5

 じりじりと水位を上げた海水が、佳帆のローファーを濡らす。


 ちょうどバックヤードツアーに行った次の週だった。放課後、ホームルームの最中に教頭先生が突然教室に来て佳帆の名前を呼んだ。嫌な予感がした。荷物も持たずに職員室へ行き、先生の話を聞く。


「妹さんが交通事故に遭ったって連絡が」


 その後の言葉は、正直、何も覚えていない。忘れたわけではなく、耳に届いていなかった。


 佳帆は気が付いたら教頭先生の車で病院へと向かっていた。


 全く知らない病院で、看護師が浮かべていた沈痛な表情や、無機質なクリーム色の廊下、あるいは見たことが無いたくさんの機械や医療器具といった情景を、断片的に覚えている。


 腰あたりまで海水に浸かった佳帆の体温が、冷たい水に奪われていく。

 

 病院に着いた時、璃央はもう息をしていなかった。


 あんなに明るくて快活だった母が、今まで聞いたことが無いほど絶叫して泣いていた。あんなに物静かで表情ひとつ変えない父が、声を押し殺して泣いていた。


 佳帆は、泣かなかった。泣くという行為を身体が忘れてしまったようだった。心に生まれたはずの悲しみや寂しさは、それよりもずっと大きすぎる現実に、すべて押しつぶされてしまった。自分を強く抱きしめ、泣き崩れる母の姿を目の当たりにした佳帆は、それ以上に悲しみを表現する方法を永遠に失ってしまった。

 

 スカートが、ブラウスが、海水を吸って重たくなっていく。

 佳帆の身体を、巨大な海が飲み込んでいく。


 孤独の中に沈んでいく佳帆は、璃央がいなくなった後のことも思い出していた。

 記憶はある。小学校も、中学校も、璃央がいなくなった世界は、それまでと変わらずに進むことを強いた。璃央がこの世界からいなくなったとしても、生活は変わらずに進んでいく。家はずっと悲しみに包まれたまま。それでも、父も母も仕事に行き、佳帆も学校へ行き、生活は進んでいく。


 そんな中でどうやって生きていけばいいのか、佳帆にはわからなかった。


 水族館なんて、ひとりっ子になってから全く行っていない。

 修学旅行なんて参加していない。

 学校にすら、たまにしか行けなくなった。


 ただ、佳帆の目の前には絶対に変えられない残酷な真実が横たわっている。

 璃央は、もういない。

 それならもう、元の世界に戻る意味なんて無い。


 佳帆の身体が暗い海の底へと沈んでいく。何も泳いでいない水の中、天井から煌々と照らしていた照明が明度を失い、あたりは暗闇に包まれていく。


 その時だった。


 不意に熱を感じて目を開けると、佳帆は自分の体を包む存在に気づいた。それは少女だった。薄暗く冷たい紺碧の海へと沈んでいく中、佳帆を抱きしめる少女の体だけが、確かに熱を持っていた。


 少女の顔を見て、佳帆の中で千切れていた記憶の糸が一本につながる。

 璃央。

 心の名で名前を呼ぶと、佳帆を抱きしめる力が強まる。

 お姉ちゃん。

 懐かしい呼び声。


「私、決めたんだ。将来は飼育員になるって」


 水族館の帰り道、璃央の言葉が脳裏に蘇る。

 佳帆は自分の返事もよく覚えていた。


「それなら私は研究員になる。そしたら一緒の水族館で働けるかな?」


 もうずっと前のことなのに、昨日のことのように思える。幸せそうな璃央の笑顔。


「約束ね!」


 次の瞬間、佳帆は呼吸ができないことを思い出した。呼吸をしなければ自分は死んでしまうことを思い出した。


 生きたいと思った。


 死んで璃央の所へ行きたいと思ったことは何度もあった。


 それでも、璃央と交わした約束を思い出した今この瞬間、体が生きていたいと叫んでいた。


 がっ、と水が肺に入る音と共に、意識を失う。

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