サラダ記念日

一の八

サラダ記念日





病室の窓から、柔らかな秋の日差しが差し込んでいた。

カーテン越しに揺れる光は、長い人生に寄り添ってきた記憶の断片を、ひとつひとつ浮かび上がらせているようだった。



「おはよう」

私は、ベットの上で起き上がる夫に声を掛けた。


「おはよう、いい天気だね」

穏やかな表情で夫は答える。


「体調どう?」


「体調?全然問題ないよ!…問題はあるのか。」

と自分の体をさすりながら冗談めかしく言った。


夫の腕に繋がれた透明のチューブが揺れる。

透明の液体から一滴、一滴と滴る様子がまるで砂時計のように夫の残りの時間を刻々と刻んでいるように見えた。


この笑顔をあと何回見ることが出来るのか。

そのこと思うと何処か心寂しく感じていた。


夫とは、これまで人生の多くを2人で共に過ごしてきた。


両手では、数えきれないくらいにたくさん旅行にも行った。


その先々では美しい景色を見て、美味しいものを食べた。


「ここを退院したら、また旅行に行きたいね。次は、どこに行きたいとかある?」

ベットの横の花を見つめながら問いかける。


「そうだな…なんかだいたい思いつく様な所は、ほとんど行ったんじゃないか?

う〜ん、南極とか?」


「南極?私は、寒いの嫌よ。あなたも寒がりじゃない」


「たしかに南極に行っても建物の中でずっと過ごしていたら、他と変わらないもんな」




夫は、食べる事が大好きでその土地に行けば必ずというほど名物というものを口にしていた。


イタリアのパスタ、フランスのワイン、北海道のカニ……

あれもこれも、たくさんの思い出が詰まっていた。



「もう一度、何か食べたいものある?」

私は、穏やかに尋ねた。


長い沈黙の後、夫が口にしたのは意外にも「サラダがいい」という言葉だった。


「サラダ?」私は少し微笑んだ。


決して派手な料理を好む人ではなかったが、それでも最後になるかもしれない今に望むのがサラダとは、少し可笑しくて、少し切なかった。



「なんでサラダなの?」

不思議になり聞いてみた。


「いつも言ってたじゃない。サラダも食べなきゃ。って」

「言ってたけど、せっかくならもっと豪華なものとか食べた事ないものとか。そういうのじゃない?」


「あの味がいいんだ」

「そんな特別なもの使ってないと思ったけど」


私は、頭の中でサラダを思い出してみてもどこにそんな良さがあったのかが分からなかった。



「“健康の為にもサラダも食べないと”ってそう言っていて、いつも山盛りのサラダを作ってくれたじゃない?」

「作ったけど…」



なんだか言いにくそうな顔で答える。


「今だから言うけど、本当は子供の頃から野菜が苦手であんまり食べなかったんだ」


「いつも残さずに食べてたからってきり大好きなだと思ってた」



「子ども頃に2人とも共働きのせいか

ご飯を用意してくれるんだけど、レトルト食品のパックとサラダが置いてあったんだ」


「そうだったの。でも、それが嫌いな理由?」

私は、いいお母さんだなと関心して話を聞いていると。

「ほんとは、おふくろの味っていうのを味わってみたいのにそんな誰でもできるようなもので誤魔化されいるのかと考えたら食べたいと思えなくなって。

それから食べないことが多くなったんだ。」


そんなことも知らずに体のためと言って無理に食べさせていた自分に後悔した。



すると、うつむく私の姿を見て夫が再び口を開く


「いいんだよ。僕のことを思って作ってくれたあのサラダがいいんだよ。そうだ、退院したらサラダでお祝いしよう」


「サラダでお祝いってなんとも味気ないわね」

そう言って私は、夫を見ると



「じゃあ、また来年も一緒に笑っていられるように。今日は『サラダ記念日にしよ』」


優しい笑顔を向けてくれる夫に私は素直に頷いた。


それが夫との最後の会話になった。


その夜、夫は、静かに旅立った。

ベットで眠る姿は、声を掛けたらまたすぐに起きるのではないかと思えるくらいに

いつもと変わらないそんな穏やかな表情をしていた。





ただ、胸の奥にぽっかりと大きな穴が開いたような感覚だけが残った。



私はぼんやりと、夫と過ごした数十年の時を思い返していた。


こんな夫婦になれるなんてはなから一ミリも思ってなかったのよ。

2人で生活している頃なんか、あなたは仕事、仕事って。

なんで結婚したのかなって思った事もたくさんあったの。



みんなこんな風に、

はな離れになっていくのかって世間の言葉に納得している自分がいたのよ。

だから、私も……



それでも、家で一緒に過ごした時に思ったの。

『やっぱりわたしは、あなたが好きなんだ』ってね。



でも、一つだけ分からないの。


あれほど沢山の料理を共に楽しんできたのに、なぜ最後に「サラダ」だったの?




夫が何か特別な意味を込めたのだろうか。

今だに分からないまま、時間だけが過ぎていった。


次の日、本当なら夫の命日として覚えておくべき日だったけど、

私は心の中でその日を「サラダ記念日」と名付けた。

それは、悲しみだけでなく、夫との幸せな時間を思い出すための日にしたかったからだ。


夫が亡くなって一年が経とうとしていた日、私はまた病室にいた。


心臓の検査だったが、どこかで夫に会いに来たような気持ちでもあった。



「検査の結果ですが、なんともないみたいですね。」

若い看護婦さんに告げられる。


「よかったです。もう少しだけ長生きできますね。去年なんですが、夫が亡くなりましてね。“胃がん”が原因で。私も最近は、心臓に違和感があったので」



「そうだったんですね。それはご冥福をお祈りします。でも、全然大丈夫ですよ」

看護婦は、私の返答に困った様子でなんとか笑顔を作っていた。




家に帰ると、13時を回ろうとしていた。


まぁ、そんなにお腹減ってるわけでもないし。

簡単なものでいいわね。



冷蔵庫の中からレタス、トマト、きゅうり、パプリカを取り出して、まな板で切り分けた野菜を、色とりどりに白いお皿へ盛り付けていく。




皿に盛られた新鮮な野菜を見つめていると、不意に涙が滲んできた。


夫とのなんでもない毎日がよみがえり、胸が締めつけられるようだった。


しかし、ふと夫の声が心の中で響いた。「また、来年も君が悲しまないように、今日は『サラダ記念日にしよ』」と。


夫はきっと、最後まで私を笑顔にしたかったのだ。

だからこそ、あえて「サラダ」を選んだのだろう。


派手ではなく、けれども確かに夫の思い出に残るもの。


私は小さく微笑んだ。


夫の望んだ通り、この日を悲しみではなく、感謝の記念日として生きることにした。



そして、二人で過ごした日々が永遠に続くように、心の中で「サラダ記念日」を祝った。


「来年も、またサラダを食べようね」



私ははそっとつぶやき、一口サラダを口に運んだ。


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