27 これから死にゆくあなたに

 ヒノエは格子の隙間から、蔑むような冷たい視線をリヒナーに落としながら言う。

「どうしたんですか。そんな、いまにも泣きそうな顔して」


「いや」リヒナーは声を絞り出す。「昔の友人を……思い出してさ」


「ふうん。どうしてですか」

「……ちょうどいまのヒノエみたいに、怖い目で見られたことがあってさ」

「そうですか。その人とは、仲が悪かったんですね」

「……かもな」


 リヒナーは項垂れた。視線や表情から、ヒノエが怒っていることが分かる。言葉の吐き方も叩きつけるように荒く、嫌味に含まれる棘も鋭く感じられた。疲労した身体と、思い出のなかの冷たい視線に貫かれて砕けた心に、ヒノエの言葉はよく効いた。『その人とは、仲が悪かったんですね』。もはやその言葉を完全に否定し切るほどの自信はなかった。涙が零れそうになる。


「リヒナー」と優しい声がする。


 顔を上げると、目線と同じ高さにヒノエの顔があった。ヒノエは格子の向こうで屈み、真っ直ぐにリヒナーを見つめる。その瞳にはもう侮蔑するような冷たい光はなく、憐憫のような熱が感じられた。


「なんだよ」とリヒナーは吐き捨てる。


 ヒノエが言う。「どうして、こんなことをしたのですか。いつから、こんなことをしているのですか?」


「質問はひとつずつにしてくれ」

「……どうしてこんなことを?」

「どうして、か……そうだな」


 答える義理はない。そう思ったが、未来に対する悲観と頭に満ちる眠気が、リヒナーに言葉を紡がせた。どうせもう最後なのだからいいだろう、というふうに。


「僕はただ、『月の泪』が欲しかった……それだけだ……でも、いまにして思えば……べつに『月の泪』でなくたって、よかったんだろうな……僕が真に欲しているのはきっと、盗みをはたらいた際に得られる快感だけだ……僕の意志は、いつからかその快楽に逆らえなくなった……そしてその欲求は、留まるところを知らなかった」


 ヒノエは表情を変えず、リヒナーの目をじっと見つめながら、唇を結んで話に耳を傾けていた。


 リヒナーは続ける。「乗り越える障害が高ければ高いほど、後に得られる快感は大きい。僕のなかの怪物は、もう掏摸スリや万引きなんかじゃ満たされなくなっていた。だから僕は、名のある絵画を狙ったんだろうな……確かに、絵画には多少の理解はあった……でも、喉から手が出るほど欲しいってわけでもなかったんだ……」


 取り繕わない無垢な言葉が、次々に口からこぼれ落ちていく。リヒナーはその欠片のなかに、ほんとうの自分を垣間見ているような気がした。失うもののひとつさえ残っていない自分から出てくる言葉は、純粋な祈りみたいに空っぽの胸に響いて、懺悔のようにヒノエの鼓膜を揺らした。


「僕は、盗人だ。盗人は物を盗まなければ、ただの人ですらいられない……いや、人のふりをすることさえできない……だから僕は、盗まなくちゃならなかった。でもそれは、恐ろしくもあった……最初は、いつ誰かに見咎められてしまうんだろうって、それが怖かったのに、だんだんと変わっていった……終いには、これがいつまで続くんだろうって……僕は、いつまで物を盗み続ければいいんだろうって……それが、恐ろしくなった。心のどこかで、いつかこうなるって……いや……こうなってほしいと思っていた……誰か、僕を止めてくれって……」


