29 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女②
ある日の夏の月夜のことだった。
その日は虫の鳴き声がよく聞こえて蒸し暑く、ヒノエは家のなかでひとり寝付けずにいた。汗を吸った服が身体に張り付いて不快で、そのうえ右手の甲を虫に刺されて痒く、意識をうまく暗闇に持っていけなかった。一度身体を起こして水を一杯飲み、また床に就くが、やはり眠れない。痒みを紛らわせるため虫に刺されたところに爪を突き立て、ぼんやりと考えごとに耽った。
母は、またいつか帰ってくるだろうか。帰ってきたとして、わたしはその時どんな顔をすればいいのだろう。笑顔でいればいいのか、それとも、露骨に不快そうな顔をしてみようか。母がわたしに「産むんじゃなかった」と言う時のように顔を歪め、鏡写しのように対峙するのだ。いずれにせよ母は機嫌を悪くするだろう。母が不快に感じているのは、わたしの感情ではなく、わたしの存在そのものなのだから。
じゃあ、母が帰ってきた時、わたしが家にいなかったらどうだろう。二日も三日も帰ってこなければ、心配してくれるだろうか。いいや、そうは思えない。現にわたしは母ともう何日も会っていない。そのあいだになにか思うところがあったならば、母はきっと帰ってきてくれる。でも、そうはなっていない。
つまりは、そういうことだ。
自分の存在が暗闇に溶けていってるみたいな気がした。このまま輪郭を失い、誰からも忘れ去られ、最初から存在していなかったことになるのだという実感があった。それはただ死ぬよりも恐ろしいことに思えた。誰かの記憶の片隅にすら自分の居場所がないことが、悲しくて堪らなかった。
痒みが和らいだ手の甲に、強く爪を突き立てる。痛いと感じている自分に、痛いよね、と自分の意識を寄り添わせる。ごめんね、と何度も自分に謝った。考えれば考えるほど涙が溢れてくる。もうなにも考えたくないのに、手の甲の痛みを超える痛みが頭のなかを占めていた。
井戸へ行こう。そう思った時だった。
虫の声に混じって、足音が聞こえてきた。この辺りで獣の類を見たことはないが、それは紛れもなくなにかの足音だった。
暗闇のなかで息を潜め、耳をそばだてる。歩行リズムは不規則で、鳴っている音は大きい。極限まで飢えた、体躯のいい獣のような歩調だ。あるいは、酩酊した成人男性のような乱れた歩調。いずれにせよそれは母ではないし、良い知らせでないことは明らかだった。
近くにいるのが何者であったとしても、ヒノエにできることは、黙ってそれが過ぎ去るのを待つことだけだった。なにか自分に害を加えるものでなければいいのにと祈りながら目を閉じる。心臓の音がうるさかった。しかし足音はそれよりも大きく聞こえてくる。
足音の主は近づいてきていた。足音はだんだんとうるさく、小刻みになり、やがて家の戸の前で止んだ。すると今度は荒い息遣いが聞こえてくる。これが獣であれば、戸を開けずに引き返してくれるかもしれない。目をきつく閉じ、そうであってほしいと祈る。そんな淡い期待は裏切られた。
戸が開いて、何者かが家のなかに入ってくる。獣ではないようだった。であれば、盗人かもしれない。
ヒノエは眠ったふりをして、嵐が過ぎ去るのを待った。侵入してきた何者かは、目的を持ってこの家に現れたように思えた。そのなにかしらの目的さえ達成すれば、何者かはそのまま去ってくれるかもしれない。そう思うしかなかった。でなければ、いったい自分はどうなってしまうのか。
這い寄る恐怖のなかで様々な可能性に縋り続けたが、その期待は尽く裏切られた。侵入者はまっすぐヒノエの元まで来て、汗を吸った服と肌の隙間に手を滑り込ませてきた。それは紛れもなく人の手だった。熱を持ち、指先の皮膚は硬く、爪は短く手入れされていた。手はなにかを探すみたいに身体中を弄ってくる。大きなミミズが這っているような不快感と恐怖に、ヒノエは声を上げることもできなかった。
肌の上を這っていた手はやがて胸のあたりで止まった。ヒノエの心臓が口からこぼれそうなほど強く脈打っていることに、侵入者は気付く。
「起きているのか」と男の声がした。顔に熱を持った息がかかる。
恐る恐る目を開ける。目の前に、四十路ほどの男の脂ぎった顔があった。興奮に息を荒らげ、口元には笑みが浮かんでいる。思わず叫び声を上げようとしたが、手で口を塞がれる。男の顔には見覚えがあった。男は、
どうしてこんなことを? どうしてわたしが?
