31 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女④

 泥から這い出すように起床すると、もうすでに昼時だった。空腹感と冷たい腕が、ここが夢のなかではないと教えてくれる。母の腕を枕元に置いて、戸を開けて外へ出た。昨日と変わらない強い夏の日差しが周囲を照らしている。ゆっくりと井戸まで歩いて喉を潤し、きのう母が殺された場所まで行った。血の花はまだそこに咲いていた。ただ、色は黒くなっていて、土は乾いていた。


 ヒノエは黒くなった血の花の上に寝転がって、空を見上げた。澄んだ青のなかを、高く重なった綿のような雲が流れている。風が吹いて、木立が歌うようにさらさらと鳴る。いつも通りの風景に、自分と母だけが取り残されたみたいだった。世界と自分のあいだには、時間の流れにずれがある。そんな気がした。


 母の血が染みた土を一握持って帰った。家の戸を開けると、なかにはいつもより疲れている様子の村長の息子がいた。勝手に入ってきていることについてはもう思うところがないし、これから酷い目に遭うのだということについても、もはやなにも感じなかった。もうすべてがどうでもよかった。


「あの腕は……」と村長の息子は言った。視線の先には、変色し始めた母の腕がある。


「お母さんの……」とヒノエは言う。「お母さん……竜に、殺されて……」


「……そうか」


 村長の息子は座ったまま、悲痛な面持ちで固まっていたが、しばらくしてから立ち上がり、なにもせずに去っていった。母に冷たくした村人のひとりのくせに、どうして死んだとなった途端にそんな顔ができるのか、ヒノエには理解できなかった。


 それから二日後の夜中に、村長の息子はまた家に来た。今度は鼻息を荒くして、家に入って来るなりヒノエを押し倒してその上に覆いかぶさった。その日はいつもより乱暴に扱われた。村長の息子はヒノエの顔を見ながら、何度もハルの名前を呼んだ。男の腕力と自身の抱える無力感に押さえつけられながら、ヒノエは村長の息子が昨日見せた悲痛な面持ちの意味を理解した。


 あの時、村長の息子はほんとうにハルを悼んでいたのだ。彼がほんとうに求めているのは、ヒノエではなく、ハルだった。


 きっと、この人はお母さんに拒絶されたんだ。だから代わりに、わたしはこんな目に遭っている。

 わたしがハルの娘だから、ハルに似た顔をした女だから、行場のない欲求をぶつけられているのだと思った。でも、だからといってそれを受け入れることはできない。そうだとするなら、その対象はヒノエである必要はないということだ。『ハルの娘』であれば、誰でもいいのだ。『ハルの娘』がヒノエしかいないから、ヒノエはいま人形みたいに乱暴に扱われているというわけだった。


 自身が『ヒノエ』でなくても、こうなる運命にあったのだと気が付いた。こんな状況に陥らないようにするには、ハルから産まれてこなければよかっただけの話なのだ。でも、子は親を選べない。生まれる場所を選択することができない。


 いったいわたしは、どうすればよかったんだろう――


 事が済むと、村長の息子は服を着直して出ていった。きょうは金の入った袋を置いていかず、そのことに対する言葉もなく、行ってしまった。もはや価値を値踏みされることさえなくなったのだとヒノエは思った。あの金は、ヒノエという人間の価値そのものに支払われているわけではなかった。人からを買う、そのために支払われた金だった。結局自分は、彼と母とを繋ぐいびつくさびでしかなかったのだと思い知った。これから何度も母の代わりに欲求をぶつけられるのだろう。人形にそうするみたいに。そのあいだは、自分が自分でいることさえ許されない。


 わたしはいったい、なんのために生まれてきたのだろうか。母がこの世からいなくなったことで、わたしは家族というくびきから、娘という鳥籠とりかごから解き放たれ、自由になったはずだった。なのに――


 汗と吐き出された体液を拭い、服を着替えてから家を出た。頭上には満月が輝いていて、森は深い群青色に染まって見えた。獣道をふらふらと歩いて、井戸を目指す。問題の答えは、そこにあるような気がした。


 井戸はいつもと変わらない姿で、いつもと同じ場所にあった。村人に忘れ去られ、竜にさえ見落とされた孤独な深穴に駆け寄り、底を覗き込む。月は映っていなかった。見上げると、確かに満月は中天にある。


 今度は大きく身を乗り出して、井戸の底に満ちた月を探した。しかし、どれだけ目を凝らしても瞳に月は入ってこない。正気を失ってしまったのかと思った。頭がくらくらして重かった。その重さに引っ張られるようにヒノエは体勢を崩し、井戸の底に呼ばれるように落ちてしまった。直径一メートルほどの井戸の内壁に身体を何度か打ち付け、減速しながら落下したことで大怪我は免れたが、あちこちを擦りむいた。呻きながら状況を確認する。井戸の底にはただ湿った土があるのみで、水が張っていなかった。こんなところに月が映るはずもなかった。


 井戸は枯れていた。いったいなにが起こっているのか、まったく理解できなかった。まるで竜が水を持ち去ってしまったみたいに思えた。そんなことあるはずもないのに。でも、そう思えてならなかった。あの竜が、わたしからすべてを奪っていったのだ、と。


