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 カフェレストランに戻ってからも、佳帆はここに迷いこむまでのことを必死に思い出そうとした。おそらく、修学旅行なんて来てない。それは確信に近い直感だった。けれども、それ以外の記憶を引き出そうとしても、何も出てこない。


 小学生のころ、水族館で璃央と遊んだ日々。その続きの記憶が、消しゴムで消されたように綺麗に失われている。


「夏海さんは、ここに来る前のこと覚えてる?」


 シーフードラーメンを食べながら佳帆が尋ねると、夏海は箸を止めて佳帆を見た。


「どこにでもいるような、ただの大学生だったよ」


 夏海はそう言って缶ビールを一口飲む。


「頭悪いから有名な大学じゃないけど。勉強もしてないし、サークルとか部活は入ってない。でも、アルバイトだけは頑張ってたな」

「アルバイト?」

「そ。水族館のカフェレストラン」


 すっかり闇夜に沈んだ窓の外を見つめながら、夏海は続けた。


「楽しかったんだ。スタッフもいい人だったし、それに、小さい子が水族館で元気にはしゃいでるのを見てると、こっちまで笑顔になれたし。電車で片道四十分かかるから通勤は大変だったけど」


 佳帆は黙って夏海の続きの言葉を待った。しばらくして、夏海はぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。


「佳帆ちゃんと似たようなもんだよ。休憩中、トイレに行って。戻ったら、誰もいなくなってた。水族館も知らない場所になってて、怖くてここに籠って。しばらくしてここでの気ままな生活にも慣れてきたころに、佳帆ちゃんが来た」


 そこまで言って、夏海は缶ビールをあおった。


「私は」


 佳帆は箸を置いて、俯いたまま言った。


「私は、修学旅行なんて来てなかったのかも」


 夏海は微かに眉を上げて佳帆を見た。


「何か、大事なことを忘れてる気がする」

「ここに来る前のこと?」


 佳帆がこくりと頷く。


「私には妹がいて。一緒に水族館に行って遊んだりしていたはずなのに、小学生までのことしか覚えてない。ここに来る直前のことも……」


 佳帆はもう一度、記憶を呼び起こそうとする。けれども、それはうまくいかない。誰かの名前を必死に思い出そうとしても、なかなか出てこない時の感覚に似ている。

 眉間に皺を寄せる佳帆を見た夏帆は、ふ、と笑みをこぼした。


「今日はもう休みなよ」


 夏海はラーメンの器を片づけて、それ以上は何も言わなかった。


 次の日、佳帆は四つめの大水槽へ向かった。


 最初に見つけた時と違って、大水槽は上から光に照らされ、きらきらと輝いていた。太陽の光が差し込んでいるかのように明るい水中で、ジンベエザメやイトマキエイが優雅に泳いでいる。


 輝く水槽を背に立っていた少女は、佳帆を見つけると優しく微笑んだ。


「待ってたよ」


 そう言って少女は大水槽の横へと歩いていく。そこには赤いパーティションロープが張ってあり、その向こうに壁とほぼ同化した扉があった。最初に来た時からそこに有ったのかもしれない。けれども、佳帆はその扉の存在に全く気づいていなかった。


 少女がロープを外し、扉を開けて中に入る。佳帆も駆け足でその後ろに続いた。


 扉の向こうは青い展示室と対照的に、無機質な灰色の壁に覆われた鉄製の上り階段があった。カンカンと軽快な音を立てながら階段をのぼる少女の背中を、佳帆は追いかける。


 階段の上にあったもうひとつの扉を開けると、水槽を上から覗き込める場所に出た。天井から吊るされた照明が水の中を照らしており、水面の上には金網状の足場が張られている。展示室の位置から考えて、それが大水槽の水面であることに佳帆はすぐ気が付いた。


「バックヤードだ」


 思わずつぶやいた佳帆を見て、笑った少女が手を差し伸べる。少女の手はとても冷たく、それなのになぜか、佳帆の心はあたたかい気持ちに満たされた。


 手をつないだ二人は水槽の上の足場を進んでいく。塩と生き物の臭いが混ざった、海が持つ独特の香りが足元から漂ってくる。


「璃央の誕生日に行ったの、水族館のバックヤードツアー」


 足元に迫る水面を見下ろしながら、佳帆は少女に話しかけた。


「こんな感じで大水槽の上を歩いて、飼育員さんがごはんをあげるのを見学したの」


 ちょうど水槽の中央あたりで、少女は足を止めて佳帆を見た。


「大きなジンベエザメが飼育員さんに寄ってくるのを見て、璃央が将来は飼育員になりたいって、目をきらきら輝かせてたな」


 璃央の瞳に夢が灯る瞬間を、佳帆は鮮明に覚えていた。


「すごくうれしかった。二人で過ごした時間が璃央の夢につながったような気がして、すごく幸せな気持ちがしたの」


 バックヤード全体に低く響く水とポンプの音が、少しずつ大きくなっていく。


「あれから、璃央は」


 誰に言うでもなく、佳帆がつぶやく。身体の力が抜けたように、佳帆は少女から手を離す。佳帆の頭の中で、記憶を覆い隠していた霧が薄くなっていく。同時に、足元の水が音を立てずに水位を上げ始める。


「璃央は」


 璃央。もう一度、その名前を呼ぶ。


 微かに脳裏によぎった警鐘を無視して、佳帆は記憶を引きずり出した。それはひらめきにも近かった。どうして今まで忘れていたのか、不思議でならなかった。


「璃央は、事故にあって」


 今、佳帆の脳裏には璃央との最後の記憶が鮮明に浮かんでいた。

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