8章 鉄の魔物

第29話 神格と人格

「ザイナスくうん」

 甘えた声でクリスタが呼ぶ。その手は後で縛られており、綱に繋がれている。

 にも拘らず、クリスタは機嫌良く辺りをひらひらと動き回っていた。

 夜明けも近い倉庫街の外れ、ラーズと合流する段取りの一行はアベルの隠れ家に向かっている。形ばかりの拘束だが、渋々クリスタも連れ立っていた。

 そのクリスタが、稚児しい。兎に角、ひとりで良く喋る。好き放題に喋っている。人けの少ない倉庫街に、クリスタの愚痴だけが延々と続いていた。

 その挙句、隙を見てはザイナスにしなだれ掛かり、綱を引き戻されている。

「ねーえ、あたしの扱いってば酷くない?」

 クリスタが誰彼無しに訴えた。綱を握るのはエステルだ。傍目に散歩の嬉しい仔犬か、藁に繋いだ蜻蛉を飛ばしているようにも見える。ただ、エステルは不機嫌だ。むう、と目と口を顔の真ん中に寄せている。クリスタが鬱陶しいのだ。

 魂刈りの資格を奪われた、あるい情熱的に手放したにも拘らず、クリスタには悔いや迷いが微塵も見えない。むしろ、吹っ切れたように燥いでいる。

 勿論、ザイナスは状況を明かし、好きにして良いとクリスタに告げた。ところが彼女は、さも当然のようについて来る。むしろ、どうして置いて行かれねばならないのか、ときょとんとしていた。ザイナスと離れるなど、とんでもない。

「これでも聖堂商会の顧問よ? すっごく偉くて、すっごいお金持ちよ? それを縛るってなに? あたし、一方的な被害者なんですけど?」

 鬱陶しさを堪え切れずにリズベットが睨んだ。

「あなたが兄さんに何かしないようによ」

 どうしても同行する気なら、と縛ってエステルに綱を持たせたのは彼女だ。

 確かに、ザイナスはクリスタの生存を望んだ。彼女の財力は有用だ。だが、その方法が宜しくない。野蛮で下品で穢らわしい。断じて許すべきではない。

 そうした理由で、リズベットはまだ臍を曲げている。

「だーかーらー。もうザイナスの賞牌マユスは持ってけないんだって。皆だってそうでしょ。まあ、ゲイラは男の子だけどさ。だいたいスクルド、その兄さんって何? あんたザイナスくんとどういう関係なの?」

 今更の問いに、リズベットはむっつりと口を閉じる。

「ザイナスくーん、義理の妹が冷たいのー」

 クリスタは唐突に矛先を変え、リズベットに当てつけるように甘えた声を出した。アベルと並んで前を行くザイナスの背中に擦り寄ろうと飛び出す。

 エステルが綱を引いてクリスタを引き戻した。

「シーンーモーラー」

 転げそうな足許を堪え、クリスタはエステルを睨んだ。今度はエステルに駆け寄って、縛られた手を器用に振った。エステルの柔らかな頬をぷに、と突つく。

「てか、あんたずいぶん子供よね。容量が大き過ぎてるって話だったのに、いつ降りてきたの? もしかして、ずっとちびっこのまま?」

 子供ながらに愛想が尽きたか、エステルはとうとうクリスタの綱を放り出した。

「大きくなる」

 ザイナスに駆け寄り、あれを踏み潰して構わないか、と訊ねる。

「我慢しなさい」

 ザイナスが釘を刺した。

「ちょっと待って、シンモラ。大きくなれるの? まさか、ルクスルーナの噂ってあんた? ユミルとフレスベルグとが街を滅茶苦茶にしたって話。教会が総出で有耶無耶にしてさ、やれ地震だの魔物だのって、でっち上げて――」

