37 夏に向かって吹く風
「ねえ」アリアはテーブルの上に肘をついて言う。「まだかかりそうなの?」
「そうは言われてもな……」
ゴールは全身を隠すように外套をまといながら、春の終わりの強い日差しの下で、額の汗を拭った。船に運び込まれた木箱は船倉の半分ほどを埋めているが、陸地にはまだ同じくらいの量の木箱が残っている。荷物の積み込み作業は、ようやく半ばに差し掛かったというところだ。
アリアが街を出る手段として選んだのは船だった。北の港は交易が盛んで船の出入りも激しく、検問も敷かれていることから、東海岸から出る輸送船に乗せてもらうようアリアが頼み込んだらしかった。その際、タダで乗せるわけにはいかないとして、荷物の積み込みを手伝うという条件を提示された。そしてその役割が、ゴールにまわってきたというわけだった。当然ゴールは頼みを断れる立場にないため、こうして姿を隠しながら老体に鞭を打って、屈強な船乗りの男とともに木箱をせっせと船に積み込むほか選択肢がなかった。
「いやあ、悪いな」と五十代くらいの船乗りが木箱の向こうで笑った。「しかし暑くないのかい、あんた。そんな格好で」
「いや……その……」
ゴールがもごもごと言うと、アリアが割って入ってきた。
「すみません、彼、吸血鬼病で」
「吸血鬼病?」五十路の船乗りは怪訝な顔をした。
「ええ。めずらしい病で、日光を浴びると肌が爛れて、終いには焼け焦げてしまうんです。なので外套が手放せなくて。それに、病気と言っても感染したりはしないので、あまり気にしないでください。現にわたしは長いこと彼といますが、この通りだいじょうぶですから」
「そうか。大変だな」
「大変ですけど、いいこともありますよ。副症状として、力が強まるんです。腕力に、脚力に、膂力。こういう時には重宝します」
アリアが適当なことを言っているあいだも、ゴールは木箱を持ち上げ丁寧に船へ運んだ。途中、ちらりと横目でアリアの膝元を見ると、小さく寝息を立てているヒノエの姿が見えた。時間になっても起きなかったので背負って連れてきたが、その間も目を醒まさず、まだ眠っているその姿を見ると、不思議と力が湧いた。
「へえ。じゃあ、腕には自信があるのか」と五十路の船乗りは言った。
「そうですね」とアリアは言う。「わたしの騎士みたいなものです」
「暇があれば、ぜひ腕相撲で戦ってみたいもんだ」
「腕相撲、ですか?」
「ああ。いろんなやつと腕相撲するのが趣味でな。俺は東海岸じゃあいちばん腕相撲が強いんだよ」
「へえ。負けたことはないんですか?」
「いや……お嬢さんは、この街の人か?」
「いえ、違いますけど……なんですか、突然」
「ああ、すまない。この街じゃあちょっとした名物騎士に、一度だけ負けたことがあってな……お嬢さんは、知らないだろうが」
「名物騎士というのは、どんな?」
「知ってるかな。ゴールっていう騎士なんだが、こいつがまた生意気なやつでな……いや、悪いやつではないはずなんだが、どうもなにかやらかして捕まって、そのうえ脱獄までしたらしくてな。ほんと馬鹿みたいなやつで……そんなやつに負けちまったんだよ、情けねえ」
「……へえ」
「……どうしたんだい。急にそんな、ニヤニヤして」
「いえ、なんでも……あなたこそ、嬉しそうですね」
「……そんなこたあねえ」
ふんっと鼻を鳴らして、五十路の船乗りは木箱の積み込みに戻った。
「アリアさま……?」
アリアが目を落とすと、薄目を開けたヒノエが重い頭を持ち上げようとしているところだった。
「おはよう、ヒノエ」アリアはヒノエの額に手を置いて言った。
「はい……おはようございます。ここは……?」
「東海岸の港、輸送船の上。もうすぐ出港よ」
「わたし……どうやってここまで」
「ゴールが背負ってきてくれた。わたしが連れて行くって言ったのに、聞かなくてね」
「そう、ですか」
「あら。嬉しそうね、ヒノエ」
「はい……嬉しい、です。アリアさま……もう少しだけ、このままでもいいですか……?」
「うん……眠かったら、まだ寝ててもいいからね」
荷物の積み込みは午前中に終わり、まもなく錨が上げられ船は出港した。ゴールは船尾の
「ゴール」と背後で声がした。
振り返ると、少し離れたところに浮かない顔をしたヒノエが立っていた。
「どうした、ヒノエ。そんな浮かない顔をして」
「ゴールこそ、ひどい顔ですよ。寝たほうがいいんじゃないですか」
「そうかもな……もう少ししたら、そうしよう。まだ、街が見えるのだ……」
「……わたしも、隣で見てもいいですか?」
