第4話
男が死体に興味を持ったきっかけは、5年ほど前に退屈を持て余した男が渓谷のトレッキングツアーに参加した時、偶然死体を発見してからだった。
男はその頃には、もうすでに自分の日常の全てに退屈し切っており、身の回りのあらゆる事に感動を持てずにいた。
ツアーに参加すれば、人生観が変わるとは到底思えなかったが、しかし手慰みでも何かをすれば少しの間だけ退屈が紛れるのではないかと思ったのだ。
ツアーの自由行動時間で、男はツアーガイドや他の客達から少し離れた場所で、渓谷の木々の合間にある広く、水底が見える程浅い川の写真を撮っていた。
暖かな陽気が渓谷の隅々まで行き渡り、ツアー客も皆それに当てられて明るくのびのびしていた。
その中で男だけが、周囲から切り離された様にポツンと立っており、男の内心もまた、この陽気とは隔絶された荒涼なものに包まれていた。
無味乾燥な表情を浮かべながら男がファインダーを覗いていると、向こう側にある岸辺の森を写すディスプレイの端に、何か木や動物とも違う、ぶら下がる様に揺れているものを発見した。
(ーー? なんだあれは?)
男はそれをよく見るために、カメラを拡大しそれを大きく見ようとしたが、それは木々の間に隠れて見えなかった。
その為、男はそれに直接近づいた。
浅い川の飛び石の橋を渡っている時、ガイドから
「落ちないで下さいねー」
などという、朗らかで間延びした声が聞こえたが、男は無視した。
それとの距離が3m程になると、男は覆い隠していた木々を回り込み、それと相対したーー。
それは白樺の木の太い幹から、ささくれだったボロのロープで首を吊っていた、老婆の首吊り死体だった。
男はその場で、心臓ごと凍りついた。しかし凝結した身体の中で、思考と視線だけが、忙しなく蠢いていた。
男の目は、吊り下がる老婆の死体を隅々まで眺めた。
それは死後数週間経ったものの様で、唯一老婆だろうと推測できる暗い紫のワンピースと白髪だけがまだかろうじて形を保っており、その他の顔や服の先から見える腕や足は腐って崩れていた。足元の地面には形容し難い液体が溜まっている。
褐色にくすんだ死体は、皮膚の表面が水泡の潰れた様にグシャグシャになり、所々汚れた骨が覗いていた。
その表面を、白樺に似た色をした真っ白な蛆虫が蠢いている。
それを仔細まで眺めると、今まで気が付かなかったのが不思議なくらいに鼻をつく、酸っぱいとも苦いとも言い難い、おぞましい匂いが周辺に漂った。
呆然とする男の後ろから、ガイドが来て悲鳴をあげ、すぐに警察が呼ばれた。
その老婆は、渓谷の近隣に住んでいた様で少し前から行方不明になっていた。その場の状況から、警察は老婆が自殺したものとして処理した。
その日のツアーから帰り、男はずっと何かを考える様になった。
男の追想の中にあるイメージは、あの時の老婆の死で埋め尽くされていた。そうして男はあの時の自分に芽生えていた、衝撃とも歓喜とも戦慄とも安寧とも言い難い感情に深く打ちのめされ、それに囚われた。
それから暫く経つと、男は自ら自殺スポットを巡り、死体を探す様になった。血眼に、無心に……。
それは今までの幸福で退屈な日常に対する反抗の様でもあり、あの時初めて認識したふれられない何かに対して手を伸ばす、希求の様でもあった。
……あの足音との追いかけっこをした翌日から、男は暫く死体探しを控えざるを得なくなった。
(ーーあの足音がもしかしたら人間で、俺のしていたことを全て見ていた可能性がある。
殺人をしていたわけじゃ無いが、警察に言われたら面倒な事になる……。
もしかしたら、投獄されて長い間死体探しが出来なくなってしまうかも知れない……それはゴメンだ。
だったらほとぼりの醒める少しの間、大人しくしておこう)
男はそう考えた。しかし同時に先日自分をつけた足音の異様さを思い出し、不審と違和感を覚えるのだった。
(そもそも、あれは人間だったのか? 歩き方からは動物とは思えなかった……でも人間があんな正確に人の後を追う事ができるのか? あれはまるで追従する影みたいに俺を追って来た。それに行き止まりで起きた出来事……あれは到底人間技じゃない……)
そんな形で、オフィスの自分の席に座りながら考えの沼にハマる男に、この間の女が後ろから声を掛けている。猫撫で声の擦り寄った声で。
(じゃあ人間でも動物でもなければなんだ? ハッ、まさか幽霊でしたってか? そんなわけあるか。
死んだ後の意思や魂がこの世を彷徨うだなんて、ファンタジーの話しだ。
……死者は何も語らない。生者は何も悟れない。だから死体と俺はいつも切り離されている。だからこそ……)
すると見かねた女が、大きな声で男の名前を呼ぶ。
男が振り向くと女は、「やっとこっち向いてくれた〜」と、媚びる様な笑顔を浮かべた。