 クリスタはふと口籠もり、身を強張らせたリズベットに目を遣った。逃げるように目を逸らすリズベットの顔を執拗に追い回し、間近でじっと覗き込む。

「こっちもか」

 クリスタの指摘にリズベットの耳先が朱くなる。言い訳じみたリズベットの反論と皮肉と揶揄いを饒舌に繰り出すクリスタを眺めて、ザイナスは息を吐いた。

 ザイナスの袖を掴んで我慢しているエステルが、いちばん大人びて見えた。

「ラーズはどうなったかな」

 隣を歩くアベルに向かって、ザイナスは聞くとはなしに呟いた。この姦しい騒動さえ、アベルは虫の音ほどにも感じていない。むしろ愉しんでいるようだ。

「帰ってきたよ、ほら」

 気配というより、ラーズの緑と土の匂いがした。

「ずいぶん賑やかになったな、ザイナス」

 音もなく隣に立っている。

「お帰り」

 ラーズとザイナスとの間、エステルの頭越しにクリスタが半身を割り込む。

「ヒルド、何でヒルドまでいるの。ザイナスくんの浮気者」

 浮気者って何だ。

 ラーズは鬱陶しげにクリスタの頭を押し戻し、リズベットを振り返った。

「殺さなかったのか?」

 平然と怖いことを言う。

「兄さんに止められたの」

 リズベットは不満げだ。一歩間違えばそうしていたのかと、胃が痛くなる。どうやら人の死のみならず、御使い同士も命の扱いは軽いらしい。

 もしかしたら御使いは、人の身を衣装ほどにしか見ていないのかも知れない。だが、そうした彼女らの人格は、あくまで人の身に生じたものだ。

「まったく、何でこんな凶暴なのばっかり。駄目よザイナスくん、一緒にいちゃ」

 クリスタは改めて皆を見回し、ザイナスに向かって大仰に顔を顰めて見せた。

 面子については、アベルにも似たようなことを言われた気がする。とはいえ、ザイナスに選択権はなかったし、妹が御使いであることも、ずっと知らなかった。

「ボクは一緒にしないでよ」

 失敬な、とでも言いたげにアベルが口を挟む。

「いや、ゲイラがいちばん駄目でしょう」

 常識人ぶるアベルにクリスタが噛みついた。

 ラーズは背中の遣り取りを無視して、隣で見上げるエステルの髪を撫でた。耳の後ろを掻いてやる。森に置いてきた従者を思い出しているのかも知れない。

「駅にいたのは、フリストだったぞ」

 擽ったげなエステルを撫でつつ、何気にラーズがそう告げた。

「フリスト? レイヴじゃなくて?」

 怪訝な声を上げたのはクリスタだ。

 フリストは技神ルータに仕える御使いだ。三柱四組の新聖座の英知神、二柱六組の旧聖座では界神に配されている。職人の護り手で、製造業の多い先の工業都市、ルクスルーナでは都心にも多くの信者を擁していた。

「レイヴか? レイヴは気配がなかったな。駅にいたのはフリストだけだ。何の趣味かは知らないが、でかい汽車に頬擦りしていた」

「相変わらず、変ね」

 リズベットが呟いた。

 本来、御使いに人格はない。指向性のある機能、その概念的な存在。人との対話も不可能だ。そこにあるのは神格だけで、その偏りが個性ともいえる。

 教会の説話に良くある擬人化は、あくまで人の受け取り方に過ぎない。

 御使いは、憑依あるいは受肉して初めて人の論理に翻訳コンパイルできる。むしろ、血肉なしには成り立たない。それが地上の人格コンパイラだ。

 御使いの機能や指向性が降臨した血肉と混交し、彼、彼女らの性格や嗜好を形作る。記憶と情動、生理と禁欲、そうした鋳型に御使いがどう注ぎ込まれたのか。それが御柱に見通せたかのも、甚だザイナスには疑問だった。

 天界と地上の帳尻合わせは、さぞ倫理観を歪ませたに違いない。

「でかい汽車、ねえ」

 クリスタが呟いて眉根を寄せる。多少、神妙な顔をして大人しくついて歩いた。

「心当たりが?」

 ザイナスが振り返ってクリスタに訊ねる。

 ラーズの説明は簡単に過ぎるが、駅で見たあの巨大な車両を指している。恐らく、クリスタの認識も同じものだろう。あの大きさは見紛いようがない。

「多分ね。確かめなきゃだけど」

 クリスタは肩を竦め、口許をへの字にひん曲げた。ザイナスはアベルに目を遣った。その視線を待っていたようにアベルは片方の眉だけ顰めて見せる。

「無計画は気に入らないけど、仕方ないね」

 そう言いながらも楽しくて仕方がない様子だ。ザイナスは小さく息を吐いた。

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