第28話 決裂

「まいったな」

 困ったように呟くと、アベルはザイナスを真似て頭を掻いた。勝ち誇るクリスタ、その背に聳える祭壇、圧倒的な組織神ソサイエの神威を呆れて眺める。

 少しは狼狽して見せればよいものを。気勢を殺がれたクリスタは、アベルの表情を小憎らし気に睨みつけた。捻くれ者の少年は、いつもに増して読み辛い。

「交渉は決裂だね」

 告げるアベルにクリスタは眉根を寄せた。

「交渉の余地なんて端からないの。あんたは此処で――」

 不意にクリスタは息を詰めた。

 いつの間にかアベルの手には、これ見よがしに白銀の羽根が握られている。それはアベルの神器ではない。まるでスクルドの――。足下が震えた。

 壁の向こう、くぐもる倉庫の騒音に混じって、粗雑な響きがひとつ。また、もうひとつ。どすん、どすんと連なるそれは、打たれ、裂かれ、引き剥がされる鉄の音だ。壁と床の震えと一緒に、クリスタの背後に近づいて来る。

 音のたび、辺りが丸ごと突き飛んだ。

「ナニ、なに、何、あんた一体、何したの」

 クリスタは音を遮るように悲鳴を上げた。

 組織神ソサイエの祭壇が前のめりに震えた。首を縮めて振り返ると、装飾硝子が微塵に砕け、台座と柱がひっくり返った。壁のそこかしこが割れ落ち、裂けた配管が蒸気を噴き散らす。暴風が執務室を押し流した。

 息ができない。前が見えない。粉塵と蒸気が吹き過ぎると、四散した書類が宙に降った。はらはらと舞う紙片をぼんやりと追って、クリスタは足許に目を遣った。丸く転がる大きなそれは、自身を模した聖像の頭だ。

「もーう」

 鬱陶しげに手を振り回し、ぐるぐると蒸気を追い払いながら、小さな女の子が駆けて来る。竦むクリスタの前で立ち止まり、きょとんと見上げて小首を傾げた。

「ヘルフ?」

「シンモラ?」

 あまりのことにクリスタの意識が飛びそうになる。過呼吸気味の身体を落ち着かせようとしたとき、白銀の翼が祭壇の残骸ごと蒸気を吹き晴らした。

「結局、こうなったじゃない」

 冷えた声で告げたのは、アベルと歳の変わらない美しい少女だ。

「スクルド」

 呟いて、ぽかんと見つめる。

 遅れてやって来た怖気に意識を引かれ、クリスタはようやく我に返った。この状況を問うように、背中のアベルを振り返る。どうして、二人が此処にいる。

 アベルは平然と服の埃を払っていた。

「切り札は取っておくものだね」

 クリスタの視線に肩を竦めて、アベルは先の台詞をなぞって見せた。

 組織神ソサイエの神威は既にない。クリスタは裸も同然だ。如何に手の込んだ聖堂であれ、権域の外の圧倒的な物理には、全て瓦礫と化すしかない。

 選りにも選って、シンモラとスクルドは反則だ。こいつらの災厄は対象が違う。こんな規模の対策はしていない。クリスタは驚きを通り越して呆れ返った。

「それで、どうするの?」

 リズベットがアベルに目線を投げる。言外には決定を告げていた。氷のような目でクリスタを見つめながら、呪いのように呟いた。

「こんなのに兄さんを触らせるなんて、許さないから」

 交渉を望んだのはザイナスで、悪戯を望んだのはアベルだ。表向き、皆もそれには同意している。とはいえ、ザイナス不在のこの場に於いては、事故も容易に起こり得る。無論、リズベットは最初からそのつもりだ。

「兄さん違う、ザイナス」

 むう、とエステルがリズベットを見上げた。

「でも、ヘルフは殺す」

 アベルは嘆息した。ザイナスが不在とみるや、二人は凶悪さを隠さない。

「何なの――何なの、寄って集って。この祭壇にいくら掛ったと思ってるの」

 底冷えのする空気に取り残されたクリスタが声を上げた。ようやく口数を取り戻すも、恐慌を来して話がずれている。勿論、頭の中ではこの場を逃がれる算段の真っ最中だ。囲む三人を見回しつつ、ふと眉間に皺を寄せた。

「ちょっと待って、何か変よね、あんたたち」

 最初にアベルに感じた違和感、その神気の淡さの正体に気づいた。使いの力は嗅ぎ取れるのに、魂刈りの資質を感じない。それはリズベットやエステルも同じだ。もしや、アベルは気配を隠していたのではなく――。

