30 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女③
初めて男が家にやってきた時から、食べ物があまり喉を通らなくなり、ヒノエは少し痩せた。男はそれが気に入らずハルに苦言を呈したようで、ヒノエは金を取りに来たハルに「ちゃんとご飯を食べろ」と怒鳴られた。そうは言われても、無理なものは無理だった。
食欲が失くなれば、うまく眠ることもできなくなった。夜には動悸がして目が冴え、昼には眠気と無気力に襲われた。水を汲みにいく回数が減って、老夫婦の畑へ通うこともできなくなり、ただ漫然とザクロの木を眺めて過ごす時間が増えた。生きているという感覚が、希薄に感じられた。
貰って置いてあった干し肉や、その日摘んだ木の実を齧って、日々を紡いだ。そのあいだ、なるべくなにも考えないように努めた。それでも時々、まるで他人事みたいに、この女の子はどうしてまだ生きているのだろうかと不思議に思うことがあった。
どうして? とヒノエは自問する。
きっとなにかに期待しているんだよ、と心のなかで誰かが答える。
そっか。わたしは、まだなにかに期待しているんだ。
抱いた期待は、二週間に一度、完膚なきまで徹底的に砕かれた。散った破片のひとつも残らないほど、男は丁寧にヒノエの心を蹂躙していった。その度ひとり声を上げて泣いても、救いの手を差し伸べる人間は現れなかった。
まだ期待するの? とヒノエは自問する。
うん、と誰かは答えた。
わたしを救えるのは、わたしだけだよ。
そう。ほんとうは、分かってるのにね。
夏の終わりの夕陽が肌に痛かった。視界に入るすべてが、自分を拒絶しているみたいに感じられた。ヒノエはそういった見えない圧力のなか、摘んだ木の実を持って家までふらふらと歩いた。
村長の息子が家に来るようになってから約一ヶ月半が経過した。昨晩も玩具みたいに扱われて眠ることができず、ヒノエは憔悴していた。それに加え、男が現れた次の日には大抵、金を回収するために母がやってくる。母は褒めてくれることもなければ、もはや貶すような言葉さえ吐かなくなった。ただ汚れた布切れを見るようにこちらに目を向け、無言で金を持ち去っていく。そんな光景を見るのは、自分が物として消費されている時と同じくらいつらかった。
ヒノエにとってハルは、ずっと母のままだった。どれだけ無下に扱われても、血の繋がりが絶たれることはない。そんな意識が呪いのようにこびり付いていた。だから何度も抱きつこうと思ったし、甘えようと思った。それは子どもとして正しい振る舞いの一種なのだから、なにもおかしいことじゃない、と自分に言い聞かせた。でも、いざ実行しようとすると、最悪の事態が脳裏を
村長の息子が家に来る時間は大体決まっていたが、ハルが現れる時間にはばらつきがあった。ヒノエが家にいない午前中に金だけが持ち去られていることもあれば、夜に家で鉢合わせになることもあった。
きょうはどうだろう、とヒノエはぼんやりと思う。少なくとも午前中には顔を合わせていない。どうであれ関係はないのだが、考えずにはいられない。たくさんの「でも」と「もしも」が、頭のなかに湧いては泡のように弾けて消えていった。
家の戸をそっと開けて、なかを覗き見る。屋内まで侵食してきている夕闇の向こうに、動物特有の呼吸音や殺気立つ気配などは窺えない。誰もいない家は、死んでいるも同然だった。足を踏み入れるたびに、自身もそこに同化していくような気がした。心做しか、家は外よりも涼しく感じられる。まるで死体みたいに冷たい。
寝床の横に置かれたままの袋が目に入った。母はまだ金を取りに来ていない。このままここにいると、母と鉢合わせることになる。
母の顔を見たいという気持ちがあった。同時に、会うのが怖いとも思った。その狭間でヒノエは動けないでいた。自分の思う正しい振る舞いと、自分の抱えるほんとうの気持ちが、か細く少し骨張った両腕を掴んで引いた。右にも左にも暗闇が広がっていて恐ろしかった。腕が千切れそうで痛かった。それでも足は微動だにしなかった。
そのまま時間は流れた。戸の軋む音がして、ヒノエの意識は冷たい家に戻ってくる。顔を上げると、母の姿が見えた。まだ日は沈んでおらず、母の背中からは血のような赤が後光のように射していた。
影のなかにいても分かるほど整った顔に、艶のある黒髪。痩せすぎず太りすぎてもいない体躯に、足元以外に汚れのない絹の服。そこから覗くように伸びるしなやかな腕と、その指先の、綺麗に切り揃えられた爪。ハルはヒノエとは対照的に、宝石のように磨かれているみたいだった。
