34 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女⑦

 真夜中に物音がして、目が醒めた。見ると、寝床から起き上がったアリアが、家の外へ歩いて行くのが確認できた。夢とうつつの狭間にある意識を現の側に引きずり込み、ヒノエもアリアのあとを追って外に出る。


 順応した目で周囲を見回すと、アリアがザクロの木の前で膝を折って、合掌しているのが見えた。まるでハルの死を悔やむように、なにかに赦しを請うように祈っている。


「アリアさま……?」


 ヒノエが声をかけると、アリアはゆっくりと振り向いた。


「……起こしちゃったかな。ごめんね」

「いえ……わたしは、眠りが浅いので……」

「そう……わたしも、そうなの。するとたまに、悪い夢を見る……片腕しかない竜が、わたしの……」


 アリアはそこで言葉を切った――というより、言葉にならないなにかが胸の奥から押し寄せてきたようで、どことなく苦しそうだった。きっとアリアにも、あの片腕しかない竜にまつわる苦い経験があるのだと悟った。であればそこには踏み込むべきじゃない、そう思った。


「……わたし、家に戻ってますね」


 これ以上アリアにどう声をかけていいのか分からず、ヒノエはそそくさと寝床まで戻った。

 胸がざわざわして、なかなか眠れなかった。目をひらいたまま暗闇を見つめ、静寂に耳をそばだてていると、小さな声で「ごめんなさい」と繰り返すアリアの声が聞こえてきた。


 いったい、ずっとなにに謝っているのだろう。

 考えても、答えは出なかった。






 早朝、目醒めるとアリアはまだ眠っていたので、そっと外に出て、村人がいつも利用している井戸まで行って桶いっぱいに水を汲み、家まで戻った。早い時間だったこともあって、誰とも顔を合わせずに済んだ。アリアが隣にいなければ、面と向かって罵詈雑言を浴びせられていたかもしれないと思うと、肝が冷えた。


 炊事場に桶を置いて、尺で水を一杯掬って飲み干した。振り向くと、ちょうどアリアが目醒めて上半身を起こしているところだった。


「おはようございます」とヒノエは言う。


「うん、おはよう」アリアは薄く目をひらいて言う。「朝早いのね、ヒノエちゃん」


「そう、ですね……最近、よく眠れなくて」

「……知らない人がいると、余計に落ち着かないよね」

「いえ、決してそういうわけでは……これでも、眠れた方ではあるんです。アリアさまが隣にいてくれたので、安心できて……」

「……そっか」


 アリアは立ち上がって、ヒノエの傍まで歩み寄り、手で桶の水を掬って飲んだ。その一連の動作の流麗さが、母のことを想起させた。一瞬、心臓が大きく跳ねたが、アリアがふうと息を吐くのを見て、我に返った。


「泊めてくれてありがとね、ヒノエちゃん」

「あ……す、好きなだけ……ここにいてください」

「あら、嬉しい。でもわたし、この村からあんまり歓迎されてないみたいだし、なるべく早めに出ていくとするわね」


「……やっぱり、その時はわたしも、いっしょに連れて行ってくれませんか」ヒノエは頭を下げた。「どうか、お願いします……」


「……ごめんね」とアリアは言って、ヒノエの頭を撫でた。


「じゃ、じゃあ……せめて、この村にいるあいだは、いっしょにいてもいいですか? わたしも……あの竜のことが、知りたいです」

「……うん、分かった。いっしょに調べましょう」


 簡素な食事を済ませてから、ふたりは木漏れ日の森を抜け、損壊した家屋と悪意を持った噂の隙間を通り、ふたたび村の最奥に位置する村長の家まで赴いた。戸を叩くと、村の空白に虚しく音がこだまし、一瞬の静寂を挟んで、「はい」という返事と足音が聞こえた。近づいてくる足音はだんだんと大きくなるが、昨日のような、苛立ちを想起させる響きは感じられない。


