3
翌日、佳帆はカフェレストランで目を覚ました。レストランの中をぐるりと見渡して、昨日と変わらず同じ場所にいることがわかると、悲しいような、それでもなぜか安心したような、不思議な気持ちに包まれた。
朝食のたまごサンドを頬張りながらスケッチブックを眺め、今日探索する場所を見極める。といっても、とくに基準は無い。少なくとも数十分で歩き回れる近場には出口が無いことを確認している。だから、片道一時間以上は離れていて、なおかつ気になるエリアを見に行くことにしていた。
その日は、昨日通った滝のエリアを見に行くことにした。そのエリアは通路が三方に別れていて、昨日はそのうち一つしか見に行けなかったからだ。
佳帆は夏海から渡された弁当箱と水筒、筆記用具をリュックに入れ、スケッチブックを片手に立ち上がる。
「いってらっしゃい、気を付けてね」
「いってきます」
夏海に見送られた佳帆はカフェレストランを後にし、再び水族館へと足を踏み出した。
滝のエリアには小一時間ほどで辿り着いた。そこは少し開けた広場のようになっていて、天井一面のガラス窓から差し込む外の光が展示室を明るく照らしている。正面には森の中にあるような大きな滝が再現されていて、そこから円形状の展示室をぐるりと囲うように背の低い水槽がいくつか置かれている。
「あれ」
佳帆は最初、そこに少女がいることに気づかなかった。
少女は広場の中央に設置された木製のベンチに腰かけ、佳帆を見つめていた。明るいところで見た髪の毛は栗色で、日の光を受けてつやつやと輝いている。着ているワンピースは白く、袖と裾からは骨ばった細い手足が覗いていた。
「りおちゃん」
近くまで歩み寄って佳帆が声をかける。佳帆を見つけた少女は、ぴょんと立ち上がって嬉しそうに佳帆に抱きついた。
「やっと来た」
昨日と同じように少女は言う。抱きしめられたまま困惑した佳帆は数秒ほど悩んだ後、作り笑いをしながら言った。
「ここで何してたの?」
そう言うと、少女は佳帆の顔を見た。少女の背丈は佳帆より少し低く、顔も佳帆よりわずかに幼いように見える。
「待っていたの」
少女はまた、昨日と同じことを言って微笑む。
「誰を?」と聞こうとして、佳帆はこの世界で少女を待たせている人間は自分しかいないことに気づく。返事に詰まった佳帆は少女を無視して先に進もうと足を動かしかけたが、寸前で思い直して少女に声をかけた。
「今からこのあたりを探索するけど、一緒に来る?」
佳帆が尋ねると、ぱっと目を輝かせた少女は元気よく頷いた。
滝の左手にある通路へ向かって佳帆が歩き出すと、少女は軽い足取りでその後ろに着いて行く。
最初の通路を抜けた先は、ショーのステージだった。円形の水槽を囲うように座席が扇状に設置されており、開けた景色の向こうには相変わらず無限の海と曇り空が広がっている。吹き抜ける風の潮っぽい香りが鼻をくすぐった。
水中には小柄で灰色のイルカが二匹、円を描いて悠々と泳いでいるのが見える。
「バンドウイルカだ」
声をあげた佳帆は、座席の間の階段を駆け下りた。後ろから少女が慌てて佳帆を追いかける。透明になっている水槽の前面に、佳帆は両手と顔を張りつけて、水中を通り過ぎていくイルカを熱心に眺めた。しばらくして、横からじっと眺める少女の視線に気づいた佳帆は、軽く咳ばらいをした。
「イルカ、好き?」
少女が尋ねる。
「うん」
少女が水槽に目を向けたのを見て、佳帆も水槽に目を向けて言葉を紡いだ。
「はじめて見たイルカショーが、バンドウイルカのショーだったの」
少女は水槽を見つめたまま何も言わない。佳帆はひとりごとだと思いながら話を続けた。
「幼稚園の頃だから、もうほとんど覚えてないけど。璃央と二人で一番前の席に座って、イルカがきれいに飛んだり、トレーナーさんと一緒に泳いだりしてるのを見てた」
最前列の椅子に座った佳帆は、スケッチブックに「ステージ3、バンドウイルカ」と書き込んだ。少女も佳帆の隣に座る。
「水族館、よく来てたの?」
「うん。ショーを見てから、私たちがいつも水族館に行きたいって言うようになったから。家の近くだけじゃなくて、お父さんの車で遠出して、泊りがけで行ったりもしたなあ」
「他のところには遊びに行かなかったの?」
