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ここまで数時間かけて歩いてきた道のりを、佳帆は逆向きに辿っていった。地図を見なくても大まかなルートは覚えている。タカアシガニの水槽を左に曲がり、カクレクマノミの水槽の横を抜けると、大きな滝を模したエリアに出る。その脇の通路を抜けてオオサンショウウオが沈む水槽の前を通り、アロワナがじっと漂う水槽を横目に右へ曲がる。
探索の拠点にしているレストランへ近づくにつれて、徐々に見覚えのある景色が増えてくる。
最後の通路を抜けドアを開けると、潮っぽい香りの海風が佳帆の髪をかき上げた。海が見えるテラスエリアの木の床は、歩くとこつこつと軽い音がする。空模様は出発した時と同じで、どんよりと重い鼠色の雲に覆われている。
佳帆はテラスエリアの端にあるカフェレストランへと向かった。入口のドアを開けると、レジカウンターに座って本を読んでいた女性が顔を上げ、笑顔を見せる。
「おかえり、佳帆ちゃん」
「ただいま」
佳帆は女性と目を合わせないまま、海が見える窓際のテーブルに座った。すぐに水が入ったグラスが佳帆の前に置かれる。佳帆はリュックから取り出した弁当箱と水筒を女性に手渡した。
「今日は海鮮餃子でいい? 美味しそうなやつ見つけてさ、冷凍だけど」
海鮮好きな佳帆はうつむいたまま小さく頷いた。女性が裏手のキッチンに消えてしばらくすると、にんにくの香りがあたりに広がり始める。佳帆はお腹をさすりながら、スケッチブックをテーブルの上に広げ、今日歩いた場所を順番に見直していった。ところどころ暗いエリアで走り書きして読み取れない生物の名前を、消しゴムで消しては綺麗に書き直していく。
「今日はどうだったの」
餃子が盛り付けられた大皿をテーブルに置きながら女性が尋ねる。大ぶりの餃子から漂うにんにくとニラの香りが佳帆の鼻をくすぐった。
「大水槽、見つけた」
「すごい。四つめじゃん」
「うん」
佳帆はスケッチブックをリュックの中にしまい、女性から取り皿と割り箸を受け取る。何気なく、パキッ、と割った箸が綺麗に分かれたのを見て、佳帆はわずかに口角を上げた。女性はエプロンを外し、缶ビールを片手に佳帆の向かいに座る。
「いただきます」
「めしあがれ」
二人はしばらく無言で餃子を頬張った。餃子の餡には小ぶりのエビやイカが入っていて、佳帆はその触感と味を楽しんで、つかの間の幸せを感じていた。女性はほぼ一気飲みした缶ビールの空き缶を潰し、二本目のフタを開ける。
「あとね」
三つ目の餃子を小皿に移したところで、佳帆は声をあげた。
わずかなためらいの後、佳帆は意を決して言葉を続ける。
「女の子がいた、大水槽のとこに」
その言葉に、女性は箸を止めて目を見開いた。
「マジで?」
「うん」
「佳帆ちゃんと同じように迷い込んだ子?」
「たぶん違う。なんか不思議な子だった。私のことを待ってたって」
「でも、はじめてだよね。私以外の人に会うの」
「
夏海と呼ばれた女性は首を横に振った。
「ない。まさかここで誰かに会うなんて思ってなかったし、佳帆ちゃんが来た時もめちゃくちゃ驚いたし」
「だよね。あの子、ずっとこの世界にいたのかな」
「どうだろう」
佳帆は視線をあげて、ちらりと夏海の顔を見た。
「夏海さんも、私が来る前からずっとここにいたんだよね」
夏海は暗くなっていく海を窓越しに眺めながら、缶ビールを一口こくりと飲む。
「ここに迷い込んでから、もうどれくらい経ったのかもわかんないや」
「どうして出口を探さないの?」
「それは佳帆ちゃんが代わりに探してくれるから」
佳帆が頬を膨らませると、ごめんごめんと夏海は笑った。
「居心地が良いから、かな。誰にも何も邪魔されないし、飲み物と食べ物もなぜか補充されるから困らないし、こうやって屋根があって寝る場所もあるしね」
夏海の言うことはもっともらしいが、佳帆にはそれが真意なのかどうかわからなかった。
「でも、佳帆ちゃんは元の世界に戻らないとね。いろんな人が待ってるだろうから」
佳帆は夏海の言葉に返事をせず、三つ目の餃子を一口で頬張る。
夕飯を食べ終わり、空になった大皿を持ち上げながら夏海が言う。
「佳帆ちゃん、ようやくマトモに喋ってくれるようになったね」
そう言われた瞬間、佳帆は顔をかっと熱くなるのを感じて、とっさに俯いた。喋りすぎた、鬱陶しかったのかもしれない。そんな考えが佳帆の脳裏をよぎる。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの。嬉しいよ、いろいろ話せて」
大げさに笑った夏海はキッチンへ食器を下げたあとにテーブルをふきんで拭いた。
夕食を終えたあと、二人はいつも読書に没頭していた。佳帆が読んでいるのは、水族館のスーベニアショップに置いてあったイルカの生態に関する本だった。店員のいないスーベニアショップでは、佳帆が使う鉛筆やスケッチブック、あるいは歯ブラシや石鹸といった日用品までそろえることができた。
そのうち、佳帆は眠気を感じ始め、文字を読む速度が遅くなり、小さなあくびをこぼし始める。
「そろそろ寝る?」
夏海が聞くと、佳帆は目をこすりながら頷いた。キッチンで歯を磨き、カウンターに置いてあるブランケットを手にソファに寝転がる。
おやすみ、という夏海の声のあと、レストランの照明が落とされる。
(もし明日、自分の部屋で目覚めたら)
毎日この暗闇で目を瞑るたびに、佳帆は考えていた。
(またここに戻ってきたいって、思うのかな)
そんな考えは二、三度寝返りをうつあいだにまどろみにかき消されていき、すぐに眠りへと落ちていく。
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