28 望まれなかった命たち――ヒノエと異国の魔女①
ヒノエの生家の横には、いつからそこにあるのか分からないザクロが植わっていた。誰に手入れされるでもなく、朽ち果てるでもなく、その木はただそこに存在していた。
ヒノエはザクロの実を見たことがなかった。当然、食べたこともない。家から見えるその木に、いつか実が生らないかと思い毎日のように眺めていたが、どれだけ季節が巡ってもその瞬間は訪れなかった。
ついにヒノエはその木に生った実を一度も見ることなく、十歳の頃に故郷の村を去った。
ザクロの実とは、いったいどんな味がするのだろう。それが村を出る際の心残りのひとつだった。
ヒノエの生まれは、シエリより遥か東方に位置する国パグジーヌにある、カヤナという村だった。豊かな自然のなかに拓かれた土地の恩恵を受けながら、そこに住む人々は農作や狩猟をし、家畜たちと穏やかな暮らしを送っていた。
カヤナの村は小さく、住民も多くないので、ほとんどが顔見知りだった。もちろんヒノエも例外ではない。
この村を支配していたのは、良いように言えば人と人との繋がりで、悪いように言えば同調圧力と、噂だった。ほとんどの村民は秘密を抱えずなんでも明け透けに話すことを美徳としており、それゆえ個人の抱える秘密は守られず、「絆を深めるため」という大義名分の下に晒された。嫌な顔を見せれば根も葉もない噂が清水のようにどこかから湧き上がり、二日もしないうちに村中へ流布されることになる。
時には事実がどこかから漏れ、尾ひれがついて広まることもあった。それはたとえば金の話であっても、性の話であってもだ。彼らには見境がなかった。
ヒノエは、カヤナの村に暗黙の了解のように存在している、個人の意志が尊重されない全体主義的な土地柄と、イレギュラーを仲間として認めず噂の力で排斥しようとする気風が、好きではなかった。精神的な領域に土足で踏み込まれるのはあまり気分が良くなかったし、ヒノエ自身は噂の力で排斥される側の人間だった。その主な理由は、母にあった。
母の名前はハルといった。華奢で顔立ちが良く、美しい黒髪が印象的な人だった。
記憶のなかのハルはほとんど家におらず、ヒノエはいつもひとりだった。父は一度も見たことがない。名前も知らない。ハル自身も誰がヒノエの父なのか分かっていなかったし、それが誰であろうとどうでもいいと感じていた。ハルは容姿が良かったこともあって、村の外で複数人の男と関係を持っており、ヒノエが産まれてからもその関係は続いていた。
つまりヒノエの父親は、そのなかの誰かということになる。
村人たちはそんなハルの素行に、陰口というかたちで苦言を呈した。なかにはほとんど罵倒のような言葉もあった。親としてどうなんだとか、魔性の女だとか、売女だの阿婆擦れだの、言いたい放題だった。罵詈雑言は村を歩けば嫌でも耳に入ってきた。そのなかにヒノエを憐れんだり慰めたりする言葉はひとつもなかった。村人からすれば、ハルもヒノエも同じ穴の狢だった。
ハルはまだ母ではなく、ひとりの女だった。子に対する無償の愛など持ち合わせていなかった。
ヒノエは孤独に耐え忍ぶことで、母に無償の愛を捧げた。家族という言葉が有する呪いのような力がヒノエをこの地に縛り付け、子から親への無償の愛は、また家族という関係性に搾取されるように空虚な家を満たしていった。ヒノエはそのなかで母から与えられているはずの愛の欠片を探し、縋るように貪った。しかし愛情に対する飢餓状態からは抜け出すことができなかった。
霞では腹が満ちない。それと同じことだった。母からの愛は、その程度しかここにはなかった。ヒノエが血眼になって探さなければ見つけるのは不可能だった。それもほとんど飢餓状態から来る錯覚のようなものだった。
見つけたものがほんとうに愛だったのかは分からない。でもそれがヒノエの存在意義を証明するひとつだった。当然、見つけられない日もある。ほんとうは母からの愛なんて存在しないのではないかと不安になる瞬間が度々訪れた。そんな日には真夜中に家を出て獣道を歩き、近くの井戸を見に行った。
暗い森のなか、その井戸は物言わず静かに佇んでいる。枯れているわけではないのだが、村人は誰もその井戸には近寄らない。だからヒノエはその井戸が好きだった。姿形は違えど、まるで自分のように思えて愛おしかった。
昼にも井戸へ行くことはあったが稀だった。ここに来るのは、ほとんどが夜だ。というのも、真夜中には井戸の底に張った水に月が映って美しく、そして井戸を覗き込む自分の頭が、水面の月を穿つように丸い影を落としているのを見ると、少し安心できたからだった。穿たれた月は、自分が確かな輪郭を持って世界に存在しているのだと教えてくれる。それはヒノエにとって大きな慰めになった。
ヒノエが八歳になる頃から、ハルが家にいる時間が増えた。とはいえ、べつになにか家事や作業をするでもなく、ただぼんやりとしているだけだった。どういった理由から家に帰ってくるようになったのかは分からないが、それは喜ばしいことだった。ヒノエにとってハルは母で、唯一の
