32 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女⑤
心の海に立っていた荒波が止むまで、アリアは頭を撫でてくれた。もう時刻は正午に差し掛かろうとしていた。
少し落ち着いてから深呼吸を繰り返していると、アリアが言った。
「ごめんね。嫌なこと思い出させちゃったね」
なにも謝ることなんてないのに、どうしてこの人は何度も謝るのだろう、とヒノエは思った。わたしが勝手にお母さんを思い出して、勝手に泣き出しただけなのに。
アリアの言葉にどう返事をすればいいのか迷った。でも、早くなにかを言わなければならないような気がした。そうしないとアリアが去っていくように思えた。
口をひらくが、言葉に詰まる。訊ねてみたいことはたくさんあるのに。
どうして嫌なことを思い出したと分かったのだろう。どうやって井戸の底から引き揚げてくれたのだろう。なぜ優しくしてくれるのだろう。
頭のなかで声が鳴っているのに、それを吐き出すのが恐ろしい。言葉を誤るとまた独りになってしまうという予感が喉を絞り、舌を麻痺させる。震える瞳で、「いかないで」と訴えるよう試みる。アリアは目を閉じて、足を崩して隣に座っていた。それを見て、少し安心した。しばらくここにいるつもりで楽な姿勢をしているのだと思った。
なにも言えずにいると、もう一度アリアが頭を撫でてくれた。嬉しくて、一度止まった涙がまた零れそうになるが、なんとか堪える。
「いっぱい泣くとお腹が空くし、眠くなっちゃうよね」とアリアは言った。
言葉の真意は分からなかったが、この人もたくさん泣いたことがあるんだと思った。泣き疲れるといつも泥のように眠れるが、目覚めた時の空腹感と喉の渇きは耐え難いほどつらい。この人は、それを知っている。
「あの……」とヒノエは言う。「助けてくれて、ありがとう……ございます」
「うん」アリアは目を細めて微笑む。「落ち着いた?」
「はい」
「そう? お
「だ、だいじょうぶです」
「ほんと? じゃあ、お腹空いてるのは、わたしだけか」
アリアは自分の腹をぽんぽんと軽く叩いて、ヒノエの方を見ながら照れくさそうに笑った。
よく笑う、可愛らしい人だと思った。そんな姿を見ていると、なんだか自分もお腹が空いてるような気がしてくる。アリアと同じように自身の腹に手を置くと、小さな拍動が感じられた。生きている、と思った。
「あの……」とヒノエはおずおずと言う。「家まで来てもらえれば、ちょっとしたものなら出せます……口に合うかどうかは、分かりませんけど」
「ご、ごめんね? こんな大変な時に」
「い、いえ……だいじょうぶですよ」
ヒノエが立ち上がるよりも先に、アリアは立ち上がり、腰を曲げてヒノエに手を差し伸べた。
いま、わたしは、誰かに、手を、差し伸べられている。ヒノエは他人事のようにそう思った。
アリアの手は小さく、細く美しい指を
差し伸べられた小さな手のどこに指を置けばいいのか、どれくらい力をかけていいのか、分からなかった。どうすれば違和感なく腕を動かしてアリアの手に触れられるのか。汚れた手で触れていいのか。親切心からそうしてくれているということは理解できるから、黙って無視するのも憚られた。様々な疑問と混乱が頭のなかを真っ白に染め、身体を硬直させる。
なにも知らない自分が、急に恥ずかしくなった。顔が熱くなって、汗が噴き出す。
「立てる?」とアリアは言う。
「は、はい。だいじょうぶです。ひとりで、立てます……」
ヒノエはゆっくりと立ち上がり、家の方に向かって歩き出した。背後から足音がついてくる。何度か振り返ると、その度にアリアは首を傾げて微笑んだ。
井戸から家まではすぐに着いた。木々の隙間で隠れるように建っている見慣れたはずの木造の家は、なんだかいつもとは違って見えた。風雨に晒されて腐っている箇所が散見され、実際の時間の経過以上に風化しているような印象を改めて感じた。それをアリアに見られていることが、また恥ずかしかった。
「すみません……」とヒノエは思わず小声で言った。
「村からは少し離れてるんだね、ヒノエちゃんの家」
アリアは純粋に思ったことを言っただけなのだろうが、ヒノエにはその言葉に含みがあるように感じられた。事実、ここは村の中心から距離がある。物理的にも、心理的にもそうだ。この状況は、ヒノエが村で爪弾きにされているということを暗に示している。
異邦人の来訪が、ヒノエの視点を徐々に相対化させていった。ほとんど死んでいた心が、恥ずかしさと情けなさで埋まっていく。自分の置かれている立場や風で飛ぶような薄っぺらい自尊心を、見透かされたくないという気持ちが芽生えてくる。とはいえ、ここでアリアを追い返すわけにもいかない。
戸を開けて、なかを確認する。誰もいない。薄暗い屋内に入ると同時に、背後でアリアが「お邪魔します」と言う。寝床の横に転がる、変色した母の腕が目に入ってくる。心臓が大きく跳ねる。生きた心地がしなかった。どうか見つけないでと
「あれ」とアリアは言う。「人の腕……?」
「あっ……ええと、その……」ヒノエは咄嗟に言う。「す、すぐに捨てて……きます」
「……捨てちゃうの? 大切な人のものなんじゃないの?」
ヒノエは言葉に窮した。
「ちゃんと弔ってあげよう」とアリアは言う。「わたしも手伝うから。ね?」
思ってもみなかった言葉に、ヒノエは困惑した。この場に相応しい表情がうまく作れない。でも、想定していた最悪の事態は訪れなかった。それどころかアリアは理解を示してくれた。それが嬉しくて、胸が詰まった。
