26 望まれなかった命たち――リヒナーと貧しい友人④

 リヒナーが盗みを始めてからちょうど三ヶ月が経った冬のことだった。

 その日は初めて盗みをはたらいた時と同じように労働者へ賃金が支払われる日で、盗みには適していた。夜闇と人混みに紛れ、歓談に夢中になっている労働者のポケットから顔を覗かせる革袋を引き抜く。金がなくなっていることに気付かれる前に場所を変え、また同じように金を盗む。何度やってもその瞬間には心臓が高鳴った。その日は三人の労働者から金を抜いた。


 家に帰り、盗んだ革袋を自室の机に置く。革袋は、四つあった。

 リヒナーは眉をひそめる。きょう金を盗んだ相手は、三人だったはずだ。


 革袋の口を縛る紐を解き、ひっくり返して中身を確認する。いくつかの貨幣が天板の上で跳ねて、一枚が床に落ちて床を転がった。四つの革袋のうち、三つには紙幣と貨幣が混ざって入っており、残りのひとつには紙幣のみが入っていた。


 誰かが袋をふたつ持っていたのだろうか。ポケットのなかで横並びになっていたふたつの革袋を、一回で同時に盗んだのだのかもしれない。紙幣のみが入っている革袋は軽量で、意識しなければそこにあると認識できなくなる。話すことに夢中になっていると注意を払えなくなるもののうちの、大きなひとつだ。


 しかしそれは盗まれる側の話だ。盗む側がそれを認識できなかったり忘れてしまったりすることなどあるのだろうか。いや、ある。現にいまがそうなのだ。


 リヒナーは眼前の四つの革袋を少々気味悪く思うも、深くは考えないことにした。三つあるはずのものがふたつしかないとなると問題だが、四つある分には幸運なのだから。


 それからもリヒナーは盗みを続けた。掏摸スリを行なう日もあれば、店頭からアクセサリを盗る日もあった。盗る相手は選ばない。隙さえあれば、標的が金持ちであれ貧乏であれ関係なかった。すべてはスペスのためなのだと言い聞かせ、とにかく盗んでマリーの元へ持っていった。マリーには何度も感謝された。


 そのなかでリヒナーは、盗んだ覚えのないものが手元に増えていく恐怖を感じていた。それらは金にならないものがほとんどで、マリーに渡す意味もないので手元に残していた。盗んだ記憶はないが、物は確かにここにある。中途半端に酒の入った瓶、新品かどうかさえ定かでないヘアバンド、流行の過ぎた出版物。これらに共通点はないように思える。でもこれらは確かに自分が持って帰ってきたものなのだ。


 いったい、僕はなぜこんなものを盗んだのだろうか。いつ、どうやって盗んだのだろう。

 逡巡しても答えは出なかった。しかし、盗品は確かにそこに存在していた。


 自身が窃盗症クレプトマニアであることを自覚したのは、冬ももう終わる頃になってからだった。


 得体の知れないなにかが自分のなかで蠢いているような感覚がある日から肥大化し、リヒナーに図書を漁らせた。頼ったのは精神医学だった。自分は所謂いわゆる二重人格で、もうひとりの自分が知らぬ間に物を盗っているのではないかと推察したからだ。馬鹿げているとは思いつつも、自分のなかに巣食う怪物に名前を与えなければならないという切迫感から、必死で項を捲り続けた。そしてリヒナーは、紙面に書かれた自分を見つけた。


 窃盗症クレプトマニアとは、金銭的な価値もなく必要もない物を盗みたいという衝動的な欲求に抗えなくなる、精神疾患のひとつである。つまり大きな括りで言えば、アルコールやギャンブルの依存症や、躁鬱のようなものに分類される。物を盗む前の緊張の高まりが、実際に盗むことによって開放感に変わる。リヒナーは盗みを繰り返しているうちに、そのときに得られる快感の虜になっていた。


 彼の場合はそれに加え、精神的な乖離症状も併発していると見られた。精神の乖離は、強いストレスに晒された際の防衛反応として現れることがある。そうなると乖離中の記憶は抜け落ちたり、夢のなかの経験のように解釈される。罪悪感や窃盗行為が暴かれる恐怖から、リヒナーは自分の心を守る必要があった。


 では、いったいどうすればいいのか。どうすれば自分は、元の人間に戻ることができるのか。

 リヒナーは縋るように項を捲ったが、その本に答えは書かれていなかった。


 友人を助けるという目的を持っていた窃盗行為は、いつの間にか、自身を満たす手段になっていた。そうでなければ、酒瓶やヘアバンドなど盗む意味がないのだ。欲しかったのは物ではなく、脳内に分泌される快楽物質がもたらす幻想の幸福だったのだ。リヒナーはようやくそれを自覚し、そして、事の重大さに立ち尽くした。


 僕は、意志が弱いのだろうか。

 あるいは、僕に意志は存在しないのだろうか。


 人間は、無意識からの要請を意志によって否定することができる。スペスが自由意志について話してくれたときに言っていたことだ。しかし、いまのリヒナーはその限りではなかった。意志の介入もなく、無意識の促すままに窃盗をはたらいているのだから。


 いったいどうすればこの悪循環ダウンワード・スパイラルから抜け出せるのか、見当もつかなかった。盗みをやめればスペスは学業を修めることができなくなり、盗みを続ければリヒナーは自由意志を信じられなくなる。それはいずれにしても虚無に足を踏み入れることと変わらなかった。


