33 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女⑥

 ハルの腕をザクロの木の根元に埋めてひとしきり泣いた後、ヒノエはアリアと家まで戻り、置いてあった干し肉と木の実を分け合って食べた。腹が少し膨れると、泣き疲れていたこともあって眠ってしまった。


 微睡みのなかで、夢を見た。

 夢のなかのヒノエは、枯れた暗い井戸の底で、膝を抱えて座り込んでいた。足元からは、水が染み出している。瞬きをする度に水位は時間を飛ばしたみたいにぐんと上昇し、やがて腰の辺りまで冷たい水に浸かっている状態になっても、思うように身体が動かず、立ち上がることができなかった。


 このまま溺れてしまうのだろうかと諦めかけた時、頭上から母の声がした。見上げると、ヒノエ、ヒノエ、と何度も名前を呼ぶ母の心配そうな顔が、くっきりと見えた。最期に、母の頬にそっと触れてみようと思い、足に力を込めると、身体が浮かび上がった。そしてそのまま、ヒノエは井戸の外に放り出され、白い光に全身を包まれた。母の声は、もう聞こえなくなっている。眩い光のなかには誰もいなければ、なにもない。ただぼんやりとした影が、足元で花ひらくように広がっていた。


 目を覚ますと、夕刻だった。身体を起こして周囲を見回すと、壁にもたれて座るアリアの姿があった。置いていかれてないことに、胸を撫で下ろす。


「おはよう」とアリアは微笑みながら言った。「きょうは疲れちゃったよね」


「す、すみません。眠っちゃって……」

「ううん、だいじょうぶ。ご飯、ありがとね」

「いえ、こちらこそ……お母さんを弔ってくれて、ありがとうございます」


「うん」とアリアは言うと、悲しげな表情を浮かべた。「……お母さんは、竜に殺されたの?」


 地面に咲いた血の花を思い出しながら、「はい」とヒノエは答えた。


「……ヒノエちゃんは、その……お母さんが死ぬところを、見たの?」

「……はい」

「そっか……ごめんね、こんな話……思い出すのもつらいだろうけど、最初に言ったように、わたし、ある竜を探しているの。片腕のない、竜。それで……ヒノエちゃんのお母さんを殺したのは、どんな竜だったかを聞きたくて……覚えてる限りでいいんだけど、どうかな」

「お母さんを殺したのは、まさにアリア……さまの言うような、片腕のない竜でした」


「ほんとうに?」アリアが目を丸くする。「鱗の色は、どうだった?」


「……灰色です。血が、たくさん付いていました」


 アリアは目をしばたたいた後、中空を見つめるみたいに固まった。その視線の先にヒノエも目をやるが、どこか隙間から射し込む夕日に舞う塵や埃が見えるのみだった。


 しばらくすると、アリアは立ち上がって言った。


「ヒノエちゃん。この村のいちばん偉い人のところまで、いまから案内してくれない?」

「……え?」

「わたし、どうしてもその竜のことが知りたいの。できるだけ、早く」

「い、いまからですか?」

「うん。いま頼れる人は、ヒノエちゃんしかいないの。お願いできる?」


 アリアの表情は真剣そのものだった。初めて見る切迫感や焦燥感さえ感じさせるその面持ちに、ヒノエは思わず怯んでしまう。

 反射的に、断ろうと思った。『この村でいちばん偉い人』というと、それは当然、村長のことを指す。ヒノエは村長とほとんど面識がないうえに、彼は、いつもここへ夜這いに来る男の父親だ。会わずに済むのなら会いたくないが、状況はそれを許さない方向へ傾いていた。


「お願い、ヒノエちゃん」とアリアは言う。「だめ?」


「……わかりました」とヒノエは言った。仮に断ったとしたら、アリアがひとりで村長のところへ向かうであろうことは想像に難くない。置いていかれるのは、嫌だった。






 最後に村の中心の方へ行ったのは一ヶ月半ほど前――初めて村長の息子が家まで来た翌日に、ある老夫婦の畑仕事を手伝いに行った時だったが、村の様相はあの時とはまるで変わっていた。倒壊したり焼け焦げた家屋があちこちに見受けられ、畑は荒れて作物が倒木の下敷きになっている。表に出ている村民の数は心做しか少なく見え、復旧作業に追われる男たちの姿が所々にあった。男たちはちらりとヒノエとアリアに目をやるが、すぐにまた作業へ戻っていく。余所者を気にかけている余裕はないらしい。


