第30話 嗜好と悪癖
赤と蒼が混じった空は、淡い霞に透けている。漸く日の明けた駅舎の中では、既に朝番が働いていた。どうやら街の物流事情で鉄道路線には夜が来ない。
ただ、引込線の一部には昼も眠った場所がある。日常運行に含まれない商会専用の操車場だ。昨夜に入った倉庫と同じく、立ち入りも制限されていた。
ザイナスたちが遠目に窺うのは、その区画だ。
「あの大きいの?」
クリスタがラーズに確かめる。幾台もの車両が並ぶ先、ひときわ大きな黒い鉄の山がある。シムリスの街に着いた際、駅の歩廊で覗き見た列車だ。
「何なの、あの汽車」
リズベットがクリスタを突ついて訊ねる。
黒い車両は頭がひとつ――いや、ふたつみっつは突き出している。幌の綱が解き捨てられて、脱皮し損ねた海老のようだ。帆布がひらひらと煽られている。
「知らない」
「知らないって」
リズベットは鼻根に小皺を寄せるが、見返すクリスタも同様に口許を顰めた。
「軍用列車よ、最初の発注は」
クリスタは苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「ヴェスローテの貴族連中が都市防衛の砲台が欲しがってさ、それがやっぱり際物な訳。そこに王都が張り合って、あれよあれよと――」
「両方を煽って焚きつけた訳だ」
アベルが半目で息を吐く。
「こちとら商売だもの、当然でしょう」
御使い的には、どうだろう。ザイナスは深く考えない事にした。
「で、発注したのが例の工房。ルクスルーナの変人技師。王都で幾つか仕事をしたから、腕は買ってた訳なんだけど」
クリスタが息を吐く。
「おかしいな、とは思ったのよね。そしたら、やっぱり暴走してさ。趣味に走ってこの有様。工房にはね、かなりの額を注ぎ込んだのよ。それが何、砲台百機の予算をこの一輌で食い潰したって。――で、頭にきて現物を差し押さえた訳」
「趣味?」
「だから、あれ」
クリスタが顎先を振って巨大車両を指す。どうにも嫌な予感しかしない。
「その技師がフリスト?」
リズベットが眉根を寄せる。
「多分ね。名前はビルギット・フォルシウス。最初は偏屈な爺かと思ったんだけど、聞いてみたらまだ十五の小娘だっていうじゃない。まあ、決まりだよね」
「あれだな」
ラーズが汽車に目を眇めて呟く。
「いや、見えんし」
クリスタが鼻を鳴らした。確かに、人を識別するにはまだ距離がある。
「此処からだと、見えるのはヒルドくらいかな」
アベルが笑う。御使いにも得手、不得手がある。
「そうだな――」
ラーズはふと思いついたように身を乗り出し、ザイナスを引き寄せた。肩に手を回し、頬を擦り寄せる。慌てるリズベットを手で払い、汽車の方を指差した。
「どうだ、見えるか?」
ラーズの香りに向いた意識は、真っ黒になった視界に引き戻された。瞼の色ではない。黒鉄の車両の表面だ。鋲さえ数えられるほど近くにあった。
「すごいなラーズ、君の術か」
「権能の付与だ。スクルドみたいに連結とはいかないが、触れられるなら恩寵もやれると思ってな。もっとも、こうしている間だけだが――」
便利なものだ。御使いの高尚な奇跡としては、少々肉感的にも過ぎるが。
「見たいー」
エステルがザイナスの首に齧りついた。仰け反った拍子にザイナスの目に周囲が映り込んだ。目を近づけたり遠目に見たり、かなりの広範囲で視野が変えられるようだ。とは気づいたものの、今はとにかく息ができない。
「だから、使いには写せんと言っている。取り敢えず放せ、ザイナスが死ぬぞ」
ラーズがエステルを引き剥がした。
その際、黒い車両の上を走り回る小柄な白い人影が見えた。上下がひとつながりの白い作業服を着た少女だ。無骨で大きな保護眼鏡を掛けている。リズベットと同じ歳頃に見える――見えるが、袖や裾が膨らむほど余るのに、胸元だけが張り詰めていた。覗き見るにも目のやり場に困るほどだ。
エステルを抱えたラーズに礼を言い、ザイナスはクリスタにその容姿を伝えた。
「ビルギットだわね、例の変人技師」
「やはり、フリストで間違いない」
クリスタが頷き、ラーズが結論づける。やはり、目的は差し押さえられた汽車の奪還なのだろう。ただ、この状況で堂々と、とは些か開き直りが過ぎる。
