最終話
……男が足音の正体を知り、自分と瓜二つのもう一人の自分を見たその後、男はその場で気絶し森で朝を迎えた。もうすでにそこには自分一人以外誰もいなかった。もちろん、自分以外の自分も。
男は呆けた様に家まで帰り、その日一日は死んだ様に眠った。
そうして目覚め、少し一服した後、先日の事をなるべく詳細に、鮮明に想い出していた。
(ーーあれは俺だった。間違いなく、俺だった)
あの日男の前に現れたもう一人の男の意図を、意味を男は知ろうとした。
次第に男は、あれは自分に死をもたらす為にやって来たドッペルゲンガーではないかと考える様になった。
ドッペルゲンガー……死の象徴……いや死の抽象物。
それは或いは影、闇、自己、自己以外なのかもしれない。
(しかしならばなぜドッペルゲンガーが俺の元に現れたんだ?)
男は死について自分が今まで考えたありとあらゆる事を考えた。
しかし、どう足掻いても理屈をつける事が出来なかった。しかしただ一つわかっている事があった。
(俺は死ぬんだ。あのドッペルゲンガーの手によって……俺は死ぬんだ。山程見て来た、あの死体達のように……)
この時男の胸中に浮かんでいたのは深い落胆だった。男に残っている数少ない人間性や普遍性……いや、生命としての本能がそれを男に抱かせたのかも知れない。男は今まで散々していた自らの行いを初めて恥じた。
男はそれから、前と同じ様に引きこもったが、足音はその間も容赦なく鳴った。
男の寝そべるベッドの周りを、食事をしている時のテーブルの周りを、トイレの中を、風呂場の背後を、ダイニングとリビングを……なんの遠慮もなく歩いた。
男はもうそれを相手する事を諦めてしまった。不思議な事に森の中以外で聞く足音はドッペルゲンガーの形をとらず、以前のようにただ足音を打ち鳴らすだけだったが、正体は変わらなかった。
もはやそれは、紛れもなくもう一人の男そのものであり、姿形が見えなくとも、その事を男自身が充分に感じ取っていたのである。
そうしている内に、男の精神は麻痺してしまった。
四六時中、寝ても覚めても足音がするのだ。ずっと、耳に届く足音を聴きながら男は生活を送っていた。
男の様相は更に酷くなっていった。
頬はこけすぎて陰を作るまでになり、目やにのついた目元は暗く落ち窪んでいたが、充血した目は爛々と輝いていた。
手入れよくしていた髪は、今はほとんどが白髪になっている。
食事は足音が酷くない時にだけとれるので、どんどん痩せていくばかりだった……。
男が会社に来なくなって、見かねた課長が、部長を引き連れて男の家まで訪ねて来た。
扉を開いて出て来た男に思わず課長は
「……あの、どちら様ですか?」
といった。
課長に男が名乗りをあげると、課長達はとても驚いた。
「あの……今日は残念ながら解雇通知を持って来たのですが……」
課長が言うと、男は謝罪の言葉を口にし、しかしそれだけに飽き足らず自らの胸中を告白した。
「本当に申し訳ありません。でもね……足音がね、止まないんですよ……。
ずっと、耳元で俺を、追いかけてるんだ。俺を殺す気なんだ。あの死体達みたいに。でも……それは一体なぜ? なんのために?」
ブツブツと言葉を発する男にたまらず課長達は逃げ出した。虚しく空を切った男の手には目もくれず。
……それを見送った男は、諦める様に街へ歩き出した。
その日は、空は分厚い曇天に覆われて薄暗く、秋にしてはいやに空が低く見えた。
雨の降りそうな気配はなかったが、空に広く敷き積もった雲は何処までも伸びており、今日を過ぎても陽は永遠に登らないかのように見えた。
男は街中をなんの目的もなくただ歩いた。あのなんの感動もない日々に戻ったかのように。しかしあの時と一つ違うことがある。足音だ。
足音はやはり、未だに男に甲斐甲斐しく付き従っており、男には自らの足音とドッペルゲンガーの足音が重なるように響いて来ていた。
ふと、男はこんな事を考えた。
(俺はなんの為に生まれて来たのだろう?)
それは命が出生すると時のように唐突で不可思議な問いだった。
(或いは、なんの為に死ぬのだろうか? 何故、あれほど死体に心を惹かれたのだろうか? 死を理解しようとする事で自分を肯定する為じゃなかったのか?
じゃあ、今は? これから死へと向かう、今は?)