様々な疑問が押し寄せては恐怖に飲まれていった。やがてその恐怖は目を覆い、涙を外に押し出した。
村長の息子は、ヒノエの涙に答えるように言った。
「恨むなら、ハルを恨むんだな」
村長の息子は、まだ日も昇らないうちに家を去っていった。その際、小さな袋を置いていった。
ヒノエは夜の深い闇の底で、呆然としながら自身に降り掛かった災厄の延長線上に座り込んでいた。抱えきれない恐怖と悲しみが、涙となって溢れ続ける。
嵐は去った。いまはそのことを喜ぼう。頭のなかで反復するものの、涙は止まらなかった。薄明時になっても心は落ち着かず、眠ることができなかった。嵐は、またやってくるかもしれない。そう思うと恐ろしくて仕方がなかった。
そのまま眠れず朝を迎えたヒノエは、汲んであったぬるい井戸の水を頭から被り、身体中から男の体液や皮脂を洗い落とすようにした。その時着ていた服を捨て、新しい服に袖を通す。身体は綺麗になった。しかし、負った傷は残ったままだった。それが元に戻ることは、もう二度とない。
いつものように井戸で水を汲んで、何度か家と往復する。それから、村の畑へ行って手伝いをさせてもらうように頼む。その駄賃として、食べ物を貰う。ヒノエがこの村で生きていくには、そうするしかなかった。一日でも欠かしてしまえば、すぐに見捨てられてしまう気がした。だからなにがあっても、どんなに嫌な顔をされても畑へは行かなければならない。
ヒノエがいつも手伝いに行っているのは、ある老夫婦の所有する小さな畑だった。その老夫婦はヒノエのことを気に入っていたが、それを良しとしない村人たちの目の敵のようになっていた。申し訳ないと思いつつも、ふたりを頼るしかなかった。非力でもこなせる雑用を終え、僅かな野菜を分けて貰う。それだけのやり取りも、時を経ると冷たく簡素になった。特にその日の老夫婦の態度は冷たいものだった。
なにか間違ったことをしてしまっただろうか。ヒノエはおずおずとふたりの顔色を伺う。
ヒノエの表情を見た老夫婦は、訝しむように眉をひそめて言った。
「生きていくためとは言え、そこまでするかね」
なにも言えず、立ち尽くすことしかできなかった。いったいなにが気に触ったのだろう。その答えは、家路についてから分かった。
貰ったものを抱えて歩き出すや否や、周囲の村人たちがヒノエに奇異の目を向け、ひそひそと話し始めた。聞こえないように話すわけではなく、ぎりぎり聞こえるような音量で村人たちは嫌味や噂を喋る。ヒノエにはそれが分かっていた。
「蛙の子は蛙ね」と誰かが言った。
聞くに、村長の息子がヒノエに手を出したことはもう噂として広まっているようだった。おそらくいつも手伝いに通っている老夫婦の耳にも届いていたのだろう。そのうえ噂には尾ひれがついて、ヒノエが村長の息子を誑かしたということになっていた。あのような下卑た人間でもこの村では有力者で、ヒノエはその権力に取り入ろうとしていると思われていた。ハルが村で嫌われていることも相まって、権力を持った村長の息子を糾弾する者は誰もおらず、ヒノエの味方はいなかった。
わたしがいったい、なにをしたというのだろう。
逃げるように家まで帰った。貰った野菜を適当に投げ出し、村長の息子が置いていった小さな袋をあけ、中身を確認する。入っていたのは、お金だった。それも大した量ではなかった。外からやって来る行商人から物を買う時以外、この村でお金の使い道はない。つまり、ヒノエには必要のないものだった。
こんなもののために、わたしは犯されなければならなかったのか?
