5章 狼と狐のゲーム
第17話 天使(悪魔)の囁き
ひと間の小さな山小屋だ。放り込まれて一晩が過ぎた。気づけば、あちこち陽が射し込んで白い埃が躍っている。隙間風は冷えた朝の湿気を含んでいた。
隅に転がる椅子を曳き寄せ、少年は埃を払って腰掛けた。床の上のザイナスは、粗い木の壁に寄り掛かり、その膝越しに悪戯な瞳を見上げた。
「生きていて何よりだ。今度ばかりはスヴァールに先を越されたかと思ったよ」
少年は、信用ならない笑止顔だ。
少し身動いではみたものの、やはり手足は緩みもしない。頭が出ただけ、まだましだ。どうやら根菜入れだった袋は、土埃が酷くてむず痒い。顔を顰めたその仕草が苛立っているように見えたのか、少年は殊勝に謝って見せた。
「すまないね、うちの信者は乱暴者が多くて。しかも、怠け者と狂信者が両極端。あいつら、唾を吐くか心臓を捧げるかのどっちかなんだよ?」
汽車の中でもそうだったが、少年はクリスタに劣らず饒舌だ。
「正直、うんざりさ」
「挨拶がまだだったよね、ボクはアベル。アベル・ダリアン。知ってるかな、少しは名の売れた役者で、歌い手で、盗賊団の統領だ。もちろん、副業だけれど」
どうやら、影に日向に有名人のようだ。もしかしたら、里の掲示に見たかもしれない。とはいえ、オルガの例もある。前者は知り得ても、後者は知りたくもない。
「知っての通り、本業はゲイラだ。
その性格とは裏腹に、御使いに恥じない天使のような笑顔でそう名乗った。
「よろしく、アベル。僕はザイナス・コレットだ」
ザイナスが素直に名乗り返すと、アベルはきょとんと見つめて溜息を吐いた。
「なるほど、先にも思ったけれど、キミは少々緊張感が足りない」
礼に則ったのに失礼な奴だ。ザイナスは小さく肩を竦めた。足りないものは怯えか敬意か。そのどちらもを欠いているのは、アベルも汽車で知っての通りだ。
「ヘルフと色々話したよね。ああ、スルーズにも会ったんだっけ。美味しい話を聞かされた? でも、先を考えての飼い殺しだよね。目的はキミの魂だもの」
真面目に怖がれとでも言いたげだが、ザイナスが意に沿うのも今更だった。件の
ザイナスの問いを察したのか、アベルはふん、と鼻を鳴らした。
「知っての通り、ボクら使いは十二人だ。最後に降りたシンモラを含めて、全員が地上に受肉した。もちろん、みなキミの魂を手に入れる為に動いている」
そう言って、アベルは意地の悪い顔をした。
「誰よりも先に、どんな手を使っても、だ」
畏怖より嘆息が先に出た。それを試練と受け止めるには、どれほど敬虔であれば良いのだろう。あいにく、ザイナスの信心は理不尽への寛容さがない。
「もちろんスヴァールは別だよ? 彼女は自分で手を掛けた魂には触れられないからね。彼女だけはキミを刈れない。だから、安心するといい」
知ってか知らずか、アベルは続ける。
教会で説くところ、
「ああ、それとボクも例外だ」
ふと思い出した風を装い、アベルは言った。
「この魂刈りの資格はね、魂砕きより複雑だ。戦乙女の権域にあって、聖処女の呪縛が掛けられている。つまり、男は関係ない。端からボクは除け者だ」
面白がっているのか、悔しがっているのか、よくわからない。たぶん、両方だ。
「だけど君、いきなり僕を刺しただろう」
ザイナスは責めるような目で見上げた。あの感触は二度目でも慣れない。
「あれは、うん、ものの試しさ。だいたい、ほら、何ともなかったじゃないか」
「何かあったらどうする気だ」
アベルは一拍ほど返事に窮し、呆れたようにザイナスを見返した。
「安心しなよ、もういきなり刺したりしないから。でも、ボク以外そうはいかない」
アベルはあくまで状況を煽り、ザイナスを追い詰めるつもりらしい。