 戸がゆっくりとひらかれ、村長がしかめっ面を覗かせた。構わずアリアが微笑み、「おはようございます」と声をかけると、村長は溜息を吐いて、「ああ、おはよう」と応じた。


「ほんとうに来たのか」と村長は言う。「物好きなお嬢ちゃんだな」


「ええ。どうしてもお話を伺いたくて」

「そうかい。だが、期待しているほどのことは話せんぞ」

「裏を返せばそれはつまり、少しでも竜について話せることがあるということですよね。であれば、どんなことでも聞かせてください。村長さんが見たもの、聞いたもの、あるいは伝承やおとぎ話の類でも構いません。竜にまつわること、すべて教えてください。お願いします」

「……付いてこい」


 村長はそう言うと、ひらかれた戸からぬるりと出てきて、ヒノエとアリアのあいだを通り抜け、家の側面へまわった。ふたりも後ろに続くと、広い庭に出た。


 村長は縁側に腰を下ろし、ふたりに視線を送りながら、「楽にするといい」と言った。


「では、お言葉に甘えて」アリアは言うと、村長から少し離れたところに腰を下ろした。


「……ヒノエは、いいのか?」と村長は言う。


「え?」とヒノエは声を漏らす。話しかけられると思っていなかったから、驚いた。


「ヒノエは話を聞かなくていいのかと聞いてるんだ」

「い、いっしょに聞いても、いいんですか?」

「うん? そのために来たんだろう。それともなんだ、帰るのか」

「い、いえ……わたしも、聞きたいです……」


 村長がふんと鼻を鳴らす。ヒノエはそそくさとアリアの隣に腰掛けた。


 それから村長は咳払いをふたつ置いて、竜が現れた日のことを滔々と語り始めた。

 なんの前触れもなく突然飛来した隻腕の竜が、まず最初に家畜を殺し、それを皮切りに次々と村民を手に掛けたこと。巨大な顎からこぼれる火炎が畑や家屋を焼き、尾に薙ぎ払われた木々が音を立てて倒れたこと。阿鼻叫喚の渦のなか、隠れ、逃げ惑い、生き延びた村民は全体の半分ほどしかいないこと。


 聞けば聞くほど凄惨な状況であるにも関わらず、ヒノエにはどこか遠くでの出来事に感じられた。アリアは悲痛な面持ちで村長の言葉に耳を傾けているのに、どうしてわたしはそんな気持ちになれないのだろうと、頭のなかが自分のことでいっぱいになった。


 ヒノエが自らの鈍感さに思いを巡らせているあいだも、村長の話は続いた。昔、異国から伝わってきたもののなかに、竜が巻き付いた剣の話があるというような些細なことから、この国に伝わる竜の姿と実際に現れた竜の姿は異なっていたという体験に基づく話まで、様々なことが耳を通り抜けていった。


 二時間ほど経って話は終わった。その間アリアは熱心に話を聞いていたが、ヒノエにはそれらの内容が重要なことだとは思えなかった。結局のところ、消えた隻腕の竜の居場所は分からないし、現れる前触れもないということだから、次に飛来する場所を予測することもできない。であればいったいこの話になんの意味があったのか、ヒノエには理解できなかった。


「村長さん、意外といい人だったね」帰り際にアリアがぽつりと言った。


「そう、ですね」とヒノエは言う。


 実際、その通りだった。もっと冷たくあしらわれるか、無視でもされるものだとばかり思っていたから、驚いてしまった。それに、ちゃんと名前を知っていてくれていたことも意外だった。


 村民たちの態度から、てっきり村長もそうなのだと思っていたが、もしかするとそれは勘違いだったのかもしれない。村民たちは、べつに村長に言われたからハルやヒノエを無下に扱っているわけではなかった。ただ純粋な悪意や、自由なハルへの嫉妬が、彼らを饒舌にしたのだ。