「……破滅願望があったんですか?」ヒノエが言った。


「破滅願望……そうだな……そうかもしれない。僕にはもう、なにも残っていない。失うもののひとつさえ……スペスが、僕にとって唯一の……」

「スペスというのは、先ほど言っていた昔の友人のことですか?」


 リヒナーは黙って頷いた。


「仲が、よかったんですね」


 リヒナーはもう一度頷いた。


「盗みを始めたのは、いつからなんですか?」ヒノエは訊く。


 リヒナーは答える。「一五の時……二年くらい前だ」


「それは、どうして?」

「最初は、スペスを……友人を助けようと思って始めたことだった。あいつの家は貧乏でさ……無理して学校に通ってた。金もないのに、身の丈に合わないことして……普通の稼ぎじゃ、家計が火の車だったんだろうな……だからスペスの母さんが、物を盗んで生計を立ててたんだ。でも僕はある日……スペスの母さんが物を盗む瞬間を見てしまって……黙ってられなかった。そんなのだめだ、って……でも、言うんだ……僕がスペスと一緒にいるためには、こうするしかないんだって。だから僕は、物を盗むようになった……スペスの母さんが、もう物を盗まなくてもいいように……スペスが、学校へ通えるように……ふたりで、ずっと一緒にいられるように……」

「……そうだったんですね」

「でもいつの間にか、目的と手段は、入れ替わった……気付いた時にはもう、手遅れだったように思える……日を追うごとに、身に覚えのない物が、部屋に増えていった。僕は、窃盗症クレプトマニアだった。最後には、スペスの前で物を盗んでしまって……それを見咎められて……スペスが、さっきのヒノエみたいな目で、僕を見た……僕はなにも言えなくて……スペスも、両親も……僕を許さなかった……それから僕は、名前も捨てて、街を出た……もうあの街にはいられなかった」


「名前を、捨てた?」ヒノエが少し眉をひそめて言った。


「ああ」とリヒナーは言う。「リヒナーっていうのは……僕のほんとうの名前じゃない」


「ではあなたは……いったい何者なんですか?」

「さあ……僕にも分からない……僕はいったい、なんなんだろうか……」


 重い沈黙がやってきて、牢獄内をふたたび支配する。ヒノエはずっと同じ体勢で、リヒナーの目を覗き込んでいた。まるでそこに真実を探しているようだった。

 リヒナーは内心を吐露した恥ずかしさと自身が感じている情けなさを、このままだとヒノエに見透かされるような気がして、また項垂れた。


「それにしても」とヒノエは言う。「やっぱりリヒナーは、この街の人じゃなかったんですね」


「そういえば、言ってなかったな……騙して悪かった」リヒナーは項垂れたまま言った。


「……べつに謝っても、わたしはあなたをここから出す気はありませんよ」

「それでいい……ここにいれば、僕はもう物を盗まなくて済む。それに……どうせもう、歩けないしな……」


「その足……」ヒノエが慈しむように、リヒナーの足首に巻かれた包帯に視線を落とす。「……騎士に斬られたんですか?」


「ああ……痛くて、眠れないんだ……」

「……自業自得ですよ」

「分かってる……そうだよな……」

「言っておきますが、わたしは優しい人間ではないので、そんな傷を治せるほどの魔法は使えませんよ」

「……それとこれに、いったいなんの関係があるんだ」

「……リヒナーは、魔法が使えますか?」

「いや、使えないけど……そういえば、ゴールにも訊かれたな……それ」

「魔法というのは、鏡像の本質と結びつく、イメージの力です」

「……専門用語ジャーゴンで喋るのはやめてくれ。分からない」


 ヒノエは咳払いして言う。「人の心には、核があります。その人をその人たらしめるなにか……それが本質です。本質は、人の心のなかにある鏡に映る鏡像が有しているものです。つまり、わたしの鏡像が有する本質が優しさであれば、それと結びつくイメージの力を扱うことができる。優しさと結びつくイメージの力というのは、たとえば、治癒魔法とかです」