わたしの価値は、この程度のものなのか?
考えれば考えるほど心は曇って、食欲も失せていった。
午後は暗くなるまで森のなかで過ごした。昨夜のことを思うと、もう家に帰るのも嫌だった。あの家だけが安らげる場所だったのに、それさえも失われてしまった。しかし帰らないわけにもいかない。空腹感が、ヒノエを家まで歩かせた。
日が落ちてしばらくしてから家に辿り着き、恐る恐る戸を開けた。空間に満ちている暗闇のなかに、誰かが立っている。ヒノエは思わず声を上げ、その場で腰を抜かしたように尻もちをついた。家のなかにいた何者かは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
恐怖に縛られて動けなかった。またあの男がやってきたのだ。わたしはまた尊厳を踏みにじられ、その価値を定められる。いまに熱を持った岩肌のような手が、蛇のように身体の上を這い始める。身体が震えて、涙が零れる。
眼球を潰すように強く瞼を閉じ、いまから起こるであろうすべてのことから目を背けた。声を漏らして泣きながら諦めのなかにいたが、その瞬間はなかなか訪れなかった。ゆっくりと目をひらき、戸の前に立つ人影を見上げる。そこに立っていたのは、母だった。ハルは難しい顔をしながらこちらを見下ろしていた。ヒノエはそれを見て、心の底から安堵した。きっと自分があんな目に遭ったことを噂で聞いて、助けに来てくれたのだと思った。気が緩んで、お母さん、お母さん、と何度も声を上げて泣いた。
ハルは返事をしなかった。滲んだ視界の隅、ハルの手元に、小さな袋が見えた。村長の息子が置いていった、あの金が入った袋だ。
それを見たヒノエは、すべてを悟った。自分がなんのために生まれてきたのかを理解した。その事実が、ヒノエを深い絶望の谷に突き落とした。喉の奥から、怨嗟と鬼胎が音となって溢れ出す。しかしそれは、どれひとつとしてハルの心を揺さぶることはなかった。
ハルは一言も発することなく、娘を避けて歩き出し、夜の森に消えていった。
ヒノエは家の前で座り込み、喉が枯れるまで大声を上げて泣いた。どれだけ叫んでも、ハルが戻ってくることはなかった。
泣き疲れたヒノエは、喉の痛みと空腹と眠気を抱えて、井戸へ向かった。心に灯っている火は、もう消える寸前だった。井戸の底の月が見たかった。そこに落ちてしまいたかった。それですべてを終わりにしてもいいとさえ思えた。
母が金を持っていった。母は、あの金を取りに帰ってきていた。きょう帰って来れば、家に金があると分かっていたからだ。
なぜ?
それは、他でもないハルが、ヒノエを村長の息子に売ったからだった。ヒノエを好きなようにしていいから、金をくれと言ったのだ。ハルは自分が使うための金を娘に稼がせ、持ち去った。
ヒノエは井戸を覗き込みながら思う。
わたしは、そのために生まれてきた。無償の愛や性的価値を誰かに搾取され、それを金に変える装置として、わたしはこの腐敗した小さな檻のなかに産み落とされたのだ。価値付けとして与えられた金も、また誰かに搾取される。そしてわたしには、なにも残らない。
井戸の底に救いを求めたが、そこに月はなかった。空を見上げても、月は浮かんでいなかった。その日は、新月だった。頬を伝った涙が、井戸の底へ吸い込まれるように落ちていく。雫の落ちる音が井戸のなかに響いたが、暗黒に広がる波紋は見えなかった。夜の静寂が襲いかかってくる。這い寄る闇が心を覆う。自身の存在を証明するものは、ここにはもうなにもなかった。
深い絶望の底で、ヒノエはひとり祈った。
誰かわたしを、救ってください。
神様でも、災害でもいいので、この村を、わたしごと壊してください。
その日は井戸の横でうずくまって眠った。いつも通りの朝が来ても、そこから動くことができなかった。身体を駆動させる心の火は、もう消えていた。
しかし、ヒノエの祈りは、思わぬかたちで叶えられることとなった。
村に竜が現れたのは、それから一ヶ月半後のことだった。
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