35 怒りと虚無のフィロソフィー

「……これで、わたしの昔話は終わりです」ヒノエは格子に額を押し当てながら言った。


「なんだ……」リヒナーは格子にもたれかかりながら言う。「ヒノエのほうが、僕より余程酷いな」


「どちらが上とか下とか、そういう話ではありません」

「そうだな……上とか下とか、そういう次元の話じゃない。ヒノエは僕らが同じって言ったけど、同じなんかでもない。確かに僕もヒノエも、一種の不幸を背負った。でもその根本にある性質は、まったく異なる。それこそ、比べようがないほどに。ヒノエが背負ったのは持たざる者の不幸で、僕が背負ったのは持つ者の不幸……いや、不幸と呼ぶのも烏滸がましいか……」


「同じですよ、わたし達は」とヒノエは言う。「自業自得なんです。あなたも、わたしも。自分の考えをちゃんと発露させず、自尊心を捨ててみっともなく言い訳することもできない、弱い人間です。そんなふうに自分と向き合うことができない子どもに、魔法を扱うなんてことは、到底できないのです。わたしはようやく、それが分かりました。あなたのおかげで」


「僕のおかげ、か。僕を反面教師にでもしてくれたのか?」

「いいえ……あなたに騙されたと気づいた時、思い出したのです。わたしが誰からもないがしろにされ、かえりみられることのない子どもであったことを。そしていまのわたしは、その地続きにあるのだと。結局のところわたしは、あの頃からなにも変わっていなかったのです。まともに教育を受けたことがなかったわたしは、文字の読み書きから教わり、浅学の知識による理論武装を施し、筋道立てて考えているように振る舞って……でも、ひとりではなにも答えを出すことができない……母を殺した竜に復讐をするという建前上、わたしは竜についてたくさん調べ物をしました。アリアさまに、『ヒノエ』は本心からああ言ったのだと思ってもらうために」


 ヒノエはそこで一度言葉を区切って、深呼吸をひとつ置いた。そして続ける。


「それでもやっぱり、わたしは空っぽだったのです。無力で、意志もなく、ただ考えているつもりになって、竜を調べることに没頭していた……なにもかもから、逃げるために。蓋をした記憶から、他人の目から、自分自身から……わたしは逃げたかった。ひとりで生きていくことなんて、できるはずもないのに。必死に走ったつもりでした。走って走って、逃げ切れると思っていたのです……もちろん、そうはいきません。ゴールとあなたが、それを許してはくれませんでした」

「……悪かった」

「謝ることはありません。どうせいずれはこうなっていたのですから。先送りにしていた問題が、いまこうして白日の元に晒されたというだけの話です。そう考えると、わたしはあなたに感謝したほうがいいのかもしれませんね。こうした荒療治のようなやり方でなければ、わたしは過去と向き合うことができなかった……あなたもきっと、そうなのではないのでしょうか」


「そうだな……そうかもしれないな」リヒナーは小さく笑う。「足を斬られて檻に入って……僕はそれでようやく、自分のことを少しかえりみた。僕は窃盗症クレプトマニアでありながら、心のどこかで、誰かが盗みをやめさせてくれないかと望んでいた……そのことに思い至ったのも、ここにヒノエが来てからだった。スペスのことも、考えないようにしていたのにな……」


「であれば、やはりわたし達は同じなのです。確かにリヒナーの言うとおり、わたし達は所謂いわゆる持つ者と持たざる者であったのかもしれません。生まれも環境もまるで違います。父親の有無から親との関係、親が持つ性質……遺伝に、性別……資本に、教育……友人の有無、土地柄、信仰……並べ立ててみると、ほんとうになにもかもが違うことがよく分かりますね。でもわたし達はいまこのように、格子を隔てて一堂に介し、同じような問題に立ち至っている」

「……不思議なことにな」


「そうでしょうか」とヒノエは言う。「果たしてそれは、ほんとうに不思議なことなのでしょうか?」


「……なにが言いたい?」

「これは、普遍的なことではないのかとわたしは思うのです。誰もが路傍の石に躓いて転び、そのまま虎や竜に成り果ててしまう可能性を抱えている。なかには真っ平らな道を歩く人もいれば、器用に石を避けて進む人もいることでしょう。でもきっと多くの人は、誰もが見落とすような小さな石に足をとられて、転んでしまう……わたし達もそんなふうな、どこにでもいる人間であるはずなのです」

「だったら、どうして僕らだけがこんなところにいる?」

「そうですね……わたし達が、いつ、どこで、どんな石に躓いたのかを、省みなかったからではないでしょうか。少なくともわたしは、ことばかりに気をとられて、振り返って石を見ようとはしませんでした。仮に振り返っていたとしても、原因となる石を見つけられたとは到底思えませんが……とにかくわたしは、気付いた時にはもう地べたを這っていました。起き上がることもできず、泣いてばかりで、挙句の果てに過去を省みることもない……わたしの言っていることが、分かりますか……? リヒナー……」