「……分かったような、分からないような」

「要するに、自己に対する理解が深ければ、誰でも自分と相性のいい魔法を扱えるということです。わたしと治癒魔法は、相性が悪いんです」

「そうか……だからあの時、苦しそうにしてたんだな」

「あの時?」

「僕が人に酔って座り込んだ時……治癒魔法をかけてくれただろ」

「ああ……はい、そうですね……」


「なるほど」とリヒナーは呟く。「どうりで僕は魔法を使えないわけだ」


「……ゴールは、なんと言っていましたか?」

「僕が『使えない』って言ったら、『だろうな』とだけ」

「ゴールにはお見通しだったみたいですね。あなたがどういう人間なのか」

「……そうみたいだな」

「でも、わたしには意外でした。わたしはあなたをもうちょっと賢い人だと思っていましたから」

「だったら、うまく騙せてたってことだな」

「……情に、絆されてしまったんですね」

「僕にとっては、それがすべてだったからな……非合理的だって言われても、僕はそうしただろう」

「その非合理性こそが、きっと人間の本懐ですよ」

「だといいな……だったら僕は、まだ人間でいられる……」


「スペスは、なんと言っていましたか?」ヒノエが訊く。


 ふたたび顔を上げてヒノエと目を合わせる。そこには慰めみたいな淡い光があった。リヒナーはそれに縋るように、素直に言葉を紡いだ。


「『失望した』って……当然だよな……」

「なぜ物を盗んでいたのか、スペスには言わなかったんですか?」

「ああ……言わなかった」

「それは、なぜ?」

「スペスには、なにも背負ってほしくなかった……自分のせいだとか、そういう気持ちをひと欠片でも抱いてほしくなかった……僕はただ、彼に平和な生活を送ってほしかった。僕が物を盗んでいた理由を知っているのは、スペスの母さんだけだ……街を出る前、彼女には誰にもなにも言わないでくれって頼んだけど、どうなっただろうな……」

「スペスは、あなたにとって大切な人だったんですよね?」

「そうだな……たったひとりの友達だった」

「ならあなたも、スペスにとって大切な人だったんじゃないんですか?」

「だといいな……」

「だとしたらわたしには、いまスペスが幸せに暮らしているとは思えません」


 リヒナーは何も言えなかった。


 ヒノエは言う。「あなたが隣にいないと、きっとスペスも寂しいですよ」


「どうだろうな……」

「両親だってきっと、いなくなったあなたになにか思うところがありますよ」

「それは……ないだろうな」

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「最後に家を出る前、言われたんだ……」

「……なにをですか?」


 リヒナーの頭のなかで両親の声が鳴った。目の奥が、鋭く痛んだ。


「お前なんか……産むんじゃなかった、って……」


「……そうですか」ヒノエは弱々しく微笑んだ。「じゃあ、わたしと一緒ですね」


「なにがだ……」

「わたしもよく母に言われました。あんたなんか産むんじゃなかった、って」


 なにかを思い出すみたいに、ヒノエの目に宿っていた光は弱くなり、ぼやけていった。リヒナーはその霞んだ光の奥に、夜の海のような底知れない暗闇を見た。それはいつか見た路地の闇に似ていた。


「なあ」とリヒナーが言う。「ヒノエの話も……聞かせてくれないか」


「はい……構いませんよ。もとより、ここにはそのつもりで来たので」

「なんだ……そうなのか」


 ヒノエは胡座あぐらをかいてその場に座り込む。

 リヒナーは歯を食いしばりながら足の痛みに耐えているのを悟られないように顔を伏せ、腕の力で身体をヒノエの近くまで引き摺り、格子にもたれかかった。


「わたし、ゴールにも、アリアさまにも、あなたにも、ひとつ嘘を吐いていました」ヒノエは言う。「わたしが故郷の村を出たほんとうの理由は、母を殺した竜に復讐するためではないのです」


「じゃあ、どうして」とリヒナーは口にしたが、おおよその見当はついていた。


 ヒノエは深呼吸をひとつ置いてから言った。


「いまから、お話しします。これから死にゆくあなたに、わたしの過去のことを」

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