「ボクも地上に降りた全員の居場所を知っている訳じゃないが、キミがこうして見つかった以上、皆に知られるのも時間の問題だ。キミは追われ続けるぞ」
「人の手段を使ってだろう? 人探しの奇跡は持ち合わせてないのか」
御使いも思いのほか不便だな、とザイナスは片方の眉を上げる。アベルは皮肉を受け止めて――何故か愉しそうな顔をした。
「確かに、地上は広くてもの凄く雑だ。受肉したならなおさらね。ボクらのいた天上は広さもや選び方が違う。そうだね、語順に並んだ本――みたいな感じ?」
まるで解らない。
「ところが、キミ。キミの
アベルは肩を竦めて見せた。
「実際、迷子の綺麗なお兄さん――なんて、手配は簡単だったな」
そう言ってザイナスを見おろし、アベルは何気に悦に入った。
なるほど。ザイナスは教会のセルマを思い起こした。僻地に絞れば簡単だ。
「諦めなよ。天災なんて避けようがないんだから」
アベルは憐れむように囁いた。
「ボクが言うんだから間違いない」
御使いとしてか、男に受肉した自身の皮肉か。クリスタはアベルを半端者と呼んだが、それがアベルの侮蔑になるなら、皮肉に重ねているのかも知れない。
「同じく御柱に振り回される者同士だ、キミに協力しようじゃないか」
アベルはザイナスに身を乗り出して言った。
「もしかしたら、生き延びられるかも、だ」
「君、御使いだろう?」
ザイナスが呆れて返す。
「なに、反逆も
咎めるザイナスにアベルは平然と応えた。
「そもそもウチの御柱はね、ボクに同じ使いを堕とせと仰せだ。言ってみれば、お墨付きさ。せめて、この争奪戦を壊してやろうってのが反逆だろう?」
アベルは眇めるように目を細くする。
「どうしてそんなことを」
いったい何の道理があって、御柱はこんな茶番を企画したのか。
「知らない。知りたくもない。そもそも、迂闊に答えを問うものじゃない」
誰か聞いてやしないか、とでも言いたげにアベルは顔を寄せた。
「御柱の言葉は鶏と卵の後先がない。地上に降りた以上、ボクらの目も一方通行だ。アレが迂闊に過去を変えても、ボクらにはそうとわからない。――だから、これ以上は面倒な因果を生じさせるな」
本気で面倒がっている。こんなアベルを困らせるのだから、やはり御柱は偉大だ。それとも面倒な上役といったところだろうか。
「一方的に追われるだけじゃ可哀そうだからね、キミに希望を教えてあげる」
気を取り直してアベルは言った。
「魂刈りの資格についてだ」
耳元まで裂けたような笑顔を向けて、ザイナスに頷いて見せる。
「もちろん、普通ならキミに勝ち目はない。何せ、受肉した使いは十二神が筆頭の戦乙女だからね。おっと、それは恥ずかしながらボクも含めてだけれども」
アベルは椅子を蹴って立ち上がった。
「受肉すれば地上に降りられるが、当然、血肉の制約も受ける。情欲なんて面倒なものもね。人は何とも不便なものさ。もちろん、面白くもある。川に向かって突進する鼠みたいにとても素敵だ。気の毒なキミも含めてね」
小屋の隙間に射し込む光を横切り、ザイナスの前を行き来する。
「神器もそうだが、ボクらの権能は象徴に強く紐づけられている。魂刈りの資格もそうなんだ。さっきも言ったが、穢れなき戦乙女の仕事だからね」
教会に綴られた御使いは、ゲイラも含めて確かに可憐だ。ただし、降臨した彼、彼女を見る限り、教会は少々修正を加えるべきではないかとも思う。
「つまり、キミが彼女たちを穢せば資格は消える。晴れてキミは魂を奪われることも、砕かれることもなくなる訳だ。わかるよね、相手は女だ」
砕く? 魂を? ところが、後の言葉に引っ掛かり前の意味を捉え損ねた。
「彼女たちをどうしろって?」
ザイナスが問い返す。
「押し倒せ。一瞬でも触れられれば動揺するから、その隙に」
はあ?
