36 歌、約束、夜明け

 ヒノエはリヒナーのいた地下牢からとび出し、袖で涙を拭いながら真夜中の町を駆けた。どれだけ逃げるように走っても、夜の闇は追いかけてくるように身体にまとわりついてきた。


 リヒナーをうまく説得できなかったという後悔が胸を占めていた。檻から出してあげる気はないと言ったものの、気持ちがちゃんと伝わればいっしょにやり直せる道だってあったはずだ。でも、そうはならなかった。自分は変われたのだと思っていたが、結局はままならないことばかりだった。心の進む方向は変わっても、心根まではついてこない。理想と現実の乖離が、また新しい壁としてヒノエの前に立ち現れた。


 精一杯やったつもりだったけれど、だめだった。それはひとえに、自分に能力がなかったからだ。思考をうまく言語化できたと思った。でも伝え方や相手の気持ちをおもんぱかる力が及ばなかった。


 どうすればよかったんだろう。足を回しながら考えたが、ヒノエのなかに答えはなかった。


 一時間ほど走ったり歩いたりを繰り返して、穴の空いた家まで戻ってきた。もはや見慣れたその姿も明日で見納めなのかと思うと、なんだか愛おしく思えた。壊れた戸をくぐり、朝が迫る深夜の暗闇が染みた屋内に、時間をかけて目を慣らそうと立ち止まる。階段の方から人の気配を感じた。目を向けると、数段上がったところに腰掛ける人影が見えた。


「こんな時間まで、どこに行ってたんだ、ヒノエ」


 ゴールの声だった。ヒノエは俯きながら階段の方まで歩き、ゴールの前に腰を下ろした。


「ゴールこそ……アリアさまと、海岸でなんの話をしてたんですか」

「なんだ、知っていたのか?」

「聞こえてましたよ。わたし、耳がいいので」

「そうか……」

「……やっぱり、わたしには言えませんか?」

「そうだな……私の口からは言えない」

「そう、ですか……」


「でも、明日……」ゴールは言う。「アリアから直接、きみに話がある」


 ヒノエは顔を上げて振り返り、ゴールの目を仰ぎ見た。夜の紗幕しゃまくの向こうに、真実味を帯びた淡い光が浮かんでいる。そのことから、ゴールが嘘や冗談を言っているわけではないことが理解できた。


「私から言えることは、それだけだ。これは、きみとアリアの問題だからな。ほんとうは私の出る幕ではないのだ」

「だったら、どうしてゴールにだけ……」

「……アリアにとってこれは、それほど大きな問題なのだ。だからこそきみに話す前に、私に確認しておきたかったのだろう。どうか、分かってあげてほしい。アリアも長いあいだ悩んでいたようだからな」

「……そう、なんですか」


「ああ……だから、ヒノエ」ゴールは言い、ヒノエの頭に手を置いた。「私からのお願いだ。どうか、アリアの傍にいてあげてくれ。できる限り長く、アリアといっしょに生きてほしいのだ」


「……当たり前じゃないですか、そんなこと……言われなくても、そうします……」

「……そうだな。こんなこと、言うまでもないことだったな」

「いったい、アリアさまは、なにを……」

「……なにも心配はいらない。明日には全部話してくれる。私にそう約束してくれた。我々は、信じて待っていればいい」

「……アリアさまは、眠っているんですか?」

「ああ。明日は早いみたいだからな」

「じゃあ、ゴールも早く寝た方がいいんじゃないですか?」

「きみもな。まったく……こんな時間まで、どこでなにをしていた?」


「わたしは……」ヒノエは顔を伏せて言う。「……リヒナーに、会ってきました」


「リヒナーに?」ゴールは驚いたように少し声を大きくしたが、それに気づいてまた声を落として言った。「彼はいま、どこにいる?」


「東海岸近くの地下牢です。おそらく、ゴールが幽閉されていたのと同じ場所かと」

「そうか……しくじったのだな、彼は」

「はい……捕まった時、騎士に両足首を斬られたらしく、もう歩くこともままならない状態でした」

「……彼は、なにか言っていたか?」

「いろいろと話しましたよ……彼がいつ、なぜ盗みを始めたのか……どうして『月の泪』を盗もうとしたのか……それと、お互いの過去のことについて」

「……それは、きみの過去のことについて、彼に話したということか?」

「はい」

「私とアリアには、正直に話せないか?」

「……なんですか、それ。まるで、わたしが嘘を吐いているみたいな……」

「嘘を吐いているとまでは言わないが、なにか隠しているだろう、ヒノエ」

「そう、ですね……その通りです」

「……やっぱり、話せないか?」

「まだ……もう少し、時間と、勇気がいります……言わなければならないと、分かってはいるんです……ゴールともアリアさまとも、そうすることで深く繋がれるような気がするんです。でもそれは……わたしの過去の話は、わたしの鏡像の本質と深く関わる話なのです。もしかすると、ふたりがわたしに失望するかもしれない……それが、怖いのです……」