「ああ」とリヒナーは言う。「分かるさ。よく、分かる……」


「ねえ、リヒナー」とヒノエは声を震わせて言った。「わたし達は、いつ、どこで転んでしまったのでしょうか」


「僕には、分からない……けれど、ヒノエのなかにはもう、答えがあるんだろ」


 鼻をすすってヒノエが言う。「はい……そうですね」


 リヒナーは鼻で笑う。「ほんとうに……泣いてばっかりなんだな、ヒノエちゃんは」


「……これが、わたしです。どれだけ取り繕っても、わたしはこうなのです……それが恥ずかしくて、情けなくて、仕方がなかった……それこそ、怒りが湧くほどに……悔しかった……みんながわたしを蔑ろにしたこと……愛を搾取されたこと……あなたがわたしの気持ちを踏み躙ったこと……すべてが、許せない……わたしには、誰かを許すような寛大な心もなければ……誰かのために生きようという思い遣りもない……わたしは、いつもわたしのことばかり考えている……」

「……いいんじゃないか、それでも」

「……リヒナーは、自分自身に対しても、そう思えますか?」

「僕は……思えないかもな」

「……きっとそれが、わたしとあなたの違いです。我々を隔てているのは、あなたのなかにある、そのおりなんだと思います。わたし、ようやく分かったんです。これでいいんだって……それに、こんなわたしのことを、ちゃんと見てくれている人がいた……五年もいっしょにいたのに、いまになって、やっと理解できたんです。相手が心をひらいてくれないとばかり思っていた……でも、そうじゃなかった。結局わたしの足を引っ張っていたのは、わたし自身だった……転んだままの方が楽で、可哀想に見えるから、それに甘えていた……そしてわたしは、そんなわたしを受け容れなければならなかった」


 ヒノエはそこで一度言葉を区切り、体内の熱を冷ますみたいに長く溜息を吐き、また続けた。


「わたしの出した答えは、こういうことです。いつ、どこで転んだのかなんてのは、それほど重要なことじゃない。我々が人間である以上、どうしても遺伝や環境が付きまとう。たとえばそのなかに、躓いて転んでしまう因子が含まれていたとしたら、生まれる前からその子は転ぶことが決まっている。あるいは人間のすべてが、そういう生きものであるのかもしれない。だったらそんなこと、考えたって仕方がない。だからわたしはどこかで意志を捨て、起き上がらないことを選んだ。それが、誤りだった……つまり、先程も言ったことです。『わたしの足を引っ張っていたのは、わたし自身だった』。誰がどれだけ手を差し伸べてくれようと、その手を取ろうという意志がなければ、結局立ち上がることはできない。わたしがわたし自身を認められないことが、すべての不幸の始まりだった……これが、わたしの答えです」


「そうかい」とリヒナーは言い、くっくっと笑った。


「……なにがおかしいんですか」

「いや……ありきたりな結論だと思ってさ。よく聞くような話だ。しかしまあ、言うは易く行うは難しとも言う。よく言ったり聞いたりはしても、実際にそうするのは難しい。ヒノエにはそれができたっていうんなら、立派なことだとは思う。そしてヒノエは、僕もそうだと思っている。僕もヒノエと同じように、まともな人間に戻れると思っている……違うか?」

「……あなたの言うとおりです。きっと、リヒナーだって……」


「いいや」とリヒナーはヒノエの言葉を遮って言う。「それは……強者の理論だ。意志の強い人間の理屈だ。少なくとも過去のヒノエと僕は同じであったのかもしれない。けれど、いまは違う。僕の目には、ヒノエがいまにも『明けない夜はない』だとか綺麗事を言い出すように見える。べつに、それが悪いこととは言わない。でもそれは、僕じゃない。ヒノエと同じなんかじゃない……僕はいまも明けない夜のなかにいる。かつてのヒノエがそうだったように。だったら、ヒノエにも分かるだろう……僕と同じだって言うんなら、この月さえ蝕むような、暗く冷たい春の夜の底にいる僕が、どんな気持ちでいるのか。それとも、もう忘れちゃったのか。ヒノエちゃんがどんな子だったのかを」


 ヒノエは返事をせず、鼻をすすった。


「ヒノエには、そのアリアって人がいる。その人がいてこそ、いまのヒノエがある。確かに最後には自分の意志が必要だってのは分かる。じゃあ、その意志が薄弱な人間はどうすればいい?」

「……窃盗症が治らないのは、意志が弱いからではありません。あなたは、盗みをやめたいという意志を持っていたじゃないですか……しかし、それでも抗えないのが窃盗症です。窃盗症は、依存の一種……欠けたなにかを埋めようと、あなたがもがいた証なのではないですか? わたしはそれを、悪いことだと言いたくはありません……」

「ヒノエがそう思っても、周囲の人間はそう思わない……他人に対する無理解と、世に蔓延した自己責任論が、容赦なく僕らの首を締めてくる……それに結局、盗み自体は罪だ……ヒノエが言うように、僕の抱えているものが悪心でなくても、僕が物を盗んだという事実は消えない……でも、ヒノエにとってのアリアみたいに、僕の隣に誰かがいれば、またなにか変わったのかもな……」