 べつに村長自体は、ヒノエのことを――もとい、ハルのことを悪く思っているわけではなかった。ただ、別け隔てなく他人への興味が薄いであろうことが窺える。彼は良くも悪くも他人を平等に見ているのだ。ヒノエにはそれが、ちょうどいい距離感に感じられた。村民は、ヒノエにとっては遠すぎるか近すぎるかの、どちらかでしかない。


 あるいはアリアがという異邦人の存在が、村長に俯瞰的な視点を持たせたのかもしれない。このカヤナの村が閉じきった空間であると悟られ、それを口外されるのは都合が悪いとして、彼に社会性のある振る舞いをさせたのかもしれない。


 誰かの存在が、また別の誰かの有り様を変えるのだ。人は人と対峙することで相対化される。村人と向き合う彼は『村長』だが、息子と向き合う彼は『父』だ。そしてアリアと向き合う彼は、また少し違った存在になっている。彼はその『また少し違った存在』として、社会性のある振る舞いをした。しかしそれも、自身が持つ箪笥たんす抽斗ひきだしのなかに、社会性という身にまとう衣服を持っておかなければ成立しない。


 悪意に満ちたこの村のいちばん偉い人は、ちゃんとした人なのだと思い知らされた気分だった。もっと早くあの人に頼ることができていたなら、なにか変わっていたのかもしれない。ヒノエはぼんやりと、あったかもしれない未来に思いを馳せた。


 帰路を歩きながらアリアは周囲を観察し、都度気になった場所へふらふらと向かうので、ヒノエもそれについて歩いた。折れた木や焦げた家屋に注意深く目をやり、足跡の大きさや深さから身体的特徴を推察する。それは一種の確認作業だった。この村に現れた竜がほんとうに探している竜なのかは、実際にアリアがその瞬間を目撃していないことから判別ができない。アリアの頭のなかに浮かんでいる像と、目の前に残る痕跡のすり合わせが行なわれているあいだ、ヒノエは村人たちの心無い言葉を無視しながら、その真剣な横顔を眺めていた。


 夕刻になるまで村で痕跡を調べ、その日の最後にはハルが殺された場所まで行った。折れた木と、ぼんやりとした影のように広がる赤黒い土は、西日を浴びながらまだそこにあった。


「ここで、お母さんが殺されたのね」とアリアは言う。


「はい」とヒノエは答える。


「竜は、どうしてお母さんだけを殺したんだろう。その場にはヒノエちゃんもいたんだよね?」

「そうです。竜は母を跨いでゆっくりとわたしに近づいてきたんですけど、急になにかに呼ばれたみたいに立ち止まって、空を見てきょろきょろし始めて」

「なにかに、呼ばれた……」

「はい。そんなふうに、見えました。そしたら、あっちの方を向いて飛んでいって……」


 ヒノエが北の空を指差しながら言うと、アリアはそちらを向いて固まった。難しい表情をした横顔を見るに、アリアにとってもこの状況は不可解なようだった。


「なにか、分かりそうですか?」とヒノエは訊ねてみる。


 アリアは首を振って言う。「ううん。ちょっと、難しいかも……わたしは、まだあの竜について知らないことが多すぎるみたい」


「……アリアさまは、どうしてその竜を探しているんですか?」


「それは……」アリアは返答に窮した。「……言えない」


「どうして、言えないんですか?」

「それも、言えない……ごめん」


 どうしても気になって食い下がってみたが、無駄なようだった。これ以上近づこうものならアリアが離れていくような気がして、ヒノエも言葉に窮してしまった。きっと、隻腕の竜絡みで同じような経験をしているはずのに、どうしてもっと深く繋がれないのだろう。お互いにひらいた傷を、お互いの手で塞ぐことだってできるはずなのに、アリアはその傷を決して見せようとはしない。ヒノエにはそれが、寂しく感じられた。