「全然反応してくれないんだもん。無視されてるのかと思っちゃった」
そう言って笑顔で見つめてくる女に
(ーー話しかけてくるな、売女)
と思わず口に出そうになった男だったが、それを飲み込み、気のない返事を女にした。
「すみません。考えごとをしていました。ちょっと色々忙しいもので」
そう言った男に、女は構わず話しかけてくる。
「え〜そうなんですか? 普段あんなにテキパキしてるのに、そんな日もあるんですね。あ! 私、何か手伝いましょうか?」
女に対し、男は尚も冷たく返す。
「結構ですよ。もう片付きそうなんで」
そう言って向き直ろうとした男に女は
「少しくらい手伝いますよ。これ、コピーとって来ます」
と言って、コピー機の前まで行ってしまった。
男は引き止める間もなく行ってしまった女になすすべもなく、かといって今日の仕事は全て終了してしまっている為、手持ち無沙汰で女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
……ちなみに客観的に言えば女の容姿は決して悪くはない。
艶のある肌とみずみずしい目元に適度にふくよかな身体。それを付属させるのに相応しいと思わせる女の無邪気な快活さは、これまで沢山の人を魅了して来た事を伺わせた。
それはもちろん男にもわかっていた。だからこそ、男はこの女を唾棄した。
女の内に潜む、溌剌とした生々しさを男は受けれようとはしなかった。自分はそれよりも美しいものを知っている、とでもいう様に……。
男はコピー機の目の前で作業する女の後ろ姿を、かつて自らが見た死体達に重ねて見た。
そうして男は、自身の手をそっと女のいる方向に差し伸ばすと、女の細く筋の浮いた首にロープを巻いた……想像をした。瞬間、男の意識はあの死体の森へと飛ぶ。
森閑とした空気の中ロープに吊らされゆらめく人型の姿が見えた。それは森の木々の間から漏れる僅かな光に照らされて、朧げに揺らめいている。
華奢な女の死体は、風にそよがれ振り子の様に揺れている。それに合わせて女のドス黒い体液がポタポタと垂れてくる。
男はそれらを見て
(ああ、これこそが俺の求めるものだ)
と、死体に触れ合いが為に伸ばした手を更に近づけようとした。
しかし、ここで男の耳にある物音が響いて来た。
ーーザッ、ザッ、ザッ。
と森の地面からノイズの様に鳴り響くのは……先日の足音だった。
「うわっ!」
思わず声を上げてしまった男だったが、そこにはもちろん森を踏み締める足音などなかった。我に返った男が見たのは、いつもの変わり映えのしない職場のオフィスだった。
「どうかしましたか?」
気がついたら、女がコピー機の前から戻って来ており、不思議そうに男の顔を覗き込んでいた。
(気のせいか……驚いた)
男はその場を誤魔化す様に女に
「あぁいや、会議資料を作らなければいけない事を忘れていたんです。ちょっと失礼します」
と言って資料室へ出て行った。
……会社の資料室は地下1階にある。
そこには社内の会計資料や在庫管理表をはじめ様々なものがファイリングされて、2メートルほどの大きな棚に敷き詰められ、それが図書館のように列ごとにズラッと並んでいる。
資料室に入るものは日頃は少なく、室内は埃っぽく薄暗い。天井をよくみると、切れかけた蛍光灯がチカ、チカ、と点滅している。
(どうにも疲れているな。少し時間でも潰していくか……)
もうここ数日分の仕事はとっくに進めてある。だから男はただ時間潰しの為、書棚の一つにあった10年ほど前の社内会報をペラペラとめくっていきながら、あの森で今まで出会って来た死体の事を思い出して感慨に耽っていた。
(あの女も、課長も。世の中の全てが死体の様に沈黙したらいいのに。そしたらずっと美しい。俺はそれに触れ続けられるのに)
男はページをめくっていく。意味のない情報の羅列が流れていく。
(ただ……こうして暫く死体から離れて見ると、一つ思う事がある。)
男はページをめくり続ける。情報の羅列は次第に白紙に混ざり、尚も流れていく。
(いつまで経っても、俺は死を理解しない。自分がなぜこんなにも惹かれているのか理解しない。まるで、死に拒絶されているみたいだ)
男はページをめくる手をピタッ、と止めた。その瞬間、男の胸の中に少しだけ寂しさが満たされた。
それを振り払う様に再度男はページをめくり始める。
(俺はなんとしても、死体に触れ続けなければならない。死者と対話する事が、俺に残された唯一の生きる理由だ。
これすら無くせば、俺はまた無機質で虚しい人生に戻ってしまう。だからもっと、もっとアイツらを理解しなければ……)
すると、男の後ろの書棚の方から何かが、カタッと音を立てるのが聞こえて来た。
(?……珍しいな。誰かいるのか?)
