第5話
……あの昼間の追走劇があった後、足音は度々男の前に現れた(もちろん姿も形もなくただ音だけが……)
最初は男が会社に行ったり、用事で遠出をしている時だけにそれはとどまっており、男がその場を逃れれば音は速やかに止んだ。
しかし、次第に音はエスカレートしていく……。
最初は偶にしか現れなかったそれは、頻度もどんどん増やし、男が休日であろうと仕事であろうと追い回して来た。
そして追跡してくる時間も比例して長くなっていったのである。
ある日、休日の最中男が買い物に出た帰りにも足音は迫って来た。
それは住宅街の路地裏から微かに砂利を踏む様な音を携えながら、ジリジリと男に迫って来た。
気がついた男が慌てて逃げ出そうにも足音は例によって住宅街に張り巡らされたあらゆる路地を歩行し、男を追い詰め、男は息も切れ切れ逃げ延びた。
また、営業の仕事に課長と一緒に出ている途中、駐車場に止まったトラックの影からそっと忍び寄る様に迫って来た事もあった。
「おい! どうしたんだ?」
と、課長の静止するのも聞かず、男は足音から逃げる為に走った。
男にもわからないのだが、この足音を聞くと、どうにも生理的な恐怖が呼び起こされ、仕事中だろうがなんだろうが構わず逃げ出したくなってしまうのだった。
気晴らしに例の森に行こうとする時など特にひどかった。
驚くべき事に、足音は森へ向かう為男が車を運転している時にも響いて来たのだ。
車通りの少ない田んぼの広がった国道を男が車を走らせていると、それは男の耳に届いて来た。自分の車のエンジン音よりもはっきりとした音で。
--ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
「嘘だ! いくらなんでもそんなはずない!」
しかし、確かな質感を持って足音は車を運転する男の元へ届いてくる。
バックミラーには何も映らない。後続車すら無い。
しかも足音は決してペースを急ぐ訳でもなく、あくまでゆっくりと近づいてくる。
「空耳だ! これは空耳……空耳だ空耳空耳空耳……」
しかしそう思えば思うほど、空耳では無いという確信が男の胸の中に湧き上がってくる。
そして、もしこの得体の知れないものに追いつかれたその時は、その時は……。
その想像から沸き起こる感情は掻きむしりたくなるほどの本能的な恐怖であり、こんな事が気のせいであるはずはないと男は考えた。
そのまま足音とカーチェイスをしていた男だったが、やがてカーブに差し迫った時に、気を取られた男は手元を誤り、ガードレールに激突した……。
その時は怪我もなく命に別状はなかったが、しかしもう自分には決してあれから逃れる術はないのではないか、という想像が、男を更なる絶望に追いやっていった。
そして、時と場所を選ばない足音に永遠に付き纏われる様になって暫くして、男はついに憔悴していってしまったのである。
今では、自宅から出ればものの数十分であの足音が何処からともなくやって来て、男を追い回す。そしてそれから逃げても、少し間をおけば再度追いかけられる。
そんな事を繰り返して2ヶ月が経とうとする頃に、ついに男は家から一切出れなくなってしまったのである。
……カーテンを閉ざし切り、照明を煌々と照らした部屋の隅、ベッドの上で男はうずくまっていた。
質の高い調度品や家具が並んだ広い部屋は、それに似つかわしくない荒れ果て様でダイニングには食料品と空の皿や容器が、リビングにはティッシュやコンビニ袋などの生活用品が散乱している。
男は、掛け布団の中からごそっと手を出して、ベッド横に置いたスマホに手を出した。
スマホのスイッチを入れると、その明かりに照らされ男の顔がぼぅっと浮かび上がる。
男の顔は痩せ、整ったセンター分けは寝癖と髪が伸びた事でボサボサになり、無精髭は生え放題だった。
もはやそれを手入れする余裕も、男にはないのである。
そして目の下には炭を塗ったくったように隈ができている。
男は、スマホに表示されていた留守電のメッセージを開いた。直後に電子音が鳴る。
『新しいメッセージです。11月14日。午前10:40分です。
……あーー、体調はどうだね。時期よくなりそうですか? いや、中々長い休養だから、皆んな心配してね。
あーー、それで申し訳ないんだけど……こんなに長く休みが続くようならいっそ休職扱いにしてはどうかと部長がね……いやぁまぁ、うちは君がいないと困るからなんとも言えんのだけど……。
まぁ、困った事があれば、あぁ……なんでも相談してくれていいから……』
留守電をそこまで聞いて、男は力任せにスマホを部屋の壁にぶん投げた。
ガン! と鈍い音がして、壁からスマホが落ちる。
持ち主の手から離れたスマホは、電子画面をちらつかせながらまだ課長の声を発信し続けている。
「何がなんでも相談してくれていいだ……何にもしらねぇくせに」
そうぼやき、男は再びベッドの中に潜り込んだ。スマホはやがて沈黙した。
(もうずいぶん経つが未だにあいつがなんなのか、俺の身に何が起こっているのか、まるでわからない。
ヤケクソで霊媒師や占い師にも見てもらったが、どれもインチキだった。何も問題はないしむしろいい兆候が出てるとか抜かしやがる。
タロットを見てもらった時は傑作だったな。『カップの9』だっけか? ……あなたの望んだものが手に入りますだと……?)