わたしも金さえあればこうなれるのだろうか、とヒノエは思う。金の有無が、母娘をこうも遠く非対称な存在にしてしまうのか。どうしてわたしは、母の立っている場所に行けないんだろう。
ハルはヒノエの傍まで歩み寄り、金の入った袋を、腰を曲げてそっと拾い上げた。優麗にも見えるその動作のひとつひとつに、ヒノエは畏怖の念を抱く。母のまとった空気には棘があった。近寄るな、と威嚇する獣がまとうそれのように。抱きつこうものなら、怪我をするのは必然だった。
ヒノエに背を向け、ハルは開いたままの戸に向かって歩き出す。ヒノエを暗い家に置いて、夕陽の射す明るい森へ向かう。
遠ざかる背中に駆け寄って、抱きつこうと思った。母の細い腰に後ろから両腕をまわして、身体をおもいっきり押し付けて、お母さんと呼びながら、頬ずりして甘えようと思った。傷付いても構わない。致命傷を負ってもいい。もう限界だった。最後に一度でいいから、娘として母に、そうしようと思った。
立ち上がって、身体を引きずるように歩き出す。母は振り向かない。まだ明るい屋外に出ると目が眩んだ。まるで、ここはお前の居場所じゃないと、太陽に拒絶されているみたいな気がした。それでも構わない。消えた心の火が置いていった予熱で、意志を駆動させる。少しずつ母に近づく。足音は届いてるはずだ。でも母は振り返らない。
追いつきかけては立ち止まり、逡巡した。どうして振り向いてくれないんだろうと考えた。
母は、いままで酷い目に遭わせた相手に復讐されるかもしれないなどとは思わないのだろうか。もしかすると、背後から刃物を突き立てられる可能性だってあるのに。それとも自分は、なにも行動を起こすことができない腑抜けだと思われているのだろうか。
であれば、それは正しい。この状況はつまり、ハルにとってヒノエがそれほど取るに足りない存在であるということを示していた。
でも、それがいったいなんだというのか。
ヒノエは自身を鼓舞する。そんなこと関係ない。我儘でいることのなにが悪い。母だってそうなのだから、わたしだってそうありたい。わたしたちは、親子なのだから。
そうやってしばらく歩き、日が沈みかけた頃、耳を劈く低い轟音が森に響いた。地面や木々が細かく振動し、鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。
ハルとヒノエは鳥たちに置いていかれたように、その場で立ち竦んだ。一瞬、森は静寂に包まれる。それを破ったのは、人の悲鳴だった。ひとつの悲鳴は伝播し、やがて複数の絶叫になる。
なにか異様なことが起こっているのは確かだった。ただ、村の中心部から少し離れたここからでは、どこでなにが起こっているのかが分からない。それでもハルは、すぐにここから離れなければならないと判断を下したらしく、急に駆け出した。
「ま、待って!」
思わずヒノエは叫んだ。母は振り返らない。
必死に足を動かし、その背中を追いかける。
「置いて行かないで! お母さん!」
切迫した状況が、心の底で眠っていた素直な言葉を外に押し出した。
母は、振り返らなかった。まるで神話の一場面のように、振り返るなと誰かに釘を差されたように、後ろを見ようとしない。
村から、悲鳴から、ヒノエから逃げるように、ハルは走った。途中、落ちていた大きな木の枝に足を引っ掛けて、体勢を崩した。が、転ばず踏み止まり、また駆け出す。
ヒノエも縋るように母を追っているうちに、ハルと同じように枝に足を引っ掛けた。しかしハルのように踏み止まることができず、転んでしまう。
右膝と右手の平を擦りむいた。痛くて立ち上がれなかった。顔だけを上げると、遠ざかる母の背中が見えた。母は、やっぱり振り返らなかった。
「待って……お母さん……」
痛みの少ない左半身を動かして身体を起こし、痛む右半身を引きずるように歩く。母の背中が小さくなっていく。視界が滲み始める。袖で涙を拭うと、母はもういなくなっていた。
それでもヒノエは歩き続けた。膝からは血が滴っている。力という力が、そこから零れていってるみたいだった。でも止まるわけにはいかなかった。ここで止まれば、死んでしまうような気がした。
死にたくないの? と誰かが言う。
死にたくない、とヒノエは胸中で叫んだ。
先ほど聞いた低い轟音が再び鳴った。発生源はさっきよりも近い。改めて聞くとそれは獣の咆哮のように思えた。脳裏を過ぎっていた恐ろしい予感が、実体を伴って足首に掴みかかってくる。逃れるように母を追いかける。
おそらく母は真っ直ぐこの方向を行った。村から出たことがないから分からないが、この方向に町があるのだろう。どれくらい離れてるのかも分からないが、とにかく逃げるため、そして追いつくためには、進むしかない。