ぽかんとアベルを見上げた。その目を見るに、どうやら冗談ではないらしい。
「相手はキミの魂を刈り取りに来るんだぜ? 遠慮することなんてないさ」
満面の笑顔にザイナスは呆れた。一撃で胸を貫く相手にどうしろと。
「自分でやれよ、男の子なんだし。というか、そんなのやっちゃだめだろう」
「いやだよ、気持ちの悪い」
あっけらかんとアベルは答えた。だったら、人に強姦を勧めるな。
「さっき、自分で御使いを堕とすって言っただろう」
「
「不敬だぞ、御使いのくせに」
うー、と二人は睨み合い、アベルは大きく息を吐いた。
「まあ聞きなよ、ザイナス。これはキミの為でもあり、キミ以外に無理なことだ」
アベルは椅子を後ろ前に腰掛けて、背板を抱くように身を乗り出した。
「ボクもこのまえ初めて知った。使いに触れることができるのはキミだけなんだ」
身動きならないザイナスに手を伸ばし、アベルは頬の寸前で――もどかしげに指先を戻した。表情こそ変わらないものの、耳に微かに朱が差した。
「使いは不可侵だ。ボクらは人に触れられない。人もまた然りだ。ずっと壁越しの感覚なんだ。いつだって、触れる振りをしてる。厄介なのは、人の感覚が記憶として残っていることだ。思い出すのが嫌で、触れる機会も避けるほどだ」
でもキミは別だ、とアベルは言った。
「使いはキミだけに触れられる。キミもまた然りだ。魂を刈るんだからね、考えてみれば当然だ。だからキミは唯一、使いを穢すことが――」
「絶対に、嫌だ」
「キミ、自分の魂が掛かってるんだぜ?」
「そんなものが誰かの魂を傷つけていい理由にはならない」
アベルは気圧されて口籠り、呆れた顔を取り繕って余裕を取り戻そうとした。
「柱を奉じてもないくせに、その道徳心は何? だいたい、ボクらに――」
アベルは口籠もり、口を尖らせた。
「まあ、いいや。じゃあ、口づけで手を打とうじゃないか」
いきなり敷居を下げてきた。
「要は穢した見立てがあれば良い。ただし、思い切り濃厚なやつを――」
「いやだ」
「キスだけでいいんだよ? 挨拶みたいなものだろう」
「可愛い顔をして狒々爺みたいなことを言うな」
もう、とアベルは頬を膨らませた。
「見立てだって言っただろう、男を知ったと認識させるだけでいいんだよ」
「断る」
「本当に頑固だな、キミは死んだらそれきりなんだぞ?
そんなことは、奉神不在を自覚したときから諦めている。
「もういい、好きにしろ」
アベルは大仰な溜息を吐いた。また席を立って小屋を歩き回り、おもむろにザイナスの傍にしゃがみ込む。白銀の刃で――縛る縄に切れ目を入れた。
「残念ながら、キミに選択肢はないからね。もう仕込みは終わってるんだ」
縄は切れる手前で残っている。
「狩りはもう始まってる。やらなきゃ、キミは死ぬだけだ」
アベルはつと立ち上がり、拗ねた目でザイナスを睨みながら後ろに下がった。
「聞き分けないのが悪いんだぞ。キミがそんなに頑固じゃなけりゃ、協力するつもりだったんだ。けど、もうやめた。キミはひとりで何とかするといい」
どうやら、アベルは他の御使いをザイナスに嗾けたらしい。
「言っとくが、外にいる相手は手加減なんてしてくれないぞ。彼女はヘルフみたいに得物を逃がしたりしない、生粋の狩人だからな」
恐らく、ザイナスがまだ会ったことのない御使いだ。
アベルは後ろ手で扉を引き、口籠って逡巡する。独り言のように呟いた。
「幾らか賭けたい気はまだあるんだ。ボクもキミに劣らず破滅型なのかもな」
怒ったような顔で言い残し、アベルは扉の向こうに姿を消した。
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