「あれを動かすつもりかな」
夜も明けたのに忍ぶ訳でもない。形振り構わぬ行動だ。逃げ切る自信か、自暴自棄か。あるいは何も考えていないのか。いずれ、御使いならば在り得る。
此処へは様子見のつもりで来たが、逃げるとあれば悠長に構えてもいられない。ルクスルーナに帰るなら良いが、身を隠されては面倒だ。
少なくとも、所在を明らかにしておく必要がある。その先は、ビルギット次第だ。
今まで出会った御使いも、使命を立てつつ嗜好は手放さない。恐らく、ビルギットもその類だ。問題は、それがどれほど想いが強く、交渉の材料になり得るか。
「あれを持ち逃げされたら困る。ザイナスくん、何とかして」
縋りつくクリスタに、ザイナスは思索を保留した。
「何とかって」
「ガツンと一発やってやって。言うこと聞かせちゃってよ、あたしみたいに」
「いや、あれってクリスタが――」
「ザイナスくんだって舌入れたじゃん。あたし、初めてだったのに」
「兄さんの変態」
反論の隙なく思い切りリズベットに詰られた。そんな覚えはないのだが。弁解しようと振り返るも、どうやら味方は誰もいない。何を言っても無駄だと気づいた。
「アベル、あれを引き留めよう」
結局、アベルに泣きついた。
「そうだね、まずはフリストが逃げるのを阻止しなきゃだ」
にやにやしながら意を汲んで、アベルは皆にそう提案した。走り回るビルギットを見るに、巨大な汽車は牽引なしに動く。汽車での逃走は間違いない。
ともあれ、まずは汽車の状況を探る。できれば、起動を妨害する。いざとなればザイナスを囮にビルギットの段取りを変える。ザイナスは、そう方向を出した。
兄を変態呼ばわりしたリズベットだが、行動は誰より積極的だった。皆に交信用の羽根を渡すや、汽車の路線を確認するため飛んで行く。
『先の引込線は閉じてる、分岐器を変えるまで逃げられない』
間もなく、羽根に声が届いた。
「分岐器はどうやって操作を?」
ザイナスがアベルに訊ねる。
「普通は駅の連動機を使うけど、制御室には人がいるから手動じゃないかな」
「さすが列車強盗」
クリスタが茶化した。ザイナスの誘拐に横槍を入れたのは他ならぬアベルだ。クリスタはまだ根に持っており、ザイナスはその知識を頼っている。
『こっちで待ち伏せる?』
羽根はリズベットにも会話を伝えている。
「分岐器って、ひとつだけかな」
「手動となると、幾つも切り替えなきゃだめだ。この駅だったら、特にそうだね」
「ビルギットはどうやって汽車を出すつもりだろう」
「制御室制圧、何らかの強制操作、手動、脱線覚悟――」
アベルが可能性を並べる。息を吐いたザイナスは、唐突にクリスタに向き直る。
「汽車の運行は買収できる?」
強要込みの費用は馬鹿にならない。クリスタは心の内でザイナスへの好感度に見合う金貨を注ぎ込み、むしろ前のめりに頷いた。無邪気なザイナスの無心もそうだが、それに応えるクリスタは、意外な自身の性癖にも驚いていた。
「クリスタは制御室へ、ラーズも一緒に。ビルギットが手を出したら制圧して汽車を出さないように。リズベットは分岐の固定を――物理的に」
「了解した」
にっと笑ってラーズが頷く。
『ゲイラ、兄さんに悪いこと教えないで』
羽根の先からリズベットが責める。
「ボクのせいにされたぞ、ザイナス」
呆れたようにアベルがぼやいた。
「キミほど狡猾にはできないよ」
備えるのは厄憑きの性分だ。手数はあればあるほど良い。とはいえ、どれほど手を尽くしても、御使いの力技には敵わない。それはザイナスも諦めている。
思い通りに行かないのは、いつもの事だ。その都度に考える他はなかった。
「ねえ、ザイナス君って意外と悪い子?」
クリスタは指先で朱色の目許を扇ぎながら、少し悔し気にアベルに囁いた。惹かれているのは人の身か御使い自身か。まだ、おねだりの余韻に熱っている。
「そりゃあ、ボクのお気に入りだからね」
アベルは応えて悪戯な目を細めて見せた。
ザイナスはエステルの手を取って、アベルに目を遣った。
「僕らはビルギットに会いに行こう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます