第15話 迷子
羊歯の下生えから半身を覗かせ、少女が森の縁に立っていた。
「……誰?」
焚火に赤く照らされて、きょとん、と少女がザイナスを見つめる。見目に少女は一〇歳にも届かない。読み違えても二、三は下だ。いずれ、森を出歩くには幼すぎる。ましてや、もう陽も落ちている。そもそも、周囲に人家もない。
ぽかん、とザイナスは立ち尽くしていた。いずれ誰かが見に来る筈だ。そうは思っていたものの、最初がこんな子供とは。――いや、そも状況がおかしい。
「ええと」
言葉を探すも、ふと自分の上背が影を落としていると気づいて、ザイナスは腰を落とした。焚火に黒々大きく伸びては、魔物のようにも映るだろう。怖がらせるのは不本意だ。斜めに顔を照らして見せて、少女に視線を合わせて訊ねる。
「僕はザイナス、君の名前は?」
名乗ってから、追われる身だと思い返した。せめて偽名にすれば良かった。
「……エステル」
呟くように告げた少女は、まだ不思議そうな目でザイナスを見つめている。
「ひとり?」
ザイナスが訊ねる。
「だいたい」
だいたいって何だ。
「どこから来たの?」
「あっち」
エステルは森の暗闇を振り返る。
「家、壊れた」
あの山小屋のことだろうか。だが、この子が暮らしていたとも思えない。小屋の造りも備えの品も、子供の寝泊まりには向いていない。猟師か山守りの子供だろうか。季節で駐留は考えられるが、それならなおさら独りが解せない。
迷子とすれば、いったいどこから迷って来たのだろう。
不意に、聞こえるほどの腹の音が鳴った。エステルの視線がザイナスの顔と手に提げた蒸し肉の間を行き来している。いま重要なのは別の事のようだ。
「おいで、一緒に食事にしよう」
エステルに声を掛けて立ち上がる。
ザイナスが焚火を促すと、まるで糸で引かれるようにエステルは下生えを出た。ずるり、と何かを引き摺っている。羊歯を割って現れたのは、大きな灰色の塊だ。毛布、ではない。ザイナスは思わず目を剥いた。エステルが曳いているのは彼女よりも――ザイナスよりも身の丈のある白い狼だ。
「それは」
「食べる」
「やめなさい」
しかも、どうやらまだ生きている。ヒスヒスと鼻を鳴らしている。慣れているのか、観念したのか。どうやら弱って抗う気力もない様子だ。あの災害に巻き込まれていたのだろう。ただ、少女が軽々曳くほど痩せてはいない。
ザイナスは狼を眺め遣り、止めを刺すか四肢を縛るかを、しばらく迷った。
狼は息をするのもやっとのようだ。鳴けず動けずこの弱り具合なら、万が一でも対処はできるだろう。それに、食料は余るほどあった。
ザイナスはエステルに狼の尻尾を放すよう言うと、川辺で手を洗わせた。
「どうぞ、と言うのもおかしいな。これは森から勝手に持ってきたんだから」
焚火の傍に座らせて、蒸し肉をエステルに振舞った。皿や調理器具はもちろんのこと、山菜以外の肉の風味も潰れた小屋で拾った塩を使っている。
「エステルは――」
訊ねかけ、ザイナスは当面の質問を諦めた。エステルは勢い無心に齧りついている。肉を頬張るこの勢いなら、本当に狼も食べかねない。
見守りつつも、思案する。エステルの身の上が心配でもあり、森の怪異の類ではないかとの不安もある。皿を足してやりながら、少女の身なりを確かめた。
黄金色の髪は腰ほどまであって、羊歯の葉や枝屑が絡まっている。膝までひと続きのスカートも、下生えを潜ってきたせいで、緑と土に汚れている。ただ、真っ白な脛や剥き出しの腕は、つるりと傷のひとつもなかった。
