四つめの大水槽

ななゆき

1

 佳帆かほが見つけた四つめの大水槽は夜空の色をしていた。照明はとても弱く、大小さまざまな魚が薄暗い水中を悠々と行き来している。それは濃紺に染まる展示室の一面に、本物の海中を切り取って映し出しているようだった。


 さながら海底にも思われる展示室に足を踏み入れた佳帆は、思わず息苦しさを覚える。ほとんど無音に近い展示室の中、佳帆のローファーの足音だけがコツコツと響く。


 佳帆はすぐ、水槽の前に一人の少女が立っていることに気づいた。少女は水槽に両手を当て、じっと水の中を見つめている。腰まである髪は黒く、ワンピースは水槽の色を映した紺碧色に染まっていた。


「あの」


 佳帆が恐る恐る声をかけると、少女はゆっくりと振り向いた。


「あなたもここに閉じ込められているの?」


 少女のまっすぐな眼差しに、佳帆は少したじろぐ。


「水族館から出られないの?」


 もう一度確かめるように聞き直す。けれども、少女はなぜか微笑んで、まるで佳帆の言葉を無視するかのように言った。


「やっと来てくれたね」


 少女は佳帆のもとへ歩み寄ると、佳帆のセーラー服に優しく触れた。


「制服、可愛い」


 少女の声を聞いた佳帆が視線を落とす。この暗い展示室では、佳帆の制服はほとんど真っ青にしか見えない。見知らぬ少女の言葉に困惑を隠せない様子の佳帆が、あらためて質問する。


「あなたはどこから来たの? どうしてここに?」


 少女はにこにこと嬉しそうに笑ったまま、答える。


「待っていたんだよ」


 その言葉を最後に、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。


 少なくとも、この子は自分と同じ境遇ではなさそうだ。そう理解した佳帆は、いったんコミュニケーションを断念することにした。水槽前のソファベンチに腰を下ろし、リュックから取り出した水筒を飲み、ふう、と小さく息を吐く。そしてスケッチブックを広げ、手書きの地図に新しい通路を書き足し、その先端に大きな丸を書いて「大水槽4、かなり大きい、とても暗い」と書き込んだ。


 それから佳帆は、大水槽をじっと睨む。


 何が泳いでいるだろう。大きな影は、シルエットからしてジンベエザメに違いない。イトマキエイもすぐにわかる。小さい魚は難しい。タイに見える魚が群れを成しているが正確な種類まではわからない。水槽の底近くには小さめのサメも何匹か泳いでいるように見える。

 佳帆はひとまず、ジンベエザメ、イトマキエイ、シロザメ、と地図に書き込んだ。


「これはなに?」


 いつの間にか隣に座っていた少女に突然声をかけられ、佳帆は少しのけぞった。地図から顔を上げた少女と佳帆の視線が交わる。


「地図。この水族館の」


 少女は地図と佳帆の瞳を交互に見た。


「こうやって、通路と見つけた水槽と、そこにいた魚を書いているの」

「どうして地図を書くの?」

「迷子になっちゃうから。この水族館、無限に続いているみたいだし」


 その言葉を聞いた少女は、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。しばらくじっと見つめあったあと、少女がふと慈悲に満ちた微笑みを見せる。つられた佳帆も不器用に口角を上げた。


「え、っと。私はたちばな佳帆。あなたは?」


 佳帆が聞くと、少女は小さな口を動かして答える。


「りお」

「りおちゃん? へえ、私の妹も璃央りおって言うの」


 わずかな親近感を覚えた佳帆の言葉に対して、少女も幸せそうに笑った。


「何か探してるの?」


 座ったまま足をぱたぱたと振りながら少女が尋ねる。


「この水族館の出口。りおちゃん、知らない?」


 じっと佳帆の瞳を見つめたまま、少女は頷きも首を振りもしなかった。


「修学旅行で水族館に来てたんだけど、気づいたら一人になって、誰もいなくなってて」


 佳帆がそう説明しても、聞いているのかいないのか、少女は「ふーん」とだけ呟いて、水槽に目を向けた。さすがに知らないか、と心の中で小さくため息をついた佳帆は、スケッチブックを閉じて立ち上がった。


「そろそろレストランに戻らないと」

「レストラン?」

「うん。ごはんが食べられる場所。一緒に来る?」


 少女はベンチに座ったまま、小さく首を振った。


「じゃあ……またね」


 佳帆が手を振ると、少女もそっと手を振り返す。その表情には、微かに寂しさが滲んでいた。わずかに後ろ髪が引かれる思いを抱きながらも、佳帆は歩いてきた通路へと足を向けた。

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