「……似た者同士だな、アリアも、ヒノエも」

「わたしが……アリアさまと?」

「ああ……たとえば、アリアが目を背けたくなるような過去を抱えていたとして、もしきみがそれを知った時、どうするだろうか」

「そんなの……関係ありません。たとえどんな過去を抱えていてもわたしは、アリアさまといっしょにいたい……」


「だろう?」とゴールは言って笑った。「きっとアリアもそう言う。やっぱりきみ達は、似た者同士だ」


「ゴールは、どうなんですか。自分の過去のこと、話せますか?」

「私は話しただろう。漁師たちとの腕相撲のことに、騎士になったばかりの頃の大食い大会のことだって……」

「そうじゃなくて、もっともっとむかしの、子どもの頃の話……ゴールは、どんな子どもでしたか」


 ヒノエはふたたび振り返って、ゴールの方を見た。


「そうだな……」ゴールは言う。「私は、褒められるような子どもではなかった。物心がつく前に父が死んでしまい、母は女手ひとつで私のことを育ててくれたというのに、私は悪さばかりしていた。毎日のように他所の家にいたずらをしたり、友人と殴り合いの喧嘩をしたり……とにかく悪い意味では話題に事欠かない、ろくでもない子どもだった。そんな私も、ある日を境に心を入れ替えた。それですべてが許されるというわけでもないがな……だいたい、十歳の頃の話だ。私は出来心で、露店で果物を盗んだ。確かに生活は苦しく、私は餓えていたが、これは許されざることだ。逃げようとした私は、すぐ店主にひっ捕らえられて、母に引き渡された。子どものいたずらということで、許してもらえたのだ。いま思えば、彼は寛容な店主だった。しかし、母はこっぴどく私を叱った。その時、私は初めて母が泣いているのを見た」


「……お母さんは、どうして泣いていたんですか?」


「……私が盗みをしたことが、悲しかったのだ。手をかけて育ててきた一人息子が、ろくでなしになった責任が自分にあるのだと、母は悔いているようだった。何度も謝ったのだが、その日のうちは、母は口を聞いてくれなかった……私は母のことが好きだった。素直にそう言ったことはないが、決して嫌いなんかではなかった。だから私も、悲しかった。とんでもないことをしたと思った。しかし夜になって眠りにつく頃に、母は私のところにやってきて、歌を歌ってくれた。もう子守唄という歳でもないのに……でも、それが嬉しかった。それで思い出したのだ。私は母の歌が好きだった。数えるほどしか聞いたことはないが、私はそれが、好きだった……その日から私は、母を悲しませないような人間になろうと決めた。だから、騎士をこころざした」


 ヒノエがゴールの目を見つめると、ゴールは人差し指で頬をかいて微笑んだ。


「恥ずかしい話だな……私は、自分の正義のために騎士になったわけではないのだ。最初は、そうだった……でももう母はいない。ちょうど私がいまのヒノエと同い年くらいの時に、母は病床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。いまでもたまに、夢に見る……子どもの私に、母が子守唄を歌ってくれる夢を……思えば私の人生の岐路には、いつも歌がある。初めて好きになった女性も、歌を生業にしている人だった。まあ、仲良くなった後、こっぴどく振られたのだが……とにかく私には、歌が必要なのだ。それはいまも、きっと変わらない」

アリア……ですか?」

「ヒノエは、どうだ? 歌は好きか?」

「……はい。きっと、好きだと思います」

「そうか……じゃあ、いつかきみも、私に歌ってくれないか?」

「わ、わたしがですか?」

「嫌か?」

「いまは……ちょっと……」


 ゴールは笑った。「いつか、そうしてくれ。約束だぞ」


「約束……分かりました。いつか、きっと……」


「ああ、楽しみにしている」ゴールは壊れた戸の向こうから差し込んでくる薄明かりに気づいて言う。「……夜が明けてしまったか。こんな時間まで引き止めてすまんな」


「いえ、わたしこそ……黙って遅くまで出ていって、ごめんなさい……」

「アリアには黙っておいてやる。だから、いまの私の話もアリアには言わないでくれ」

「それは……どうでしょう」

「なんだ? なかなか性格が悪いな、きみは」


「ふふ。これが、わたしです……ねえ、ゴール」ヒノエは言う。「わたし、きょうアリアさまに過去のことを話そうと思います。いままでずっと隠していたことも、わたしが見つけた鏡像の本質の話も……だからその時、ゴールにも傍にいてほしいのです。アリアさまといっしょに、隣で聞いてくれませんか」


「ああ、もちろん」とゴールは言う。「それと、きみさえよければなんだが……リヒナーの話も聞かせてくれないか」


「はい……分かりました」

「ありがとう……じゃあ、少し眠るといい。出発までは、まだ時間がある」

「いまから寝たら、起きられませんよ」

「だいじょうぶだ。わたしがおぶって連れて行ってやる。きみはまだ病み上がりだし、あの地下牢まで行って戻って、疲れていることだろう。子どもは、ちゃんと寝ないとな」


「わたしはもう、子どもじゃ……」とヒノエは言いかけて、やめた。「……そうですね。大人の言葉に、甘えることとします……おやすみなさい、ゴール」


「ああ、おやすみ。ゆっくり眠るといい」

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