エステルは無心で食べている。天真爛漫が過剰であっても、天使のような、の形容が似合う少女だ。ただ、その印象が却って落ち着かない。御使いではないか、という不安だ。見目に小さな子供でも、出会った御使いはみな歳が違う。
視線に気づいたエステルが、口のまわりを脂だらけにして、にかっと笑った。
「おいしい」
ザイナスは笑い返した。仕方がない。もしもそうなら、諦めよう。
干した手ぬぐいを手に取ると、ザイナスは少女の口許を拭いた。びくり、とエステルが顔を上げ、きょとんとザイナスを見つめて返した。
一瞬、瞳に螺鈿の色を見た気がして、ザイナスは思わず手を止めた。焚火に染まって判然としない。角度を変えて見たものの、瞳は翠に澄んでいた。
止めた手に、ん、とエステルが口を突き出した。幼いリズベットもよくそうやって、ザイナスに拭くのを強要した。思えば、あの頃からリ妹は横暴だった。
「まだ食べる」
大丈夫かな。ザイナスが目で問うと、エステルはふすふすと勢い良く頷いた。
「食べられる」
肉を取り分けた。エステルの気が済むまで皿に盛る。この食欲なら、漬け込みを焼いた方が良かっただろうか。蒸したのはザイナスが目先を変えたかったからで、自身は塩茹での蕗を齧るだけで十分だった。実は肉には飽きていた。
よく噛んで、とエステルの頭を撫でて腰を上げる。
さて、寝床をどうしよう。先に湯を沸かして身体を拭いてやった方がいいだろうか。子供の多い
独り身の野営をどう変えようかと迷いながら、必要なものを掻き集める。何よりうっかり裸でなくて良かった。そのあたりはリズベットに口煩く躾けられていた。
用意を済ませて一息つくと、狼を振り返った。これもついで、と焚火に寄せる。重い。抱えて運ぶも抵抗は弱々しいが、それでも大概だ。よく運べたものだとエステルに感心しつつ、尻尾が取れなくて幸いだった、と狼を慰めた。
水と素で煮た肉を分けてやる。見れば耳に紋の入った鋲があった。やはり、
唸り返す気力さえない狼を世話していると、エステルが肩越しに覗き込んだ。ようやく食べるのに飽きたかと思えば、手にはまだ櫛を握っている。
「助ける?」
不思議そうなエステルに、ザイナスは応えて頷いた。とはいえ、此処には備えも聖霊術もない。できるのはせいぜい、傷を拭いてやる事くらいだ。
「ん」
エステルがザイナスの隣にしゃがみ込み、横から狼を撫でた。
「もいもい」
何、それ。訊ねようとして目を剥いた。毛が解れ、ざわざわと傷が閉じて行く。見ていてわかるほどの速さだ。同じく唖然とした顔で、ザイナスと狼は一緒になってエステルを見遣った。
これはいよいよ、御使いか。とても聖霊術の詠唱には思えないが、御使いならば頷ける。だが、そうした事のできる子供を、ザイナスは一人知っている。
ザイナスは小さく息を吐き、エステルの髪に手を伸ばした。
「えらいな」
頭を撫でる。その正体がどうであれ、今更は逃げ出しようもない。いや、御使いならば頭を撫でるなど畏れ多いか。ザイナスは慌てて手を離した。宙に浮いた手を見上げ、エステルは掴んで頭に戻した。もっと撫でろ、ということらしい。
「んー」
ザイナスが頭を撫でると、エステルも得意になって狼を撫で回した。
傷はみるみる治って行くが、狼はザイナスに鼻先を擦って、これって大丈夫ですかね? と縋るような目を向ける。心配するな。不安は君と同様だ。
エステルが御使いであれば、ザイナスの
ザイナスは早々に悩むのをやめた。
◇
腹を空かせた身内が増えて、ザイナスの周囲は賑やかになった。
賑やかすぎるほどだった。
「これも食べる」
木陰に吊るした幾頭、幾匹は、燻す間もなく食卓に供されている。風下に埋めた足の早い部位も、狼の腹に取って戻した。狩りや漁が必要ならば、もっと段取りは変わっていただろう。幸い、それでも食材は余っている。