 いつか盗みはやめなければならない。スペスが学校を出るまでは続けるが、そのときにスッパリとやめるために、盗みは回数を減らすべきだ。徐々に減らして、最後にはゼロだ。

 リヒナーは自身に言い聞かせ、意志の力で自分を制御しようと試みたが、日を追うごとにそれはもう手遅れなのだと実感させられた。


 不要なものが、部屋に増えていった。






「最近おかしいぞ、**」


 春先、夕暮れの帰り道でスペスが言った。リヒナーが盗みを始めてからもう半年ほどが経っているが、大通りの景色は変わらない。夕刻には人に溢れ、西日が差し、東に影が伸び、ふたりはその影を見ながら帰る。変わったのは、リヒナーだけだった。


「そうかな」とリヒナーは言う。


 スペスは言う。「なんか……うまく言えないんだけど、疲れてるっていうか……ボーッとしてる時間が増えた感じがする。休日も、最近は散歩ばっかりなんだろ? もっと**の楽しい体験が聞きたいのに、どうしちゃったんだよ」

「うん……ごめん」

「いや……べつに、謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、心配で……**の調子が悪いと、僕もなんか、気分があんまり良くないっていうか……なんだろうな……」


 スペスは思ったことをぽつぽつと話してくれた。ただ、自分の気持ちをまとめ上げて言語化するのは苦手なようだった。人間関係の構築に長けている感じがしない。それが不器用に見えて、愛おしく感じられた。まだ自分は人間で、スペスと繋がっているのだと思えた。


「なあ、なにかあったのか?」スペスが訊く。


 リヒナーは黙ってスペスの顔に目を向ける。いつもより眉が下がって見えた。表情にこそほとんど出ていないが、心配してくれているということが分かった。リヒナーにとってはそれがまた苦しかった。


「悩みがあるんなら、言ってくれてもいいんだぞ。相談にも乗るしさ。ほら……僕ら、友達だろ。ふたりで考えたほうが、絶対いいって」


 スペスは照れくさそうにはにかんだ。


 ほんの一瞬だけ言ってしまおうかと思ったが、言えるわけがなかった。マリーがスペスを学校へ通わせるために盗みをはたらいていたこと、それを見てしまったこと、そしていまはマリーの代わりに自分が物を盗んでいること。どれも事実で、どれも言えない。ひとつでも言葉にしようものなら、すべてが変わってしまう。マリーとリヒナーが繋いだスペスへの想いも霧散してしまうことになる。


 リヒナーにできるのは、なにも言わず曖昧に微笑むことだけだった。スペスが心配してくれているのは分かる。その想いを無下にしたくないという気持ちもある。が、やはり言えないものは言えない。


 やがてスペスが言う。「言いたくないんなら、それでもいいんだけどさ」


「ごめん」とリヒナーは言った。


 しばらくふたりのあいだに無言の時間が流れた。周囲の雑踏にも負けないほど、沈黙が耳に響く。

 バザールに差し掛かったタイミングでどこかから悲鳴が聞こえてきて、その静寂は破られた。


 その場にいた全員が声のほうを見た。なにかあったのだろうか、とその場にいた皆は思った。しかしリヒナーだけは違っていた。彼だけは、自分の頭のなかに響く声に耳を傾けていた。


『盗むなら、いまだ』


「魔物だ! 魔物!」


 南の路地から飛び出してきた狼狽する男が転びながら言った。その声を聞いて我に返る。ひとつ隣の通りから、老若男女の発する様々な悲鳴が上がり始めた。落ちた雫から波紋がひろがっていくように恐怖が伝播し、ふたりの周囲の人間も声を慄きながら駆け出す。リヒナーもそれに習いその場を去ろうとしたが、スペスは動かなかった。


「スペス?」とリヒナーが呼びかける。


「**」とスペスは神妙な面持ちで言う。「いま、ポケットになにを入れた?」


「え?」

「え? じゃなくて……いま、なにを盗った?」


 悲鳴が渦巻くなか、ふたりの視線がぶつかった。

 リヒナーは目を丸くして、目の前に散る火花を見た。それが本物なのか幻覚なのか、区別がつかなかった。ただ、視界は一瞬だけ真っ白になった。身体が動かず、声も出なくなる。自分という存在が、曖昧になっていくような感覚がした。


 リヒナーが声も発さず固まってしまったことに痺れを切らしたスペスが、彼のポケットに手を入れ、なかに入っていたものを掴み、引っ張り出す。その手のひらにあったのは、飾り気のない金の指輪だった。奇しくもそれは、あの日マリーが盗んだものとそっくりだった。


 これは、なんだ?


 リヒナーは目眩を感じた。

 こんなものを盗った記憶はない。でも、こういったことは何度もあった。嫌というほど身に覚えがある。盗った記憶はないのに、盗っていないと断言することができない。事実、物はポケットのなかにあったのだから。

 そしておそらく、スペスは僕がこの金の指輪を盗る瞬間を見ていた。だから彼は、こんなにも険しい表情を僕に向けている。


 違う。

 違うんだ。これは、スペスのために――


 様々な言い訳の言葉が頭に浮かんだが、ひとつとして声に乗って吐き出されることはなかった。

 ただスペスからは、蔑むような冷たい視線が向けられていた。

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