「ねえ、ヒノエちゃん」とアリアは言う。「もう一日だけ、泊めてもらってもいいかな」


「はい、もちろんです。何日でも、ここにいてください……」

「……ありがとね」






 翌日も同じように朝から村の中心の方へ行き、今度は村人たちに嫌な顔をされながら話を聞いて回った。村人たちも嫌な顔こそすれど無視したりはせず、アリアに対してはいちおう丁寧な受け答えをした。彼らのなかにも社会性がちゃんと備わっていることが垣間見えて、ヒノエは複雑な気持ちだった。


 午後に差し掛かる頃になって、ふたたび村長の家に赴いた。戸を叩くと、昨日と同じように村長が迎えてくれた。


「なんだ、まだいたのか」


「ええ」とアリアは言う。「調べ物は終わったので、そろそろ御暇おいとましようと思って、お声がけに参りました」


 ヒノエは隣から、アリアの顔を凝視した。


 村長は言う。「そうかい。もうすこしゆっくりしていけばいいのに」


「どっちなんですか」アリアは微笑んだ。「すみません、大変な時に押しかけて。早く村の傷が癒えて元の生活が戻ってくるよう、お祈り申し上げます……それでは、失礼します」


「おう」と村長がぶっきらぼうながらちゃんと返事をする。「ヒノエも、じゃあな」


「あ……はい。また……」


 ヒノエは頭を下げて、すぐにアリアの隣に並んで歩き始めた。村長の悪意のない呼びかけが嬉しくて、アリアがもう村を去ろうとしているのが悲しくて、涙が出そうになった。アリアに気取られないように歯を食いしばるが、固く結んだ唇がぶるぶると震えた。


 俯きながら黙って歩き、一度家まで戻った。ふたりで簡素な食事をとり、床にぺたんと座り込んで、ただ時間の経過に身を任せた。


 夕暮れ時になって、アリアは突然立ち上がった。ヒノエの心臓は、大きく跳ねた。


「そろそろ、行くね」とアリアは言った。


「あ……」


 喉が絞られて、声が出なかった。いかないで、と言いたかった。独りになるのは嫌だ。このまま夜が来たら、自分のなにもかもが暗闇に飲み込まれてしまう気がして、身震いがした。


「ありがとね、ヒノエちゃん。すごく助かった。お母さんのことは気の毒だけど……困った時は村長さんを頼れば、きっとだいじょうぶ。だから、ね?」


 アリアはヒノエの頭を撫でながら言った。


「わ、わたしも!」ヒノエは震える声を絞り出す。「わたしも……ついていきます」


「だめだよ。急にいなくなったら、みんな心配するよ」

「そんなこと……ありません」


「ヒノエちゃん」とアリアは言う。「お母さんが殺されて、やりきれないのは分かる。でも、いっしょに来ていったいどうするの?」


「わたしも、その竜を、追いかけます。見つけ出して……復讐します」

「……どうやって?」

「魔法を……わたしに魔法を教えて下さい。それで……きっと、アリアさまの役に立ってみせます……だから、どうか、お願いします……」

「だめよ……そんなの……」

「どうして、ですか……?」


 アリアは口を噤んで、悲痛な面持ちを浮かべながら固まった。それからなにかを決心したように立ち上がり、ヒノエに背を向けた。


「アリアさま!」とヒノエは叫ぶ。


「ごめんね」とアリアは言い、歩き出した。


 少しずつ離れていく背中に何度も声をかけたが、アリアは一度たりとも振り返らなかった。戸がゆっくりとひらかれて、西日が射し込んでくる。ヒノエは薄暗い部屋のなかで、夕日の光を浴びるアリアの背中を、ただ見ていることしかできなかった。


 表に出たアリアは、戸を閉めようとして振り返った。その表情は、憐れみと悲しみに大きく歪んでいた。そんな顔を見せるのならば、連れて行ってくれればいいのに、と思わざるを得なかった。泣きながら何度も名前を呼んで引き止めたが、ついにアリアは「ごめんなさい」と言い残し、戸を閉めた。


