの肩を鷲掴みにした。空に落ちたかと思うほど、そのまま宙に駆け昇る。アベルごと、ザイナスは中空に放り出された。
リズベットだ。熱い霞が風の冷気に吹き払われる。
視界が回って胃が捩じれたかと思うと、唐突に砂利の上に落とされた。離れた先に裾を蒸気に覆われた汽車が窺える。まるで、雲を割って行くようだ。
「兄さんを危ない目に合わせないでって言ったでしょ」
リズベットがアベルを𠮟りつけている。
「アベルがいなければ蒸し焼きだったよ。リズベットもありがとう」
二人に言いながら、ザイナスは懐の羽根を弄った。蒸気に炙られた頬や手は、じき痛痒くなるだろう。だが、今は構っていられない。近づくにも策が必要だ。
「クリスタ、エステルが捕まった。あれを操車場から出さないで」
羽根を手にしたザイナスが制御室に呼び掛ける。
「あれは――無理かも」
傍らのアベルが呟いた。声が半ば呆れている。
黒々とした鉄の壁が蒸気の雲に乗り上げた。獣が身を擡げるように車体を浮かせ――歩いた。白い霞の中、動輪のついた複数の脚が交互に動いている。散発する警笛の名残りに無数の気筒の駆動音が重なっていた。
『あいつ、あたしのお金で何を造ったの』
その様が見えたのだろう。羽根の向こうからクリスタの呆れた声が飛び出した。
気持ちはわかる。あまりに馬鹿げていて、ザイナスも変な笑いしか起こらない。
「なるほど、あれなら分岐器も要らないか」
ピストンと連棒が複雑に押し合う巨大な脚が線路を跨ぎ越した。
ザイナスが呟いた。
『フリストの奴、なんて卑怯な』
理不尽に慣れたザイナスも、クリスタに同意した。あんな風に動くなら、最初からエステルに殴らせれば良かった、とほんの少し不貞腐れる。
「でも、遅い。それに目立つ。あれなら十分追えるんじゃない?」
リズベットが言った。
それは確かだ。離線と復線は自在でも、あのまま歩いて逃げるのは難しい。ならば、駅の分岐器を越えてから路線を選ぶつもりだろう。とはいえ、あの重量に速度が乗れば容易には停められない。ザイナスは羽根を口許に持ち上げた。
「あれが線路に戻ったら、先の分岐で方向を変えて。前に列車のある線に」
リズベットがザイナスに眉根を寄せ、アベルを向いて睨みつける。アベルは視線に驚いて、ボクが唆した訳じゃない、と慌てて首を左右に振った。
「路線を買って、クリスタ。それと、いちばん速い汽車が欲しい」
ねだるザイナスにクリスタが上擦った声で応えている。えー、どうしよう、でもザイナスくんのお願いだしなー。アベルも震える甘い声に、傍の二人は慄いた。
「兄さん?」
ザイナスは何事もなかったように羽根を仕舞い込み、二人を促した。
「行こう、やれることはやらないと」
ザイナスの表情はいつもと同じだ。逆に、リズベットとアベルが震え上がった。
だが、リズベットも思い出した。多くはないが、こうしたことは間々あった。兄は身内を巻き込んだ災厄の対処に容赦がない。優先順位が明確すぎて、事故であろうと人災であろうと、自身の関わる事の外は気に掛けもしなくなる。
ある意味、御柱や御使いなどよりよほど冷酷に割り切ってしまう。
我に返ったアベルがザイナスの肩を叩いた。
「じゃあ、シンモラを取り戻そう。ついでにフリストも堕としてやろうじゃないか」
アベルの頬が上気している。陶然とした目でザイナスを見遣り、心底楽しそうに宣言した。二人を引いて傍から眺め、リズベットは複雑な表情で頷いた。
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