「ああ、構わないが……」
ヒノエは駆け足でゴールの隣まで行き、遠ざかるシエリの街に目をやった。
「なかにいる時はあんなに大きく感じたのに、もうずいぶんと小さく見えますね」
「そう、だな……」
「ゴールは、船に乗るのは初めてですか?」
「いや、初めてではない。ただ……今回は、これまでとは違う。もう、帰れないのだ。私があの地を踏むことは、もう永遠にない。そう思うと、寂しいものだ……想像以上に堪える」
「……ちゃんと寝たほうがいいですよ。おじいさんなんですから」
「はは……そうだな。きみの言う通りだ……」
「ゴール」とヒノエは言う。「わたし達が、付いてますから……悲しいことがあったら……困ったことがあったら、ちゃんと言ってくださいね」
「ああ」ゴールは弱々しく笑った。「まさか、きみに励まされるとはな」
「……解決できるかどうかは、分かりませんけど」
「それでもいいんだ。いっしょに悩める人がいるのは、幸せなことだ。それさえあれば、きっと私たちは、また自分自身に戻ってこられる」
「はい。きっと、そうです……」
「……しかしこの船は、いったいどこへ向かっているのだろうな」
「さあ……アリアさまか、船員の方に訊いてみましょうか?」
「そうだな……アリアに訊いてみるとしよう。アリアは、どこにいる?」
「多分、船首のほうにいるかと。さっきまでいっしょにいたので」
「……アリアから、なにか話はあったか?」
「いえ、まだなにも……」
「そうか」とゴールは言い、振り返って船首のほうへ歩き始めた。
「まだ街は見えますよ。もういいんですか?」ヒノエが隣を歩きながら言う。
「ああ。後ろを向くのはもうおしまいだ。ちゃんと前を向かないとな」
高くにある日からほとんど垂直に降り注ぐ光を浴びながら、ゴールとヒノエは船首のほうへ向かって並んで歩いた。船員が丸いテーブルで腕相撲しているのを懐かしむように横目で眺めながら通り過ぎ、波に揺られる船体を足の裏で感じながら進むと、やがてひとり甲板に佇むアリアの後ろ姿が見えた。
アリアも先程までのゴールと同じように、海の向こうを眺めていた。きっと、ヒノエに話を切り出すタイミングや、どのように話し始めるのかを考えているのだろうとゴールは推察した。
ふたり並んで近づいていく途中で、アリアは振り返った。栗色の長い髪が、幕がひらくように靡いた。
「ヒノエ、ゴール」
アリアはぽつりと言った。その目には、迷いと覚悟の入り混じった光があった。それを見たゴールはすべてを察し、アリアと目を合わせ、黙って頷いた。
手を伸ばせば届きそうな距離まで三人が近づいたところで、アリアは言った。
「ヒノエ……その、わたし……あなたに、言わなければならないことが、あって……」
顔を赤くしてぎこちない喋りをするアリアに驚き、ヒノエは思わずゴールに視線で助けを求めた。ゴールはただヒノエと目を合わせ、アリアにそうしたように黙って頷く。
「わ、わたしも!」とヒノエが言う。思ったよりも大きな声が出たことに頬を赤らめ、声を落としてから続ける。「わたしも……アリアさまに、ずっと言えなかったことが、あります……」
ヒノエの告白を受けて、アリアはまたゴールのほうを見た。
ゴールはふたりに微笑みかけて言った。「さあ、どちらから話す?」
きっと、だいじょうぶだ。ゴールはそう思ったが、口には出さなかった。
ふたりは自分の足で歩き、お互いに歩み寄ろうとしている。そこに挟む言葉など持ち合わせていない。ここにあるのはふたりの問題で、そこに見えているのは、ふたりで乗り越えられる壁だ。ゴールにできることは、いずれ訪れるその瞬間まで、ただ成り行きを見守ることだけだった。
三人のあいだを、夏に向かって吹く風が通り抜けた。
もうすぐ春が終わる。夏になれば、アリアとヒノエの関係は、きっとまた少し変化する。それが良い方向に変わるのか、悪い方向に変わるのかは、いまはまだ分からない。もしかすると、お互いの過去のことをうまく咀嚼するのに、時間を要するかもしれない。それでも構わない。時間は、たっぷりあるのだから。
ゴールは船の進むほうへ細めた目を向ける。春の柔らかい光がうねる海面に反射して、世界は輝いて見えた。遥か彼方には、果てしなく広がる水平線が横たわっている。
三人の進む航路の先に、新しい陸地は、まだ見えない。
第一幕 了
老騎士と望まれなかった命たち 黄猫 @kinekogame
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