少女の質問に、佳帆は首を横に振った。
「水族館が一番楽しかったから。遊園地とか公園とか、友達の家で遊ぶより、水族館で生き物を見るのが好きだった。私も、璃央も」
佳帆は立ち上がり、水槽のガラスにもう一度手をついて、その向こうを泳ぐバンドウイルカを見つめた。そのうち、一匹のイルカが泳ぎを止めて、興味深そうに鼻先を佳帆の手のひらに向ける。
「可愛い」
そう言う佳帆を、少女は不思議そうな眼差しで見つめた。
「バンドウイルカってすごく人懐っこいんだよ。好奇心旺盛で遊び好き。海にいる野生の子でも、船の近くに寄ってきてジャンプしてくれたりするんだって」
「詳しいんだね」
少女の褒め言葉に佳帆は目を伏せた。
「何度も水族館に行くうちに、なんとなく人気のお魚とか、よく見る海の生き物を覚えて、図鑑で調べたりするようになったの」
佳帆は水槽から離れて、ステージのまわりを見渡した。座席の上方には今入ってきた通路の他に、二つの通路が見えた。そのうち一つを指差して佳帆が言う。
「次はあっちに行ってみる」
その言葉に、少女は小さく頷く。
次の通路を抜けた先は、クラゲの展示室だった。ほとんど暗闇に近い部屋の中、カラフルに照らされた円筒状の水槽が六つほど、ぼんやりと浮かんでいる。傘の真ん中に四葉の模様があるのはミズクラゲ。他にも赤く細い触手を持つアカクラゲや、小さなタコクラゲなど、いろいろな種類のクラゲが展示されている。
佳帆が入ってきた通路以外に続く道は無かった。佳帆は水槽からの微かな照明を頼りに地図にバツ印を付け、一通り目に付く特徴を書き込んでいく。
「クラゲ、好き?」
水槽に手を触れながら、少女が聞く。
「私はあんまり。でも、璃央は好きだったよ」
佳帆も少女と同じように円筒状の水槽に手を触れると、ひんやりとした感触が手のひらに伝わった。
「璃央さ、クラゲの水槽の横で写真撮りたがるの。でもね、大体ここみたいに薄暗いから、顔が全然映らなくて。上手に撮ってよ、っていっつも怒られてたっけ」
佳帆が笑いながら言うと、少女もつられて笑った。
佳帆はソファベンチに座り、暗闇に浮かぶ鮮やかなクラゲの姿をぼんやりと眺めた。少女も佳帆の隣に腰かける。
「クラゲの展示室に来ると、いつもずっと居座ってた気がする。水族館を回るのに疲れたら、こうやって座って、隣に璃央が座って。水槽をぼーっと眺めたり、二人でくだらないこと喋ったりして」
璃央、今頃どうしてるかな。ふと、外の世界に思いを馳せる。
水族館が大好きで、いつも私の説明を楽しそうに聞いてくれて。誰にも話せないことも、璃央なら話すことができて。ずっとそばにいてくれて。
かけがえのない、世界に一人だけの大切な妹。
璃央は、今、何をしてる?
そう考えた瞬間、佳帆は奇妙な違和感を覚えた。
「り、お」
無意識に言葉をもらした佳帆を、少女はじっと見つめた。
思い出せない。
さっきまで話していたことは、全部、小学生の頃の記憶だった。
いま、佳帆が着ている制服は中学のもの。
それなら、中学生になった璃央は?
佳帆は璃央のいまの姿を思い出そうと頭の中を探し回った。長い沈黙の後、ようやく、佳帆は璃央の記憶を失っていることを認めた。
璃央の記憶だけじゃない。修学旅行に来ていたにしても、誰と来ていたのか、どこから来てどこに泊まって、次はどこに行く予定だったのか、全く思い出せない。
本当に修学旅行に来ていたのか?
自分の記憶を疑い始めて明らかに動揺する佳帆を、少女はただ静かに見つめている。
「そろそろ戻るね」
スケッチブックをたたみ、立ち上がった佳帆の袖を少女が掴んだ。
「お姉ちゃん」
その声を聞いた瞬間、佳帆の心に何かが引っかかった。
昨日初めて会ったばかりの少女。それなのに、どこか懐かしくて、暖かい呼び声。
璃央とそっくりだと思った。こんなに成長した璃央の姿なんて、まったく記憶にないのに。
「待ってるから」
佳帆は無言で、少女の丸い瞳を覗いた。少女もまた、佳帆を見つめていた。
佳帆の袖からするりと少女の手が離れる。佳帆は何も言わないまま、二、三歩あとずさり、それから振り返らずに展示室を飛び出した。
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