第18話 獲物(狩人)の疾走
切り込み加減に嫌味があって、縄を解くのに間を要した。外の様子を窺うも、もちろんアベルの姿はない。彼の企みが本当ならば、近くに御使いがいる筈だ。
どこまでアベルは本気なのか。
彼が御使いである以上、御柱の使命には縛られている。ただし、解釈に幅がある。反抗の範囲はいかほどか。
これが茶番であることも、心が歪であることも、どうやらアベルには自覚があった。なければザイナスを刺したりしない。確かめる必要があったのだろう。
敵の敵だが、味方ではない。何とも、面倒な相手だ。
ザイナスは小屋の周りを見て回った。辺りは森の高みにあって、少しばかりは見通しも利く。眼下には荒れた馬車道も窺えた。
此処に留まるのは悪手だが、移動するなら標が欲しい。例えば、追手と異なる単神教会。他の御柱の権域であれば多少の制限もあるのではないか。
ならば、人里を目指すのが理に適う。
アベルは十分に手掛かりをくれた。『生粋の狩人』が正しければ、相手は恐らく
狩人の御使いを相手に、どうしろと? 口づけ以前の問題だ。
旧聖座での
歩き出し、ザイナスは周囲を警戒する。ヒルドの神器は白銀の弓矢だ。
走って逃げたいのを堪えながら、樹や下生えの裏を潜って歩く。御使いの出方を窺った。何処にいるのか、もう始まっているのかさえわからない。
白銀の矢なら心臓を狙う。それ以外なら致命傷を避ける。相手の狙いが絞られる事、一度きりだが的を誤解させる事だけがザイナスの優位点だ。
一瞬、空気が張り詰めた。ザイナスの右手を矢が掠め過ぎる。
初手を外すほど甘くはない。むしろ、慎重に過ぎるのかもだ。いずれ誘導には違いない。罠か、あるいは確実に射られる好位置がこの先にある筈だ。
さり気に射手の煩わしい位置取りで、ザイナスは慌てた風に駆け出した。見定めた幹の裏に滑り込み、射線の影に入ってひと息吐く。
ふと悪寒が走って根に伏せた。太い樹の幹などなかったように、白銀の矢が頭上を飛んで行った。なるほど、これは面倒だ。白銀の矢は遮蔽が効かない。
しかも、見えているように動きが読まれた。むしろ、本当に見えているのか。
ザイナスの動きを誘う限りは一矢で終わらせるつもりもないと踏んでいたのだが、どうやら機会があれば逃す気はないようだ。
今は運よく躱せたが、神器があれでは隠れようがない。
とはいえ、神器と弓を交換するのに一拍とすれば、その間は樹の裏に逃げても矢は来ない。だが、こうしている内にも確実に好位置に追い込まれている。
地面を這って姿勢を変える。茂みを縫って顔を上げ、辺りの位置を確かめた。
下生えの繁茂する半端な植樹林で助かった。迂闊に頭を晒しても致命傷は来ない。
倒れつ転びつを成り行きに任せながら、ザイナスは石や蔦を拾い集めた。
頬を割いて矢が跳ねる。隠れて駆けながら射られた矢を探した。
鏃を確かめて安堵する。幸い毒の類は塗られていない。ヒルドがこの矢を射る限りは、誘導か足止めだ。最悪でもザイナスの四肢や腹を狙うだろう。その間に射線から遠ざかり、トロルヨーテへの道筋を辿る。気が遠くなるほど面倒だ。
しかも、課題はあと二つある。
アベルがザイナスを買っているとしても、御使いを出し抜けるとまでは考えていない。いずれヒルドの神器で射られるのは確信している筈だ。ならば、アベルの狙いは
アベルは姿を隠せる。狩人よりもザイナスの近くで息を潜め、射抜かれた魂を回収する算段だ。ならば、気取られないための演技がもう一段必要になる。
あとのひとつは、資格の剥奪だ。
アベルに拒んで見せたのは嘘だ。もとより御柱の茶番であるなら、巻き込まれたザイナスに負い目はない。彼の言う通り、背に腹は代えられなかった。
ただ、御使いが相手では物理的に困難だ。平手のひとつで首が捩じ切れる。
逃げながらザイナスは思案した。
凡そ恥も外聞もなく、獣のように四つ脚で下生えを潜る。まさに這々の体だ。
ふと、矢を射る気配が途切れた。
間を外した罠か、あるいは位置取りに動いたか。どうにも嫌な感じがする。ふと、思い至ってザイナスは呻いた。
息遣いに気づいて思い切り走った。今は
取りも直さずザイナスは逃げた。全身を晒しても射られる気配はなかったが、今は鏃より牙の方が問題だ。それは、確実にザイナスに迫っている。
願わくば、相手は狩人だけに絞りたい。油断がなければザイナスに勝機はない。描いた方向を読み違えていなければ良いのだが。
そう考えたのも束の間、茂みを割る音と息遣いが急速に近づいた。ザイナスが振り向いた瞬間、巨大な狼が牙を剝いて飛び掛かって来た。
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