 クリスタの頬から血の気が引いた。

「なに? 人と契ったの? うそでしょ。まさか、どうやって?」

 慌てるクリスタの向こう側、アベルはリズベットに笑みを含んだ目線を投げる。

「あなたは賞牌マユスの争奪から降りて貰います。いいえ、天に還りなさい」

 リズベットは憤然と宣言した。

「ふざけんな。そっちの都合なんか知るもんか。あたしはザイナスくんと――」

 ああ――と、クリスタがいきなり頓狂な声を上げた。

「何てこと、この恥知らずの泥棒猫」

 真っ青になって皆を見渡し、クリスタは悲鳴を上げた。

「あたしのザイナスくんを食べたのか」

 きょとん、とエステルが首を傾げる。

「ザイナスは食べられない」

「ヘルフ。キミ、使いの癖に品がないな」

 アベルの言葉に気づいたリズベットが真っ赤になって声を上げた。

「少しだけよ、不埒な想像はしないで。それに、兄さんはあなたのじゃないから」

 クリスタが目を剥いた。

「まさか、あたしの資格をザイナスくんに奪わせる気だったの?」

「無理強いはしないよ」

 アベルはそう応えたが、リズベットはクリスタを睨んで吐き捨てるように言った。

「しなくて良い。さっさと殺しましょう」

「そんな、身も蓋もないことを――」

 アベルが呆れて言う隙に、クリスタは机に残った書類や小物を払い上げた。リズベットとエステルの視界を奪つつ、身を捩るように机上を滑ってアベルに迫る。腕を回してアベルの首を抱え込み、白銀の盾の縁を喉元に擦り寄せた。

「ザイナスくんは何処? 近くにいるんでしょ」

 アベルが困ったように首を竦める。

「やめてよ、ヘルフ。あの子たち本気でボクごと天に還すから」

 アベルの目線の先、リズベットが底冷えのする目でクリスタを睨んでいる。一見は無邪気なエステルも、二人の生死には凡そ頓着しそうにない。

 怖気を堪えつつ、クリスタはアベルを急かした。

「さっさと答えて」

 アベルが小さく息を吐く。記憶を辿る振りをして、そうそう、とクリスタに告げた。

「キミ、さっき部屋の前の彫像のこと言ってたよね」

「雄牛の?」

 虚を突かれ、苛々と問い返す。

「その中に隠れてる」

 クリスタがアベルの耳元で悲鳴を上げた。

「馬鹿、何て事すんの」

 アベルを突き飛ばすように放り出し、クリスタは扉に向かって駆け飛んだ。

 逃げる、というには突飛に過ぎる。呆気に取られたリズベットが、問うような目をアベルに投げた。当のアベルは盾を押しつけられた首筋を摩り、呑気に笑って見送っている。いや、口が耳まで裂けたような意地の悪い笑顔だった。

 クリスタは扉を引き剥がす勢いで開け放ち――実際、扉は蝶番を飛ばして外れ落ち――執務室を飛び出した。倉庫の中に出たとたん、赤々とした炎に照らされ、頬を熱気に煽られた。目の前の光景に悲鳴を上げる。

 炙られた真鍮の雄牛が黄金に輝き、野太い鼻息を響かせていた。雄牛の脚の下には轟々と炎が渦巻き、なおも職人が黙々と燃料を掻き込んでいる。

 貴族の悪趣味な処刑道具だ。何処から知識を聞き齧ったか、人を蒸し焼く為だけに商会に高値を注ぎ込んだ代物だ。

 我に返ったクリスタが、うわあ、と叫んで走り寄った。黄金に焼けた雄牛に素手で飛びつこうとして、慌てた職人に羽交い絞めにされた。

「ザイナスくん、ザイナスくん」

 抱き止められたまま、なおも藻掻く。

「ええと、触ると熱いので」

 困った職員が必死にしがみつく。

 アベルが戸口に顔を出し、クリスタを眺めて腹を抱えている。いったい何が起きたのか、とリズベットとエステルが横から覗き込んだ。

 職員が気づいて振り返った。襟に白銀の羽根を刺している。

「アベル、君が火を焚べろって連絡を寄越すから――」

 その声と感触に驚いてクリスタが我に返った。腕を振り解き、その場で身体をぐるりと後ろに回す。炭で汚れたザイナスの顔がそこにあった。

「アベルの奴が、こうしてろって」

 途方に暮れて言うザイナスに、ひゅううと息を吸い込んで止まる。

「ザイナスくん」

 すとん、とクリスタが蹲りそうになった。ザイナスが慌て手を伸ばし、骨の溶けたクリスタを抱えた。その目はまるで呆けたように間近のザイナスを追っている。

 不意にその顔が、くしゃくしゃとなって、クリスタは子供みたいに泣き出した。言葉も名前も濁点塗れの大声を上げて、ザイナスの首に齧りつく。

「ええと」

 困ったように言い淀むザイナスを見るや、クリスタは思い切り唇を押しつけた。

 血相を変えたリズベットが部屋から飛び出し、クリスタを掴んで引き剥がす。歪んだ眼鏡が床に飛び、鼻水が頬から糸を引いた。

「食べられた」

 エステルはそれを眺め遣り、驚いたように呟いた。

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