男は考えに考えた。重複する足音に苛まされ、朦朧とする頭で……。
ぼぅっと歩いていた男は、途中足元の何かにつまづいた。
(ーーなんだゴミ袋か)
それはカラスに突かれた為何処からか転がって来たゴミ袋で、嘴で開けられた穴の中から散乱した生ごみがこぼれ出していた。
そこに、汚れたタロットカードが混ざっていた。ゴミに塗れ汚れて、散らばったタロットの一枚一枚をなんとなく目で追っていた男は、一枚のカードに目が入った。
(あ……そうか)
男の目に入ったのは、『カップの9』だった。
あの時インチキ占い師に指し示されたカードだ。
(そうか……やっぱりそういう事なんだ)
何かに思い至った男は、街中から踵を返し、森へと向かった。
ーー森はいつものようにそこにあった。男が来ていた時と変わらず原生の風がこだまし、草木はそれになぶられまいと揺れている。男はここにくる頃には夜になるだろうと予感していたが、正にその通りになった。
厚い曇り空の夜は煙の中の様に重く、冷え切った夜気が男の肌を撫でたが、次第に男はその煙と冷たさに慣れ、それとともに徐々に開いていく瞳孔が男の目の前にある暗闇の道を少しだけ見えやすくし、そのために男の視界に浮かぶ森の道は暗い灰色の海に沈んだ様になっていた。
男は淀みなく森の中を進んでいけたのである。それは慣れ親しんだ道を見えやすい目で歩いているからいうだけでなく、微かな決意を抱き始めた男の目に真っ直ぐな道が見えていたからだったのかも知れない。
男はここに来てようやく、この森に馴染んだ気がした。そして不思議な事に、男のやつれた顔は、段々と元の端正さを取り戻し、まるで活力が満ちていくように男の足取りも確かなものになった。
足音は止まない。依然として男の耳に響いてくる。
ーーザッ、ザッ、ザッ。
しかし今日森に来てから聞くそれは、どこか親密で、自らに寄り添ってくれるようにも聞こえた。
森を歩く最中、男は途中まではドッペルゲンガーに追われていたが、途中からむしろ自分がドッペルゲンガーを追う側になったりもした。
追う側……追われる側……追う側……追われる側……と、それはどんどん入れ替わり進んでいく。
その度に森の中に二人分の影が踊り続けた。
それらを繰り返すと、次第に二つの足音は一人分の様に折り重なった。が、絶妙なところでそれらは触れ合わずに反響し合っている。
ーーザッ、ザッ、ザッ。
ーーザッ、ザッ、ザッ。
(ーーああ、やっぱりそうだ。
死が生を追うように、生も死を追っている。ならば自分が今まで死者を愛した理由は、追い求めた理由は……)
不思議な事に、その日は首吊り死体が一体も見当たらなかった。暗い闇の中に溶けたのかも知れないと男は思ったが、道すがら男が以前木に掛けたロープは発見する事が出来た。
その白いロープは、闇の中で不自然なほど目立っていた。しかし、男がそれを手に取ると、蛇の抜け殻を思わせるほど、ぐったりと男の手の中に収まるのだった。
すると男の数メートル前方に、ドッペルゲンガーが現れた。急に立ち上った蜃気楼の様だった。
ドッペルゲンガーの自分と瓜二つの白い顔が笑い、男も同じ様に笑うと、まるで二人の間に鏡が貼られたかの様だった。
(ーーああ、今いくとも。俺はもう、理解したんだ)
男とドッペルゲンガーは共に森の中を進んだ。
(そう、俺は理解した。お前をじゃない。『死』は未だに俺に触れられるものじゃないままだ。お前は未だ美しいままだ)
やがて二人は、あの初めて邂逅した場所……森全体を見回せる、太い樫の木が一本鎮座した崖の上に出て来た。
ドッペルゲンガーは、そこに辿り着くと、足を緩めた。ゆったりとし始めた足取りに合わせて土を踏む音がより鮮明になった。
(理解したのは、俺の求めるものだ。
俺は、お前らの美しさに魅力されたんだ。俺も、そうである事が幸福なんだと思っているんだ。そのためには、全てを差し出せるんだ……)
男とドッペルゲンガーは樫の木の前に立った。空を見ると、色彩の暗い絵の具をぶちまけた様な雲が蔓延っている。森は暗い波となって揺れている。
男は、ロープを木に括ると、先端を輪の形に整えた。
近場にあった抱えられるほどの小さな枯れた切り株を台に見たて、男は、台の上に立った。そして、ロープの輪を両手で握った。
(……全てを差し出す事で、俺はお前らを理解できるんだ。
俺のくだらない生を終える事で、俺はようやくお前らを理解し、美しくなれるんだ)
男は手にあったロープを、首に掛けた。
(ーーあぁそうだ。
俺はずっと、死にたかったんだ)
ドッペルゲンガーは男の目の前にいた。台の上に乗りロープに手を掛け、今にも自らの生に終わりを告げようとする男の前に。
そいつは、男へ向けて誘う様に手を差し伸ばした。男とそっくりの端正な顔が暗闇の中で白い灯火のように仄かに光った。それと同時にドッペルゲンガーは微笑し、合わせるように男も微笑するのだった。
ドッペルゲンガーの差し出した手に向けて一歩踏み出す様に男は、台から飛び降りた。
--男はロープに首を絞められ、宙吊りになった。
当初にあったのはひたすらに苦痛だった。首の痛みだけでなく、身体のありとあらゆる痛みが男を襲い、それを押しつぶすほどの、圧迫が男の中に満たされていった。
呼吸が苦しくなってくると、次第に痛みが消え身体が強張り、それも超えると、視界と意識が段々ぼやけていった。
(ああ、これで……これで俺も……お前らと……)
男の今にも消えいく視界の中で、森と、空と、そこに見えない月と、ドッペルゲンガーが混ざった。そこにまもなく自分の意識も混ざる事を思うと、男は不思議と安堵するのだった…………。
森は闇に包まれ止まったように静寂していたが、時が流れるにつれ、曇っていた雲も流れ始め、千切れ千切れになり、雲間ができ始めた。まもなく青白い月が顔を覗かせるのだろう。
樫の木には死体がぶら下がっている。ただ一つだけの孤独な死体が……。それは風に揺られているのか、木の枝の軋みに合わせて揺れているのかはわからないが、闇を攪拌するかのようにしかし決して闇に交わらず、ただ……ただ揺れ続ける。
……そして暫くしてそこに
--ザッ、ザッ、ザッ。
足音が響いて来た……。
追葬者 間灯 海渡 @tayutakk
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