 こんな状況下にあっても村の女性達は崩れた家の前で数人組になり、アリアと歩くヒノエのことをひそひそと話していた。その内容はおそらくアリアには聞こえていないが、ヒノエにはしっかりと聞こえていた。村の人間の噂話や、夜中に家へ這い寄ってくる足音に気を張っているうちに、ヒノエの聴覚は研ぎ澄まされていた。しかし、これがいいことなのか悪いことなのかは分からない。どうせ聞こえたところで、なす術はないのだから。


「ヒノエが異国の魔女を連れてきたわよ」と誰かが囁いた。「こんな時に、いったいなんだっていうのかしら」


 ヒノエはちらりとアリアの表情を窺うが、特に気に留めていない様子だった。おそらく聞こえていないのだろう。村民たちは村での立場が危うくならないよう声量の調整をすることに長けていて、『異国の魔女』に声を聞かれないよう心掛けている様子だった。もし聞かれれば、なにをされるか分かったものではない、という認識があるらしい。だったら最初からなにも言わなければいいのに、とヒノエは思わざるを得なかった。


 村長の家は、村の中心に通る畦道あぜみちの突き当りにある、ここではもっとも大きな家屋だった。倒壊は免れたようだが、見上げると、屋根の一部には空いた穴を塞いだ痕跡が見受けられた。損傷をこうむった家々のなかでも、ここが真っ先に修復されたと想像できる。


 村長の家から少し離れたところで、ヒノエは立ち止まった。日はまだ沈んでおらず、朱に染まった大きな家屋がなんだか恐ろしく見えて、これ以上近寄りたくないと思った。


「ここが村長さんの家?」とアリアが隣で言った。


 はい、とヒノエが返事をすると、ここまで後ろか横を歩いていたアリアが前に出た。二歩、三歩と、アリアの背中が大きな家屋へ吸い込まれていくように離れていく。


 ヒノエは「あっ」と声を漏らし、控えめに手を伸ばすが、足は前に出なかった。置いていかれるのは嫌だが、あの家に近寄りたくないのも事実だった。こんな村の頭である村長になんか会いたくなかったし、そのうえあの家には、おそらく村長の息子もいる。とはいえここに留まれば、後ろからは村人の心無い言葉が迫ってくる。後ろから刺し貫かれるのを待つか、進んで針の山に飛び込むか、選べる道はふたつにひとつしかない。


 ならば、アリアと一緒に行ったほうがいい。ヒノエはそう頭では思うが、身体が言うことを聞いてくれなかった。じりじりと黄昏の陽光に肌を焼かれながら、遠ざかる背中に視線を送った。少し離れたところから見るアリアは、とても小柄に見えた。そんな小さな身一つで、この木々に埋もれた村まで竜を探しに来て、いったいなにが目的なのだろう。


 知りたい。そう思うと足は動いて、身体が前に進み始めた。小さな足音を聞いて、アリアが振り返る。駆け寄ってアリアの隣に並び、いっしょに歩き出す。


 アリアが家の戸を叩き、声を掛けた。戸の向こうから簡素な返事がして、続いてドタドタと荒っぽい足音が近づいてくるのが聞こえた。足音の主は気が立っている、とヒノエは感じた。村長かその息子のものなのかは分からないが、おそらく村でのあれこれの対応に追われて、気が休まっていないのだ。アリアがなにか八つ当たりされないか、心配になる。


 勢いよく戸が開いて、ヒノエは思わず少し飛び上がった。開いた戸の向こうでこちらの顔を窺っているのは、日に焼けた顔に皺が刻まれていて、目つきが鋭い七十代くらいの男性だった。