男は音を立てた主が気になり、会報を戸棚に戻し、自分が今までいた書棚の列を抜けて、後ろの列を覗き込んだ。
しかし、そこには誰もいなく、ただ沈黙を保ったままの書棚が立ち並んでいるだけだった。
男は不思議に思ったが、まぁ誰かと入れ違っただけだろう、と資料室の出口に向かおうとした。
しかし、それは男の耳に突如響いて来た……あの時森で男が追いかけられた足音だ。
ーーザッ……ザッ……ザッ……。
「ーーっ……?!」
男は思わず絶句した。一定感覚を保ちながら、決して姿を見せない足音。
それは今、資料室の出口から一番遠い書棚の奥から響いて来ており、徐々に男に迫ってくるように、音を近づけて来ていた。
それは音の質感から、空耳でない事が男にもわかった。
(どうして? 森にいたコイツがなんでこんな場所にいる? 何故俺の会社がわかった? どうして今ここに?)
様々な考えが男の脳裏に流れる間にも、足音はそれを意に介さず書棚から書棚へ移ってくる。
切れかけた蛍光灯がけたたましく明滅し、室内は少しだけ温度を冷やした。それなのに男は身体中にいやな汗をかいている。
張り詰めた室内の中、ついに足音は、男のいる出口の近く、その一つ手前の書棚の間まで来た。そこまで来てもそいつはまったく姿形が掴めない。
その次に鳴った足音聞くがいなや、男は脱兎の如く、資料室の出口を飛び出したのである。
……男は資料室を飛び出した勢いで、そのまま会社も飛び出し、白昼のオフィス街を喘ぐように走った。
足音は以前男を追いかけて来ている。走る男に追従するようにピッタリと。
ーーなんで、なんで? なんでなんだ!?
男は既に冷静な判断力を無くしかけていた。
何よりも恐ろしいのは、この開けた見通しのいいオフィス街に出ても尚、足音の正体が全く男の目には見えないという事だ。
午後の日差しが照り返すアスファルトの大通りにも道行くまばらなリーマンの中にも白いガードレールの向こう側にも決して追跡者の面影はない……!
男には、何よりもそれが恐ろしかった。
そしてこの足音は確実に自分に近づいて来ている。異様な雰囲気を纏いながら……次第に男に迫ってくるのが音でわかる。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ……。
ひたすらに男の頭の中、逃げる自分の足音と追う何かの足音が響いていた。
「なんだ!? お前なんなんだ一体!!」
男は気が狂いそうだった。それでも懸命に意識を保ちながら、必死で正体の見えない何かから逃げた。
……やがて日が暮れるまで走り続け、ようやく男の耳から足音は止んだ。
「……っはぁ! はぁ……! はぁ……はぁ……」
男は息を切らしながら辺りを見回した。気がつけばオフィス街から遠く離れた住宅街にある小さな公園に辿り着いていた。
辺りを確認し、追跡者がいない事に男は安堵すると同時に、こんなところまで来てもそれがなんなのかまるで見当もつかない事に戦慄した。
男は気を落ち着ける為に、公園にあったベンチに座った。そしてそこで思案した。
(今初めてわかった。あれは……俺の知らない尋常ではないものだ。そして、アイツはたぶん俺の死体探しの趣味に関係がある……。
なんで? 俺が何か恨みを買ったっていうのか? 俺はただ死体と対話していただけじゃないか……死と分かりあう為の静かで愛しい時間を過ごしていただけだ! それなのに、なんでこんな目に……)
男は大いに嘆いた。今自分の身に起きていることは、全く謂れのない不幸なのだと悲観し、それが涙となって両方の目から溢れ、男の白い陶器の様な頬を流れ落ちて行く。
しかし、この事柄はどうする事もできない。次はいつ来るかわからないが……当面は様子を見るしかない。そう思い、男はベンチから立ち上がり次第に茜色から漆黒に移り変わろうとしている公園を後にした。
男はなるべく足早にその場を去った。暗闇になればまたさっきの足音が、何処からともなく聞こえてくるのでは、と思ったのである。
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