 薄暗い部屋のなかで、ヒノエはまた独りになった。追いかけたかったが身体に力が入らず、ただ泣き喚くことしかできなかった。


 日が沈んでも、ヒノエは床に倒れ伏せながら、アリアのことを考えていた。

 アリアはいったい、どこへ向かったのだろう。気が変わって、ふらっと戻ってこないだろうか。

 無意味な逡巡を繰り返し、ただ無為に時間が過ぎた。


 そのまま寝転がって、なにも食べることができずに夜を迎えた。午前中は歩き回って、午後は泣き喚いて、身体は疲労に打ち拉がれているのに、心が眠ることを許さなかった。このまま眠ってしまえばアリアは過去の人になり、ヒノエは完全に分断された個人に戻ってしまうように思えた。人との繋がりが、時間の繋がりが、眠ることによって断たれてしまう。そんな気がして、恐ろしかった。


 しかし睡魔に抗い切るのは簡単なことではない。だんだんと頭がぼんやりとしてきて、瞼が重くなってくる。嫌だ、とヒノエは思うが、なにかに抵抗できるような強い意志は、もう残っていなかった。


 その時、遠くから足音が微かに聞こえた。それにより、ヒノエの意識は一気に覚醒した。あの男が――村長の息子が来たのだ。


 もう、耐えきれない。こんな状況を、受け入れることができない。

 空腹感と睡魔に身体を蝕まれながら、ヒノエは意志を駆動させた。


 どうしてみんな、わたしを置いていくんだろう?

 まだわたしは、黙ってこんな目に遭い続けるつもりなのか?


 考えれば考えるほど、火が灯ったように頭の奥と腹の底が熱くなった。全身を流れる血液の温度が上がったみたいに感じられた。その熱は、身体を動かすのに十分なエネルギーを持っていた。ヒノエは勢いよく身体を起こして、なにも持たずに家を飛び出し、西に向かって走った。


 母は逃げる時、夕日が沈む方へ――西に向かって走っていた。アリアは井戸のある方から――西の方からやってきた。

 きっと、西に町があるんだと思った。仮にそうだとしても、どれくらい離れているのかは分からないし、そこにアリアがいるという保証もない。でも、それでもいいと思った。仮にアリアに会えなくても、そのときはもう、死んでしまえばいいのだ。どうせこの村にいても、それは死んでいるも同然なのだから。


 無我夢中で足を動かし、森へ分け入った。葉や枝に引っ掛けて、衣服が汚れたり破れたりしていく。しかしそんなことは、死ぬことと比べれば些末なことだ。羞恥心も自尊心も、いまは必要ない。


 決して短くはない時間をかけて、足が棒になる程まっすぐに西へ進むと、ひらけた場所に出た。そこには南北に伸びる道があり、南の方には灯りが見えた。きっと灯りの元には、町がある。

 今度は南を向いて走り出す。きれいな道は、森のなかよりも圧倒的に足への負荷が少ない。しばらく行くと、風に乗って人の声が聞こえてきた。それもひとつやふたつではない。もう夜も遅いというのに、町は眠っていない様子だった。


 走り続けて息も切れ切れになり、激しい渇きに咳き込みながら、転がり込むように町へ入った。通りの両端には行燈あんどんが等間隔で煌々と輝いており、人の往来が多くあった。経験したことのない群衆の圧と、それら各々が発する声の煩さに、くらくらしてしまう。誰も彼も小綺麗な格好をしていて、汚れた服を着ているのはヒノエくらいのものだった。しかしそんなことを気にしている者はひとりもいない。誰もヒノエに興味を示していないのだ。あるいは火に集る蛾のように、誰の目にも入っていないとも言える。


 ヒノエは慣れない町を歩きながら、丁寧に行き交う人々の顔をひとりずつ確認するが、アリアは見当たらない。そもそもアリアがこの町にいるかどうかさえ定かでないのに、こんな探し方をしていれば夜が明けてしまう。