「村長さんですか?」とアリアが訊ねる。


「そうだが……」村長は怪訝な顔で言う。「どちら様かな」


「ええと、わたし、アリアと申します。北方の、ジェラティオという国から参りました」

「……異国の人間か。それで、なにか?」

「この村で、隻腕の竜が出たと聞きました。それについて、お話を伺えないかと思いまして」

「お話もなにも、見れば分かるだろう。急に竜が現れて、村はこんな有様だ」

「そうですよね……お悔やみ申し上げます」

「ふん……あんた、いったいなんなんだ?」

「わたし、その竜のことを追いかけているんです。もう何年も、ずっと。どうしてもその竜のことが知りたいんです」


 村長は腕を組んで目を閉じ、大きく溜息を吐いた。


「お疲れのところ大変申し訳ありません。お話だけ聞かせてもらえればすぐ出ていきますので、どうかお願いします」アリアはそう言って頭を下げた。


「はあ……分かった、分かった。でもきょうはもう遅いから、明日にしてくれないか」

「……分かりました。すみません、無理を言って」


「どこか泊まるところはあるんですか」と家の奥の方から声がした。


 目をやると、廊下を歩きながらこちらに近づいてくる村長の息子の姿があった。聞いたことのない優しい声色で、見たことのない笑顔を浮かべていて、まるでいつもとは別人のようなその姿が、ヒノエには薄気味悪く感じられた。


「よかったら泊めて差し上げましょうか」と村長の息子は言う。


 アリアは少し考えた後、「いえ、遠慮しておきます」と言う。「わたしはこの子の……ヒノエちゃんの家に泊めてもらおうかと」


 ヒノエは無言で、隣に立つアリアの顔を見上げた。


「ああ……いたのか、ヒノエ」


 村長の息子は先ほどよりも低い声でそう言うと、露骨に態度を変えた。張り付いていた笑顔が消え、立つ姿勢も少し力が抜けたように崩れた。いつも真夜中に家へ入り込んでくるあの人だ、と思うと、身体が強張った。


「ね。いいよね? ヒノエちゃん」

「え、は、はい。もちろん、構いませんけど……」


 射抜くような鋭く熱い視線が、村長の息子からヒノエに向けられていた。その眼差しは、「なにも余計なことを言うな」と釘を刺しているようだった。「分かっているだろうな」と黄ばんだ白目に浮かぶ、どす黒い瞳がそう語っている。目は口ほどに物を言うとはこのことだと思った。思わずヒノエは顔を伏せた。


「というわけですので、すみません。また明日、伺わせていただきます。お時間、ありがとうございました」


 アリアはお辞儀をして村長たちと別れ、ヒノエとふたりで来た道を引き返した。

 日の沈んだ帰り道でも、どこからともなくひそひそと話す声が聞こえてきた。






「ふう、緊張した」


 家に着くなり、アリアは息を吐いて床に座り込んだので、ヒノエも少し離れたところに腰を下ろした。


「ほんとうに、ここで寝るんですか?」とヒノエは訊く。


「ご、ごめんね? 迷惑だよね……」アリアは手を合わせて言う。「でも一晩だけ、お願い!」


「いえ、そんな、迷惑だなんて……二晩でも三晩でも、いてくれれば……でもきっと、村長の家のほうが過ごしやすいですよ。食べ物にも、余裕があるでしょうし。なのに、どうして……」

「うーん……こんなこと言っちゃあなんだけど、あの人……村長の息子さんかな? ちょっと怖くて」


 ばつが悪そうに笑うアリアを、ヒノエは凝視する。


「なんだろう……村長さんは、土着的で分かりやすく排他的な感じがしたんだけど、息子さんの方は、どうしてあんなことを言ったのか意図が読めなくて、断っちゃった。もしかしてわたし、狙われてたのかな? なーんて……」


 アリアはそう言うとまた笑った。ヒノエとしては、冗談のつもりであろうアリアの言い分は、あながち間違いではないような気がした。村長の息子は、男性優位の社会が形成された閉鎖空間に、なにも知らない女性をひとりで引きずり込もうと企てたのだろう。取り込んでしまえばこちらのものだ、というふうに。少々先入観が勝っている考察ではあるが、ヒノエにはそう思えてならなかった。