「……いまはここに、わたしがいるじゃないですか。わたしでは、だめなんですか?」

「……そうだな。ヒノエちゃんじゃあちょっと、頼りないかもな」

「そうやって、人のことを小馬鹿にして……あなたのそういうところが、嫌いです」

「そうかい。いまさら誰にどう思われようと、もうどうでもいいんだ……仮にヒノエの言葉で僕が改心したとしても、もう明るいお日様の元を歩くことは二度とない。外に出られないうえに、歩けもしないんだから……だったら僕は、僕のまま死ぬ……それでいいだろ」


「よくない!」とヒノエは叫んだ。


 耳元で突然発された大声に驚き、思わずリヒナーは格子から身体を離した。


「そんなの、いいわけがない……」ヒノエは言う。「いまのあなたは、あなたじゃない……」


「ヒノエに、なにが分かるっていうんだ」

「……スペスがいまのあなたを見たら、どう思うでしょうね」

「スペスはここにはいない。それに、もう二度と会うこともない」

「……わたしは、ただ、あなたに……」


「行けよ」とリヒナーは言う。「もう、いいだろ。早く行けよ。ヒノエには、待ってる人がいるんだろ」


「リヒナー」とヒノエは言う。「あなたは、自由意志なんてないと言いましたね。あれは、こういうことだったのですね……確かにわたしもあの時は、過去のことからそう考えました。でも、いまは違います。ゴールも言っていました、自由意志はあると。いまのわたしは、自由意志が存在すると信じています。たとえそれが幻であったとしても、我々はそれを駆動させることでしか前に進めないのです。でもあなたは、自身の経験から自由意志がないことに思い至り、絶望してしまった……ほんとうは、違う……あなたは、きっとまだ……」


「ヒノエ」とリヒナーは冷たく言う。「僕はおまえのことが嫌いだ。自分の得た知見を他人に分け与えたいのは分かるし、こんな人間もどきに優しくしようと心を入れ替えたのも、立派なことだとは思う。でも、自惚れるなよ。誰とでも分かり合えるだなんて、思わないことだ。自分ができたんだから相手もできると、おまえは勘違いしている。自分を卑下していたがゆえに、錯覚しているんだ。こんな自分にだってできたんだから、誰にだってできる、って。それは、違う……それは単に、おまえが優秀なだけだ。そして僕が、出来損ないなんだ……だからもう、おまえの顔を見たくないし、声も聞きたくない……頼むから、早く消えてくれ……これ以上僕を、惨めな気持ちにさせないでくれ……」


「そういうところが、あなたの……」とヒノエは言いかけてやめた。「……分かりました。もう、行きます……」


 衣擦れの音がして、檻のなかに落ちる影が動いたことで、リヒナーはヒノエが立ち上がったことを察した。小さく儚げな足音が数歩分鳴り、なにかを惜しむようにまた地下牢内は静寂に包まれた。立ち止まっているであろうヒノエに、リヒナーは格子にもたれかかりながら、最後に声をかけた。


「じゃあな、ヒノエ」


「はい」とヒノエは震える声で答えた。「……さよなら」


 短い間隔で響く足音が、徐々に檻から遠ざかっていく。ヒノエはここから走って出ていったようだった。

 またひとりになったリヒナーは格子の前で身体を横に倒し、胎児のように体勢を丸くした。斬られた足首が鋭く痛んで、強く膝を抱える。


 頭のなかでは、ヒノエの言葉がぐるぐると巡っていた。過去、後悔、自己分析――語られたあらゆる話が脳に流れ込み、思考と眠気の隙間という隙間を埋めていく。そしてそれらの話はすべてが正しく、真に迫るもののように感じられた。だからこそ、傷口に染みるように頭と胸がズキズキと痛んだ。


 最後までちっぽけな自尊心を捨てることができなかった。これ以上ヒノエに惨めな姿を見られたくないという気持ちが、最後にあんな言葉を吐かせた。過去と向き合うことができなかったばかりに、またひとりになってしまった。


 全部、ヒノエの言った通りだった。


 図星であったことが、より惨めに感じられた。人として格の違いのようなものをまざまざと見せつけられた気分だった。それが苦しくて、素直な言葉を紡ぐことができなかった。たくさんの後悔が押し寄せてくるが、ヒノエが戻ってくる気配はなかった。


 でも、これでいいんだ。リヒナーは自分にそう言い聞かせる。ヒノエはもう前へ歩き出した。こんな薄汚れた盗人のことなんか、忘れるほうがいいに決まっている。僕はここで、『リヒナー』として朽ちていく。それで、いいじゃないか。


 膝を抱える腕に、さらに強く力を入れた。そうやってどれだけ自分を慰めるように抱きしめても、足首の痛みと喉の奥に詰まる後悔は、拭い去ることができなかった。春の底で闇を見つめながら、リヒナーは迫る最期の日に思いを馳せ、静かに頬を濡らした。

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