 内に生じた熱が、徐々に身を焦がしつつあった。気が急いて落ち着かない。眠気と疲労と空腹で、頭がはたらかない。行動を起こしても、それが報われるとは限らない。そのことに思い至り、泣き出してしまいたい気持ちになる。周囲にはたくさんの人がいるのに、ヒノエはひとりだった。


 いっそのこと、恥も外聞も捨てて、大声でアリアのことを呼びながら、みっともなく泣き叫ぼうと思った。それでアリアが現れなければ、もうそれですべて終わりにしよう。そう考えると、心が少し軽くなった。


 道の真ん中で、大きく息を吸い込んだところで、後ろから声がした。


「ヒノエちゃん……?」


 振り返ると、目を丸くしたアリアが立っているのが見えた。


「あ……アリアさま……」

「どうしてここに……」

「アリアさま!」


 ヒノエは声を張り上げ、地面に直に正座して、頭を下げた。そして額を土に擦り付けながら言った。


「どうか、わたしも連れて行ってください……わたしも、母を殺した竜を追いかけます……絶対に、復讐します……なんでも言ってください、どんなことでもやります……だから、どうか……お願いします……」


 土に落ちる雫の跡が、徐々に増えていった。嗚咽がこみ上げ、鼻水が詰まって息苦しい。アリアは返事をしなかったが、周囲の人間たちはざわめき出す。もう恥も外聞もない。しかしヒノエには、ひとつだけ捨てきれないものがあった。


 最後までヒノエに残っていたのは、アリアに少しでも良く思われたいという、ちっぽけで歪んだ自尊心だった。どれだけ醜態を晒しても、『あの村に居たくない』という理由だけでここまで来たとは、どうしても知られたくなかった。どこまでも自分本意な人間だとアリアに思われたくなかったし、そんな自分自身を認めたくもなかった。だからヒノエは、『母を殺した竜に復讐をする』というそれらしい動機を、本音としてアリアに開陳した。実際にはそれは建前であるのだが、とはいえ完全な嘘というわけでもなかった。母を殺した竜を憎む気持ちは、確かにある。でもそれ以上に、あの村から出ていきたいという気持ちの方が、遥かに大きい。


 アリアがまだそこにいるのか分からない。いたとして、いったいどんな表情を浮かべているのだろうか。顔を上げればぜんぶが分かるのに、いまはそうすることが、なによりも恐ろしい。怒りや失望を抱いたアリアの顔がそこにあるかもしれない。あるいはもう目の前にアリアの姿はなく、周囲の人間の冷ややかな視線に心を潰されてしまうかもしれない。あらゆる可能性に怯えながら、ヒノエは額を地面に擦り付けて泣き喚いた。


「ヒノエ!」


 雑踏を切り裂いて、アリアの鋭い声が耳の奥に響いた。周囲の人間たちが、徐々に鳴りを潜めていく。


「立って」とアリアは言う。「あなたがひとりで立てないなら、わたしはあなたを、連れていけない」


 そっと顔を上げると、滲んだ視界の向こうに、二本の足で立つアリアの姿があった。涙を拭って見据えたその表情は、なにかしらの感情に歪んでいた。


 疲労の溜まった脚をがくがくと震わせながら、ヒノエは立ち上がった。それを見たアリアは、長い髪を靡かせながら身を翻して歩き出す。


「ちゃんとついてくるのよ」とアリアは言った。


「はい……ありがとう、ございます……」


 すべてを捨て去って、ここから新しい自分に生まれ変わろうと強く思った。だからヒノエは、忌まわしい記憶と自身の心を井戸の底に閉じ込め、ひらかれたその丸い口に蓋をした。しかし、その蓋は五年の年月を経た後、ある老騎士と盗人によって外されることとなった。


 目を背けていた井戸の底には、混沌があった。そしてそのなかに、ハルと修羅が立っていた。まるで、忘れてくれるなと、ヒノエを恨むように。

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