ハルが帰ってくるようになっても、ヒノエの生活は変わらなかった。朝起きて、水を汲みに何度か家と井戸を往復し、無理を言って村人の農作業や雑用を手伝い、昼には摘んだ木の実や貰った野菜を食べ、午後には森を歩いて暇を潰し、陽が暮れてからは家で過ごす。そんな日常が続いた。
ハルは家のなかでほとんど喋らなかった。心ここにあらずといった調子で、なにか遠くを見つめるみたいにいつも外を眺めていた。視線の先には、ザクロの木がある。いったいなにを思っているのだろうかと気になったが、訊けなかった。発した言葉が自分と母の繋がりを断ち切ってしまうように思えた。母娘の関係はそれくらい危ういバランスの上にあるという直感があった。だからヒノエからハルに声をかけることもほとんどなかった。
母が帰ってきてくれて嬉しいと思えたのも最初だけだった。母娘としての会話がない空間は息苦しいもので、だんだんと家に帰るのが億劫になっていった。こんなはずじゃなかった、とヒノエは思う。とはいえ、どうすればいいのかも分からない。どうして帰ってきてくれるようになったのか、それを訊ねることさえ憚られるような空気が家には流れていた。
ちゃんと食事をとっているのかも気がかりだった。ハルはヒノエの前ではなにも食べなかった。元々華奢な人ではあったが、徐々に痩せていってるように窺えた。このままではいつか死んでしまう。そう思ったヒノエは勇気を振り絞り、火を通した野菜と貰った干し肉を木の皿に盛り付け、ハルに差し出して言った。
「お母さん、これ……なにか、食べないと……」
ザクロの木に向いていた視線がゆっくりとヒノエの方に向くと、ハルの表情はみるみる間に怒りに満ちていった。ヒノエはすぐにそれを察して後ずさったが、ハルは差し出された木の皿を手で払いひっくり返した。木の皿は床に落ちて乾いた音を立て、次の瞬間には世界から音という音が消えたような静寂が訪れる。
ヒノエは、ただ怯えていた。なにが気に触ったのかまるで理解できなかった。そんな様子を見て、ハルはさらに苛立った。そうなるとヒノエにはもうどうすることもできなかった。
「なんでこんなもの食べなくちゃならないわけ?」ハルが言った。
「あ……ご、ごめんなさい」
「いっつもオドオドして、なに? それにいまも、なにに謝ってるわけ?」
理屈や心配が母に届くとは思えなかった。なにを言っても無駄だという感覚が芽生えてくる。ヒノエは口を閉ざすしかなかった。なにか言えば言った分、自身を否定されることになりかねない。しかしハルは、なにも言わないヒノエにまた苛立ちを覚えた。
「はあ……ほんと……あんたなんか、産むんじゃなかった」
ハルは頭を押さえてそう吐き捨てた。理由も分からないまま親切心を踏み躙られたヒノエは深く傷ついたが、その場では涙を流さないように努めた。涙の一滴が落ちる音でさえハルを苛立たせることになりかねなかった。
その日からヒノエは、毎日のようにハルから罵詈雑言を浴びせられるようになった。なにか音を立てれば怒鳴られ、またべつの日には、音を立てないようにしているのが気に入らないと怒鳴られた。帰りが遅い日には自分を避けているのかと糾弾され、早く帰れば目障りだと罵られた。もはやヒノエの一挙手一投足が気に触る様子だった。
もう帰ってくるなと言われる日もあれば、いなくなってくれと言われる日もあった。そんな日は床に手をついて頭を下げ、ここにいさせてくださいと懇願した。ヒノエの居場所は、ここにしかなかった。他の場所で生きていく術を、ヒノエは知らなかった。閉じられた村の外の話は、なにひとつとして耳に入ってこない。
そんな生活が一年ほど続き、ヒノエの心は摩耗していった。もはや家のなかに愛の欠片のようなものはひとつとして確認できなくなっていた。事あるごとにハルはヒノエに産むんじゃなかったと吐露した。理由は分からなかったが、そう口にする時のハルの表情はいつもなにかしらの感情に歪んでいて、心から後悔しているように見えた。だからこそその言葉は、ヒノエに深く重く突き刺さった。
ヒノエが九歳になる頃から、ハルが家に帰ってくる頻度はまた減った。ヒノエは自分の心に風穴を空けて、いなくなろうとしている母に対して、消えてほしいとも思ったし、いなくならないでほしいとも思った。相反する気持ちが、心に空いた穴のなかで渦を巻いていた。
良くも悪くも、ヒノエと繋がっているのはハルだけだった。どれだけ罵詈雑言を浴びようと、ヒノエにとってハルは血の繋がった母だったし、頼りにできる唯一の大人だった。それに、肉親に対して消えてほしいというような感情を抱いてる自分を認めたくなかった。そんな人間でありたくないという気持ちが、ヒノエの心に蓋をした。母を責めるのはやめよう、きっとなにか事情があるんだ、と。
ヒノエが十歳になると、ハルはもうほとんど家に帰ってこなくなり、自分がこんな人間だから母は行ってしまったのだと、ヒノエは自身を責めるようになった。二年前と同じ状況に戻っただけのはずなのに、なにもかもが
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