 打ち傷と擦り傷の痛みを抱えながら井戸の底で座り込み、頭上に空いた丸い穴の遥か向こうで輝く月を見上げた。美しく、明るい満月だった。空に浮かぶ月は、こんなにも綺麗なのだと気が付いた。いつもは干渉できる水面の月ばかりを見ていたから、気が付くことができなかった。手が届かない月は、こんなにも美しい。そしてそれが、どうしようもなく悲しい。美しい月に、生身の人間はどうしても触れることができない。


 どうにかして本物の月に近づきたかった。そのためにはここから這い上がらなければならない。とはいえまともな釣瓶つるべもなければ縄梯子なんかもない古井戸を登るのは、ヒノエの力では不可能だった。


 孤独な人間に相応しい、間抜けな末路だとヒノエは自嘲した。情けなくて仕方がなかった。様々な理不尽を耐え抜いて、竜に殺されずに済んだのに、自分から井戸に落ちて餓死することになるなんて。でも、もうそれでいいと思った。井戸の外に広がる現実は、あまりにも苦痛に満ちすぎている。誰とも繋がっていない人間が死ぬ場所として、ここはうってつけの場所だと思った。井戸もヒノエも同じように、もうどことも繋がっていない。


 しばらくして、頭上にぽっかりと空いた丸い口から、月は見えなくなった。ヒノエの座り込んでいる井戸の底は、夜よりも深い闇に包まれる。目を閉じて、壁面にもたれかかった。ここでなら、何者にも脅かされず眠ることができる。そう思うと、すぐに意識は微睡まどろんだ。






 目覚めると、啓示のような淡い光が天から差し込んできていた。頭上には鳥や虫の気配すら感じられない。ほんとうに世界から忘れ去られたみたいだった。いまがどれくらいの時間なのかも分からない。空腹と喉の乾きを強く覚えた。でもそれらが満たされることはもう永遠にない。そう思うと、急に死が身近に、恐ろしく感じられた。だからといって、どうすることもできない。声を張り上げても、誰かがここに来てくれるとは思えない。村からここまでは結構な距離がある。仮に村人の誰かが見つけてくれたとしても、井戸の底にいるのがヒノエと分かれば、助けてもらえない可能性だって十分にある。緩やかに終わっていく世界の底で、ヒノエは啜り泣いた。


「おーい」


 誰もいないと思っていた頭上から、女性の声がした。

 反響した声に包まれながら顔を上げると、ぽっかりと空いた井戸の丸い口を欠くように、こちらを覗き込む人の頭が見えた。まるで三日月で井戸に蓋をしているみたいだった。


 誰かが来てくれた。この人が助けてくれるかは分からないが、ヒノエは誰かが自分を見つけてくれたことに安心して、思わず声を漏らして泣いた。


「いま助けてあげるからね」


 優しい声が響いた直後、身体が少し浮かび上がった。そのまま徐々に井戸の底から離れていく。なにかに引っ張られるようにぐんぐん引き上げられ、すぐに井戸の外へ出た。外気は暑く、井戸の底よりも乾いていた。


 いったいなにが起こったのだろう、どうやって上がってきたのだろうと周囲を見回すが、目に入る目立ったものは、井戸の傍に立つ見知らぬ女性の姿だけだった。なにかに掴まれているような感覚があったが、なにも見えない。ただヒノエは宙に浮かんでいた。


 そっと井戸の傍に降ろされ、その場にぺたりと座り込む。見知らぬ女性の方に目を向けると、彼女は微笑んだ。

 綺麗な栗色の長い髪を持った女性だった。歳は二十歳くらいに見える。全身を覆う黒い衣装に、紫の瞳、そして右手の長い杖が印象的だ。この村の人間でないのは、一目瞭然だった。


 見知らぬ女性は屈んで、ヒノエと目線を合わせてから言う。「だいじょうぶ?」


 ヒノエは涙を拭いながら、黙ってゆっくり頷いた。


「そっか、ならよかった……お嬢ちゃん、名前はなんていうの?」

「……ヒノエ」


「ヒノエ、ヒノエ……」と見知らぬ女性は確かめるように繰り返す。「ヒノエちゃんね」


 ヒノエがなにを言うべきか迷っていると、見知らぬ女性が続けて言った。


「ああ、えっと……わたしは、アリア。怪しい者じゃない……って言っても、怪しいわよね。うーん……わたし、竜を探してるの。片腕のない竜。この辺りで竜が出たって聞いて、それでここまで来たんだけど……ヒノエちゃん、なにか知らない?」


 アリアと名乗った女性は、困ったようにまた微笑んだ。

 綺麗な紫の双眸から漏れる優しい視線に心を揺さぶられて、ヒノエはなにも言えなかった。ただ、竜という言葉が、死んだ母を想起させた。気付いた時には涙が溢れていた。


 それを見たアリアはなにかを察したようで、ヒノエの頭を撫でながら「ごめんね」と言った。柔らかい春の日差しのような声色だった。


 いったいなにに謝っているのだろうと思った。でも、それが悪意から来ている言葉じゃないことだけは理解できた。


 生まれて初めて、誰かに優しくされている。そう思うと、涙が止まらなかった。

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