男は急にガバっとベッドから起きると、高らかに嗤い出した。何もかもを恐れるような、嘲罵するような、悲しみ枯れ果てるような、そんな嗤いだった。
「ふざけるな!!! 誰がこんな事望んだ?! こんな事俺がいつ望んだ!! あぁ?!」
男は立ち上がるとそばにあった掛け布団を蹴飛ばし、枕元のライトスタンドをコードごと引き抜き、リビングにあったテレビに向かって思いっきり投げた。
けたたましい音が鳴ると、割れたスタンドの電球の破片とテレビの液晶が、パラパラとみぞれの様に床に降り積もった。
男は飛んできた破片で、頬を切った。
その白い顔の中から出て来たとは思えないほど、暗い鮮血の赤が男の顔の横を伝う。
瞬間、男の胸の中に何か煮えたぎる様なものが湧いた。その炎というには少々歪で、邪な胸の疼きはたちまちに男を満たし、やがて男はその熱に当てられ息を荒くし始めた。
(ーーあぁ! そうだ! もう、もうこうなったらいっそどうなってもいいからあいつの正体を掴んでやるんだ。もう捕まるとか捕まえるとかどうでもいい。あいつがなんなのか見てやるんだ! そうだ! 俺はその為ならばどうなったっていいんだ!)
男はそのような激情に満たされた……。
すると、驚いた事に、例のあの音が響きわたって来たのである。
ーーザッ……ザッ……チャリシャリ……ザッザッザッ……。
それは明らかに家の中からした足音だった。足音は今、確かに男の目の前から聞こえていた。
フローリングを踏み、先ほど男が散らばしたガラスの破片を踏み、それは誘うように玄関の外へと出ていこうとする。
「ーーそこにいたのか!! 待てよ。待ちやがれ!!」
男は狂騒に駆られるように飛び出した。
外はそろそろ夕方になる頃合いだった。
足音は段々速度を上げて男から遠ざかって行く。男はそれを無我夢中で追いかける。鬼気迫った表情で、まるで追いかけいる自分が今まさに追われているかのように……。
幸い、足音は男から逃げ切る事はなかった。男が息を切らし立ち止まっても、それに合わせるようにペースを緩め、スタスタと歩いた。
それを、恐怖を怒りで塗りつぶした男が追いかけていく。
ーーやがて足音と男は、ずいぶんと遠くまできた。不思議と疲れは一切感じなかった。
夕空の茜は空の果てに沈み、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
辺りには民家も少なくなり、秋の空気をふんだんに吸い込んだ森の匂いが男の鼻に漂ってくる。
そう、男と足音が辿り着いたのは例の、男がいつも週末に巡っていた自殺者達の為の森だった。
足音は虚ろな夜の森をずんずんと進んでいく。男もそれに合わせて進んでいく。
森の中は暗く、木々の姿も朧げで、まるで闇の中に滲むようだった。
進んでいく中で、男は道すがら木からぶら下がる幾人かの死体達を見つけた。
男がこの前仕掛けたロープで首を吊った死体も見受けられた。
それらは皆一様に、吹き付ける風の元、ただ揺れた。
闇の中で揺れ続ける死体達は、皆濃い影に縁取られ、腐り果てた顔も、膨らんだ身体も闇の中に溶けていった。
(なんだ? 今日はずいぶん死体達がよそよそしい)
そうこうしていると、男は自らが追いかける足音の前方に、何者かの人影が見える事に気づいた。
それはまるで暗い闇よりも黒く浮かぶ幻影のように、身体を左右に揺らしながら男の前方を歩いていた。
(見えて来た! 初めてあいつの姿が……)
男は興奮を胸中で抑え、ひたすらにその後を追う。
次第に二人は、木々が段々と少なくなる道に出て来た。
さらにそこを抜けると、急に森が開けた場所が出て来た。その場所は、前方が高い崖になっており、断崖の向こうには広がった森が眺望でき、それらは月明かりに照らされ暗い波の様に揺れていた。
そしてそれらを、崖縁に生えたがっしりとした檜が一本、まるでそこから取り残され遠く行ってしまった仲間達を見送るように立っている。人影はその真横に控えていた。
男は足音の主の数メートル手前で立ち止まった。身体は日頃男が愛すもの達のように冷たく乾いていた。
男は青ざめた唇を動かし、その人影に問う。
「おい! お前は誰だ? なんの為に俺を追うんだ」
夜も寝入りそうな程静まり返った森の崖に、男の声はこだまとなり、反響して男に還っていく。
足音の主は、その反響音が鳴り止まない内にゆっくりと……振り返った。
「ーーえ?」
男と足音の主がむきあった瞬間、二人の間に秋の清涼な風が流れた。
暗く、どこか哀愁と不確かな予期を感じさせる風が、二人を撫でながら、しかし決してその身を脅かす事などなく、ただ二人の間にあいた暗闇の虚空を流れる。
それに合わせて月光が、雲間から現れ崖縁を照らし……一本の檜を照らし……そしてその真横にいる男の顔を照らした。
鼻梁の高く、端正で切れ長な目とその前にかかる髪をセンターで分ち、どこかに品の良さを感じさせる顔を……。
「------俺だ」
男は呆然と呟いた。
それに合わせるように、月光に照らされるもう一人の男の顔が、妖しく微笑した。
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