焼けた大孔の理屈は不明だが、辺りの被害は相当だ。森の供物が多すぎる。贄にされたザイナスを肥え太らせようするかのようで、気も少し滅入るほどだ。
とはいえ、食わねば勿体ない。取り敢えず、日持ちの加工が最優先だ。
エステルと狼は飽きないが、ザイナスはそうもいかなかった。醤茸や潮苔、酢芽草といった風味付けを摘んでは、何とか趣向を凝らして飽きを凌いでいる。
ともあれ、大孔の底で硝子状に焼けた岩は今も赤々といこっており、いまだ火起こしに困ることもない。擂鉢の余熱で焼いたり燻したり、鍋が空けば煮たりもしている。山菜集めや解体と併せて、日がな一日それなりの作業はあったが、ほとんどは食事の拵えに偏っていた。食い扶持の心配がないのが幸いだ。
エステルはザイナスにくっついて歩く。ころころと機嫌よく作業を手伝っている。口は食べるか喋るかしており、無理に話を訊こうともしないまでも、ザイナスはそれなりに情報を得た。どうやら、エステルは迷子という訳でもないらしい。
エステルの両親は遠征の杣人で、不在の折りは分村の教会で暮らしている。場所の見当はつかないが、トロルヨーテという里らしい。
歳の近い子供が少なく、教会を含めて里の皆が親のようなものだという。その放任、容認なのかは不明だが、気が向くと勝手に森に出掛けているようだ。大抵はひとりでも平気らしい。あの加護を見れば、何となく納得もする。
トロルヨーテは
ちなみに、
なるほど、それがエステルの奉神であれば、加護にも頷けるものもある。
ちなみに、御使いの神器は武具も多いが、力に秀でたシンモラは、肉体こそが神器とされる。聖像における神器としては、首環に銀箔が貼られることが多い。
「ザイナス、ザイナス」
頭を撫でられたのがよほど気に入ったのか、エステルは折りお見ては擦り寄って来る。移動するにも手を繋ぐし、食事となれば膝の上に上がり込む。それこそ、幼い頃のリズベットを見るようだ。今ではすっかり、つんとしているが。
狼も回復した。すっかり動けるようにはなったが、逃げも戻りもせずにいる。エステルに齧られずに済んだのは何よりだが、今も少し身構えることがある。
ただ狼も狼で、犬のようにザイナスの後をついて回るようになった。少し贅沢をさせすぎたようだ。いずれ、主の狩人に文句を言われるかも知れない。
もしもエステルが迷子であれば、送り届けるのが先だった。そうでないとわかった以上、急ぎ人里を目指す必要もない。少なくとも、食料が豊富なうちは。
むしろ人との接触を避け、ザイナスは自身の行方不明を長引かせたかった。
どのみち、少女の足の範囲にはトロルヨーテの里があり、それを思えば何時に人が訪れてもおかしくはない。ザイナスの厄憑きが問題を起こさない限りは、暫く此処で暮らすのも、そう難しくない。なので、数日はそうして過ごした。
ようやく人が訪れたのは、いっそ小屋を建て直そうかと思い始めた頃だ。
森の彼方の火柱と地面に落ちた雷雲を見て、里から様子を見に来たのだという。なかなか手の空いた男衆が集まらず、今まで時間が掛かったらしい。
彼らはいまだ熱気を孕んだ大孔に目を丸くし、そんな場所であっけらかんと暮らす二人と一頭にも驚いた。むしろ、呆れてもいた。
とんだ災難に巻き込まれたものだ、と世話を焼いてくれようとしたものの、実際、彼らに豪勢な食事を振る舞ったのは、当のザイナスの方だった。
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