第16話 誘拐

 首までざぶりと湯船に浸かり、ザイナスはふーう、と息を吐いた。

 隣にざぶんと飛び込んで、エステルもふーう、と真似をした。

 お陰で頭に湯をかぶり、前髪から滝のように雫を垂らしたザイナスを振り返ると、エステルは茹った頬でひとしきり笑った。

 高く巻いた黄金色の髪が、湯を跳ねながら行き来する。あの川辺では身体を拭いてやるのがせいぜいだったが、此処にはたっぷりの湯と石鹸がある。

 エステルに連れられて森を渡り、ザイナスと二人でトロルヨーテの巨神ギガンタ教会に落ち着いたのは、一昨々日のことだ。

 小さな里だが、思いのほか立派な聖堂だった。トロルヨーテは伐採基地と猟師場を兼ねており、季節で人の出入りも多い。教会にも寄合所があり、宿泊施設は潤沢だった。二人に余る大きな風呂桶は、狼も泳げるほど広々としている。

 もっとも、一緒に暮らした白狼は、里の手前で別れてしまった。人には慣れているものの、何処かの狩人の従者だ。それ故、里には連れては行けない。惜しみつつ、群神レギオンの狩人がやるように肉を持たせて主の許に帰した。

「もう出る」

「一〇数えてから」

 ザイナスが手を引いて湯船に浸ける。エステルは口を尖らせるが、ザイナスが首を擽ると、ひとしきり燥いで湯を跳ね上げた。大きな声で数え始めた。


 トロルヨーテの調査団一行と出会い、一〇日ほどの後になる。発ったのはそれから間もなくだ。大孔の傍でも不自由もないが、調査の一行の勧めもあった。

 この焼野原は原因がわからない。よもや神罰の類であれば近くにいるのも問題だ。一行も、どうにかこの場所まで司祭を連れて来る算段を始めた。

 ザイナスも、下手な勘繰りが始まる前に退散した方がよさそうだと判断した。一行の皆が言うには、エステルが一緒なら里に帰るのも容易いという。

 エステルの事はみな知っていた。巨神ギガンタの娘と呼ばれるほどの神童で、森で迷子になるどころか遭難者を連れ帰ることも度々だという。

 どうやら、一行の目にはザイナスもそう映ったらしい。実際、遭難者ではある。

 流れ着いたあの川辺は、思った以上の難所だった。人も滅多に寄り付かないうえ、滝と急流で船も行き来が難しい場所らしい。道理で人が来るのも遅い。

 道中、エステルは何気に歩いていたが、ザイナスはそうもいかなかった。幾度となく、進むも戻るもできない状況に陥り、その都度エステルに助けられた。巨神ギガンタの娘は、並大抵の大人よりより健脚だ。

「食事の用意ができましたよ」

 扉の向こうで教会職員の呼ぶ声がした。セルマという名の女性だ。

「ユーホルトさんも、ご一緒に」

 拝借した偽名も、ばれてはいない。そもそも、身元どころか奉じる神さえ聞かれなかった。懐くエステルに複雑な表情を向け、ザイナスの扱いに困惑している。エステルに手を引かれ、教会を訪れたその折りは畏怖に近い目で見られた。

 脱衣所を飛び出そうとするエステルを捉まえ、がしがしと髪を拭く。エステルが燥いだ声を上げて暴れた。客人として迎えられたザイナスだが、気づけばエステルを風呂に入れたり、食事をさせたり寝かしつけたりの世話係になっている。

「明日は何する?」

 食事の後の片付けも、寝支度もエステルは一緒だ。セルマは少々困惑気味だが、どうして良いものか判じきれない様子だった。恐らく、普段は違うのだろう。

 ザイナスの想像とは、少し勝手が違っていた。

 巨神ギガンタの娘は、どうやら司祭以上の扱いだ。放任というより、意見のできない空気に近い。神霊に疎いザイナスでも、エステルが強大な加護を受けているのはわかる。だが、それも良し悪しだ。ザイナスも身近に覚えがある。

 子供に必要なのは、決して御柱の庇護だけではない。

「明日は、薪割りのお手伝いだ」

 毛布を被ってザイナスは言った。

「一緒にやる」

 エステルは教会に立派な部屋もある。なのに、こうして客室のベッドに潜り込んで来る。たとえ恭しく扱われても、一緒にいてやれないなら意味などない。

 川辺と変わらずエステルはザイナスに擦り寄って眠る。違うのは、あのときの暖かな狼の毛皮が毛布に変わってしまったことだ。それが少し、残念だった。

「おやすみ、エステル」

 とはいえ、そろそろ身の振り方を考えねば。


 ◇


 当世、通信経路を運営するのは教会と商会だ。市政はその枠を規定している。ハルムの街では、まだ商工会だけが伝信器を運用していた。そも、オルガやクリスタがザイナスを見出したのは、その情報が端緒だ。