変色した母の腕を、赤ん坊を抱くみたいに両手で持ち上げて、アリアのところに持っていった。それを見たアリアは、「きれいな指だね」と言う。ヒノエが黙って頷くと、続けてアリアは言った。
「そういえば、ここでは亡くなった人をどうやって葬送するのかな」
「……分かりません」
「……そっか。そうよね……わたしの故郷では土葬が当たり前だったけど、
「は、はい……」
「どこに埋めよう?」
ヒノエは少し考えてから、家の隣に視線を向けた。そこにはザクロの木が植わっている。母が家にいるあいだ、ぼんやりと眺めていたあのザクロの木だ。きっと母は、あの木に対してなにか思うところがあったのだろう。実際はどうだったのか、もう確かめる術はないが、ヒノエにはそう思えた。
「あの木の下……」とヒノエはザクロの木を指差して言う。
「うん。じゃあ、そうしよう」
アリアは適当な長さの枝を拾い、それを使ってザクロの木の根元の落葉を掻き分けた後、地面に穴を掘り始めた。ざく、ざく、ざく、と一定のリズムで柔らかい土に枝の先端を突きたてて地を穿つ音が、空虚な森に響く。ヒノエも家のなかにハルの腕を置き、身の丈ほどの長さの枝を拾って、アリアの隣に並んで同じ場所を掘り始める。まもなく人の頭ひとつ分くらいの深さの穴が、木の根元に生まれた。
「ふう」アリアは額の汗を拭って息を吐いた。「こんなもんかしら」
ヒノエはふたたび家に戻り、両手でハルの腕を持ち上げた。元の肌の色が分からないほど変色の進んだ腕を最後にきつく抱きしめ、手のかたちを目に焼きつけた。それからアリアのところまで戻り、空いた穴にハルの腕をそっと置いた。上から土と落葉をかぶせようとして、手が止まる。ハルの腕が、助けを求めているように見えた。竜に潰される直前の母の、恐怖に歪んだ表情が脳裏に蘇る。
腕を埋めると、母のことを忘れてしまうような気がした。村の誰からも愛されなかったハルという人間を、わたしだけでも愛してあげたいと思った。忘れるわけにはいかない。でも、これ以上急速に腐っていく母の腕を見ていられないのも事実だった。まるで土と同化する直前みたいな腐った腕を前に、ヒノエはまた固まってしまった。
「なにかいっしょに埋めてあげたらどうかな」とアリアが言う。「この腕は、ヒノエちゃんの大切な人の腕なんでしょ?」
「うん……」とヒノエは涙声で言った。「お母さんの……」
「そっか……お母さんの腕なんだね。じゃあ……たとえばわたしの故郷だと、遺体を埋葬する時、花とか、その人が身に着けていたものを一緒に棺に入れるの。天国へ持っていけるように……だからなにか、そういうものも一緒に埋めてあげよう。お母さんが天国でも寂しくないように。ね?」
「うん……」
もう一度家に入って、なかを見渡した。母の所有品と思しきものは、まったく見当たらなかった。まるで初めから存在していなかったみたいに、ハルという人間の痕跡は家に残っていない。ハルが存在したことを証明するものは、もうあの腐った腕しかなかった。
いっそのこと、自分を埋めてもらおうかと思った。そうすればふたりで天国か、あるいは地獄へ行けるかもしれないのに。
逡巡の後、母が咲かせた血の花から取ってきた赤黒い土を、着ていた服に包んで持っていくことにした。天国で娘のことを思い出してほしいという気持ちが、ヒノエにそういった決断をさせた。新しい服に着替えたヒノエを見ても、アリアはなにも訊かなかった。
母の腕の横に、まだ体温の残る自分の服を置き、少しずつ土をかぶせた。母の腕と娘の服は、すぐに見えなくなった。これで見える範囲から母の存在を示唆するものはすべて排除された。そこには完全な自由のような一種の喜びがあり、大海に放り出されたような孤独と深い悲しみがあった。
隣を見ると、アリアが目を閉じ手を合わせて祈っていたので、同じようにした。そしてその祈りの果てに、ヒノエは気が付いた。結局は自分も、村長の息子と同じであるということに。
ヒノエが欲していたのはハルではなく『母』という、もっと曖昧模糊とした存在だった。自身を見守ってくれる大きな存在として、ヒノエは『娘』というフィルターを通して、『母』という役割をハルに課していたに過ぎない。それはつまり、村長の息子が『ハルの娘』としてヒノエを求めたように、ヒノエもまた『母』としてしかハルという人間を求めていなかったということだった。
母のような人であれば、それはハルでなくてもよかったのだということに、ヒノエは思い至った。
ハルが喪われても、いまはアリアが隣にいる。そんなことを考えてしまうわたしは、薄情者だろうか? 心のなかで自身に訊ねてみたが、返事はなかった。
目をひらくと、涙が溢れてきた。悲しいのは確かだが、なにが悲しいのか分からなかった。ただ心には、大きな穴が空いていた。立ち竦んでいると、アリアがまた頭を撫でてくれた。その優しさが、痛くてたまらなかった。
「お母さん……お母さん……」
すすり泣きながら、ヒノエは思いを吐き出した。心の底から溢れた『お母さん』という言葉が指すのは、ほんとうの母であるハルのことなのか、いまここで母のように振る舞ってくれているアリアのことなのか、そんなことさえヒノエにはもう判別がつかなかった。
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