再び大きな音が、周囲に立ち込める不穏な空気と、ヒノエを支える大地を揺らした。身体に伝わる振動は先程よりも強く、ヒノエに巨大な獣のような存在をはっきりと意識させた。しかし音はあまりに大きすぎて、どの方向から聞こえてきたのか判別がつかない。なにかがいるのは確かなのだが、どこにいるのかが分からない。
しばらく進むと、木々の隙間に母の背中が見えた。立ち止まって、なにかを見上げているようだった。
「お母さん!」とヒノエは息を切らしながら叫ぶ。
ハルはそこでようやく振り返った。恐怖の色に染まって歪んだ顔をヒノエに向ける。いままでに見たことのない母のその表情に、ヒノエは思わずたじろぐ。
母の向こうで、咆哮が発せられた。見上げると、所々が赤く染まった、灰色の巨大な竜の顔が、木々の隙間から覗いていた。圧倒的な質量を有した巨躯を二本の後ろ足で前へ運び、木をへし折りながらだんだんとハルに近づいていく。ハルは足が竦んで動けないようだった。ヒノエも恐怖のあまり手足に痺れを覚えて、身体を動かすことができなかった。
竜は木々を薙ぎ倒し、徐々に隠れていた身体を露わにしていく。頭は見上げるほど高い位置にあり、少し開いた顎の隙間から、鋭い歯が覗いている。全身は灰色の鱗で覆われていて、あちこちに返り血と思しき赤い液体が付着していた。特に赤く染まっているのは、強靭な腕の先の、五本指の手だ。まるで人のものと同じようなかたちをしているが、規模感はまるで違う。指の一本一本に引き締まった筋肉が備わっており、その先端に人体を両断できそうなほど大きく鋭い爪を有している。
そしてその竜には、片腕がなかった。
西日を遮る巨躯の落とす影のなか、ハルは震える足でヒノエの方に一歩を踏み出した。ヒノエは動くことができず、震える瞳でただそれを見ていた。
「ヒノエ……」
ハルの口から漏れた小さな声は震えていた。
喉から手が出るほど欲しかった母からの言葉。それがハルの、最期の言葉になった。
竜は腕を高く掲げ、振り下ろす。降ってきた巨大な手に圧迫され、ハルは地面に血の花を咲かせた。
千切れて飛んだ細い右腕が、目の前に音を立てて転がる。それはまるで助けを求めるみたいにヒノエに向かって伸びていた。
声が出なかった。視界が狭まって、冷や汗が吹き出る。息苦しくて、真っ直ぐ立っていられない。膝が折れて、その場に崩れる。
擦りむいた膝と手のひらの痛みも忘れるほどの、圧倒的な恐怖と喪失の底で、ヒノエは眼前に迫る自身の死よりも先に、ハルのことを想った。
お母さんが、死んだ。
確かに母としては
心が腐食していくような感覚に、吐き気を催した。混沌とした感情に全身を圧迫され、内臓が悲鳴を上げ始める。胃に捻れるような鈍痛が現れ、心臓が針で貫かれたように鋭く痛んだ。思わず呻き声が漏れる。
けたたましい咆哮が響く。全身が細かく揺さぶられて、バラバラに崩れてしまいそうだった。逃げないと殺されると直感は告げるが、足に力が入らない。身体の動かし方が思い出せない。
竜が血の花を跨いでゆっくりと歩み寄ってくる。
諦めの境地に座り込んで、ヒノエは思う。もうすぐわたしも母のように赤黒い花になるんだ。誰にも悼まれることなく、ただそこで朽ちていくんだ。あのザクロの木のように。
滲んだ視界のなかで、竜は唐突に空を見上げた。なにかを探すみたいに首を振ったかと思うと、今度は耳をそばだてるみたいに北の空を向いて固まる。そしてゆっくりと身体の向きを変え、強靭な足で柔らかい土を蹴って飛び上がった。両翼をはためかせ、最後には雲へ吸い込まれていくように、高いところに消えた。
悪い夢から醒めたような心地だった。しゃくり上げながら大きく息を吸うと、生きているということが強く感じられた。同時に、自分の置かれている現実が先ほどよりも重く伸し掛かってくる。悪夢が残していったのは、血の花と、千切れた一本の腕だけだった。
まもなく日が沈んで、辺りは闇に包まれた。
ヒノエは母の腕を拾い上げて、家まで持って帰った。村に顔を出そうとは思わなかった。村人たちに姿を見せる意味はないし、村の惨状をべつに見たくもなかった。おそらく村でも竜が人をたくさん殺したのだろう。そうでなければあの返り血の量に説明がつかない。どれくらい死んだのだろう。村長の息子は、死んだだろうか。あの老夫婦は、生きているだろうか。
寝床で横になっていると、思考を制止するようにまどろみが脳を覆った。ヒノエは現実から目を背けるように瞼を下ろし、現実を確かめるように冷たい母の腕を抱きしめて眠った。
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