 ザイナスが家族に事情を伝えるとしたら、講じる手段は紙の便りだ。万一の事を考えれば、それさえも迂遠な経路にせざるを得ない。

 問題は、実家が教会であることだ。ホーカソン司祭がどう伝えたにせよ、奉神不在のザイナスは、もはや家に身の置き場がない。

 とはいえ逆に考えるなら、御使いにはザイナスを見つける権能がない。捜索を奇跡に頼るのなら、この歳まで見過ごされる筈もないからだ。

 このまま身を隠して暮らす。ザイナスには、その選択肢も残っている。

「ザイナス?」

 エステルが首を傾げた。

 思索が幾筋も並行したせいで、少しぼんやりしていたようだ。

 誤魔化すようにエステルの髪をくしゃくしゃと撫でる。エステルは擽ったげに首を竦め、にっかりと笑った。手には大きな薪割りの鉈を抱えている。

 ただ厄介になるのも気が引けて、ザイナスは教会の手伝いを買って出た。小さな里の教会は多忙だ。多くが兼業、兼任で仕事を抱えている。

 そもそも、司祭が本村の兼務で不在が多く、トロルヨーテの教会は職員のセルマがほとんどを切り盛りしていた。そんな彼女も朝から不在だ。

 誰でもいいから手が欲しい。そんな思いはザイナスも多分に経験している。

 もっとも、セルマにしてみれば、エステルの機嫌を取ってくるれ事にザイナスの意義があるようだ。彼女はエステルを持て余していた。子供の見目と敬愛の釣り合いが取れない。こうした信仰の強さは、ある意味で面倒な呪いも同じだ。

 余所者のザイナスだからこそ、エステルは子供として扱える。穿った見方をするならば、そうした不敬な扱いの責任も、余所者に負わせることができる。

「ほら、いっぺんに割らないで」

 ザイナスは青い匂いのする薪を避け、エステルの前に丸太を立てた。すとん、と鉈を振り下ろすだけで、エステルは薪を真っ二つにしてしまう。

「刃を少し入れて、ほら、薪を、とん」

「おー」

 だが、力任せの割り方も良し悪しだ。エステルの力は巨神ギガンタの賜物かも知れないが、加減は学ばねばならない。人と暮らすなら猶更だ。

「ザイナス、次」

 エステルがふんと鼻息を吐いた。ザイナスは笑って薪を立てた。


 ◇


 用事から帰ったセルマに使いを頼まれ、ザイナスは里の材木小屋に出向いた。夕餉に間に合うかどうかとあって、エステルは教会に居残りだ。

 今日はどうやらセルマもエステルに手伝いを頼む心積もりらしい。教会としては、無信心者をあてにするより、御柱の寵愛を受けた子を頼る方が健全だ。

 ぼんやり身の振り方を思案しながら、ザイナスは山道を歩いている。陽が落ち切らないうちには帰り着こうと、少しばかり急ぎ足になった。セルマの使いは手間なく済んだ。今日でなくともよかったほどだ。

 荷車の通る道筋に出て、ザイナスは教会もほど近い辻路に差し掛かった。

 ここ暫くはザイナスも目立った災厄に遭っていない。御使いに襲われ、河に流され、森が臥せるほどの爆発に巻き込まれたのが効いているようだ。それだけ災厄が続いたのだから、少しは平穏も続いて良いだろう。

 不意に目の前が真っ暗になった。

 土臭い埃に咽せ、袋を被せられたのだと気づく。蹴倒され、引き摺られ、全身を縛り上げられた。身体が浮いたかと思うと、硬い板間に放り込まれる。

 がつんがつんと身体が跳ねた。どうやら荷車に載せられているようだ。

 迂闊に動けないものの、真っ暗のなか息苦しく、袋に残った土埃がむず痒い。

 どうやら、攫われたようだ。こうした経験も無くはない。いずれ落ち着くまでは足掻くのも無駄だ。悪路に揺すられ全身が痛い。痛いなりにも脳裏に辿った筋道を描く。どれほど経ったか、恐らく陽も落ち切った頃に荷車は停まった。

 再び曳かれて、小屋と思しい木組みの場所に放り込まれた。そこには床と壁があり、ザイナスは縛られたまま壁際に放置された。

 ようやく人の気配がしたのは、もう陽も射し始めた頃だ。

 何者かがザイナスの首周りを確かめ、被せた袋をナイフで裂いた。取り払って放り出す。薄暗がりの中、悪戯な目がザイナスを覗き込んだ。

「やあ、ザイナス。無事で何より」

 ゲイラはそう言って微笑んだ。

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