 村長の息子がどういう人間なのかは、話さないほうが今後のためだと思ったので、なにも言わないようにした。もしアリアがヒノエと同じような先入観を持って彼と話した時、多少なりともアリアの態度は認知に引っ張られる可能性がある。それを気取られた場合、彼はヒノエが余計なことを喋ったと判断を下すだろう。それだけは避けたかった。後でなにをされるか分かったものではない。


「まあ、仮になにかあったとしてもだいじょうぶなんだけどね。わたし、魔法が使えるし」


「魔法?」とヒノエは聞き慣れない言葉を反復した。


「こういうやつ」とアリアが言うと、四角い天井の中心に、小さな光が現れた。夜だというのに屋内は昼間みたいな明るさになり、ヒノエは目を丸くした。


「すごい……」


 得体の知れない力ではあったが、ヒノエにとってそれは、とても魅力的に見えた。魔女と言っても、母のような人間もいれば、アリアのような人間もいる。自分もこうなりたい、と白い輝きに目を奪われながら思った。


「わたしにも、できますか?」とヒノエは訊ねる。


「うーん、どうだろうね」とアリアは言う。「短期間で身につけるのは難しいかな」


「時間をかければ、できるかもしれない?」

「そうだね、かもしれない。とはいえ、わたしはすぐにこの村から出ていくから、簡単なことは教えられても、ヒノエちゃんが魔法を扱えるようになるまでは見てあげられないかな」

「そう、ですよね……」


 当たり前のことを失念していた。アリアはもう何日もしないうちに、ひとりでこの村を去る。そうなってしまえば、ヒノエはまたひとりぼっちだった。


 連れて行ってくれと、せがもうかと考えた。もうひとりで生きていける気がしなかった。アリアがここにやってこなければ、この命は潰えていたのだ。望まれなかった命として、枯れた井戸の底で、誰にも見送られることなく、独りで――


 しかし先ほどの口ぶりから、アリアが素直に連れて行ってくれるとは思えなかった。アリアはヒノエを置いて、この村を出ていこうとしている。なにもおかしいことではないが、ヒノエにとってはそれが、死よりも重い問題として心に伸し掛かっていた。こんな思いをするのならば、あのまま井戸の底でくたばっていればよかったのだと、後悔の念さえ押し寄せてくる。


 どうするべきかと黙り込みながら考えていると、魔法の光が消えて、家のなかにも夜の帳が下りた。


「ほ、他には、どんなことができるんですか?」ヒノエは訊ねる。


 アリアが言う。「うーん……秘密!」


「教えられない、ですか?」

「教えられないというか、恥ずかしくて」

「恥ずかしい? どうしてですか?」

「魔法っていうのは、その人が持つ性質と深く関わってるの。だから魔法を見ると、その人がどういう人なのか、推測できたりする。わたしは、なるべくそういうのを見られたくない……だから、ごめんね」

「す、すみません。なにも、知らなくて……」

「ううん。そうだよね、知らないよね。それに、わたしは気にするけど、そういうのを気にしない人もいるから、難しいんだよね」

「あ……ご、ごめんなさい」

「だから、だいじょうぶだって、もう。怒ってないよ。誰にだって、知らないことはある。わたしにだってあるんだから。ね?」

「はい……」


 夜の帳のなかに、気まずい沈黙がすべり込んできた。きょうは虫の鳴き声も聞こえなければ、近寄ってくる足音も聞こえない、静謐に満ちた夜だった。


「あ、アリアさま」とヒノエは言う。「わたしも、お母さんを殺した竜を探します。だから、いっしょに、連れて行って、くれませんか……」


 少しの沈黙を挟んで、アリアが言った。


「それは、できない……ごめんね」


 夜闇の向こうに薄っすらと見えるアリアの表情は、どこか悲しげだった。

 どうしてそんな顔をするのだろうとヒノエは思った。アリアさまは、なにも悪くないのに。

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