25 望まれなかった命たち――リヒナーと貧しい友人③

 盗みにも技術と才能がいる。それも一朝一夕で身につくようなレベルのものではだめだ。一度失敗してしまえばすべてが水泡に帰すのだから。


 マリーを説得して別れた後すぐに帰宅したリヒナーは、まず書斎で盗みについて書かれた本を探した。自身に技術があるわけでもなければ、盗人の知り合いがいるわけでもないので、とりあえずは本に学ぶしかない。しかし有用そうなものは本棚に見当たらなかった。それも当然だろう、ここは商売人の家なのだ。盗みについて書かれた本を置く道理はない。防犯等の観点から置いてあってもおかしくはないと思ったのだが、期待外れだった。


 夕食をとった後、自室に戻って椅子に腰掛け、机に頬杖をついて思考を巡らせる。

 小手先の技術や浅学の理論武装すら持たない自分が、明日から盗人として生きていくのにまず必要なものは何か。それは、小手先の技術や浅学の理論武装だ。こんなに簡単な問いはない。誰が考えても答えは明白だ。しかしいま、この場にはそれらを学ぶ方法がない。であれば、できることは限られる。


 たとえば、いま持っている知識を繋ぎ合わせ、盗みに応用することはできないだろうか。


 マリーが金の指輪を盗った時のことを思い出す。店主から離れた位置にある指輪を、鍬で掻くように隠して手に取り、そのまま袖にすべり込ませた。じっと観察していれば不自然に見える動きだが、あの場で気づいた者はリヒナー以外にはおそらくいなかった。知識がないので断定はできないが、マリーの盗みの手腕はそれほど優れているわけではないだろう。では、なぜマリーは店主や周囲の人間に気取られずに事を済ませることができたのか。


 重要なのは、小さな動きで素早く終わらせること。そして、注目されないこと。特に大事なのは後者だ。極端な物言いをすると、周囲のすべての視線を自分から逸らすことができれば盗みは容易になる。そんな場を用意できるのであれば完璧だが、そこまでする必要はない。盗みの瞬間が誰かの視野内に収まっていたとしても、注意が向けられていなければそれは成立する。手品師がそのようにして手品を成功させるように。


 しかしどれだけ考えてみても、マリーにそういった技術や知識が備わっているとは思えなかった。他方、彼女は実際に盗みをはたらき、きょうまでそれを見咎められていない。ただ運が良いのか、あるいは天性の才能を持ち合わせているのか、リヒナーにはよく分からなかった。なにせ盗みに関する知識が当のマリーよりも乏しいのだから、他人の腕を測ることなどできるはずもなかった。


 自分に才能があるのかないのか、運がいいのか悪いのかは、まだ分からない。いずれにせよ、もうやるしかないのだ。であれば万全を期す必要がある。そのためにはやはり知識と技術が要る。きょうはもう遅いので勉強を始めるのは明日からになるが、いまのうちに学ぶべきことと気になることについて頭のなかで整理しておくことにした。


 まず、物を盗る際の指の動かし方や、違和感のない振る舞いを身につけておくべきだろう。なにかを盗むには物の前まで行かなければならない。そして最後には、手を使わなければならない。至極当然のことではあるが、それこそがもっとも重要で、もっとも難しい。違和感のない動作で物に近づき、流麗な所作で盗みをはたらくことができれば注目もされづらいが、それを短期間で自分の血肉にするのは至難の業だ。技術というのは基本的に、正しい知識を以て行なう訓練の賜物なのだ。長い目で見なければならない。


 あと知っておきたいのは、手品師などが用いる技術のひとつ、ミスディレクションについて。人間の注意を意図的に逸らす手法として知られ、様々な分野で応用されている。

 たとえば手品師は、右手に観客の視線を集めているうちに、左手で手品の種を転がす。この、『右手に観客の視線を集める』ようなことができれば、その隙に空いた左手で物を盗むことも可能になるはずだ。おそらくこの技術は、掏摸スリなどにも利用されていることだろう。これも習得には訓練を要する。


 結局、なにを体得するにも時間がいる。とにかく明日は本を頼るところから始めるしかない。宛になりそうなのは、認知心理学といった分野だろうか。あとは、手品について深く知ることにも意義がありそうだ。もちろん盗みの指南書みたいなものがあればいちばんいいが、これにはあまり期待しないでおく。そんなものが大衆の目に触れる場所に置かれているとは思えない。あってもせいぜい文化や歴史に注目した書物くらいだろう。


 あれこれ考えて疲れたのでベッドに寝転がり、頭まで毛布をかぶった。頭のなかで様々な考えや不安、そして高揚が渦を巻いて、その日はなかなか寝付けなかった。






 翌朝、リヒナーは眠い目を擦りながら玄関ポーチのステップに座って、スペスが大通りに現れるのを待っていた。スペスが学校へ行くためにはリヒナーの家の前を通る必要があり、そのタイミングでふたりは合流し、一緒に登校するのが習慣になっていた。


 学校へ向かうにはまだ時間が早く、朝日から逃げるように西へ歩いている学徒はまばらで、大通りにいるほとんどの人間は職場へ向かう労働者だった。リヒナーはそれらを眺めながら、どうすれば彼らの持ち物を盗めるのかを考えることにした。


 目の前を通り過ぎた初老の男性は、よれた外套の襟を可能な限り立てて、少しでも風が肌に当たらないようにしているようだった。背中は丸く、頭には帽子をかぶっている。寒がりなのか頬が赤く、手袋をつけていない手で口を覆い、はあー、と息を吐き出した。まだ秋だというのに、ほとんど冬の装いだ。冬の到来と同時に死んでしまうのではないかと思う。そして、死んだ人間から物を盗めればこんなに楽なことはないな、とも思った。副葬品を狙った墓暴きが古来より横行していることにも納得がいく。


 そうじゃなくて、とリヒナーは頭を振り、いまの初老の男性から物を盗むにはどうすればいいかを想像する。


 たとえば翌朝もこんなふうに家の前で座っていると、同じ初老の男性が出勤のためにこの道を通る。時間も同じくらいで、周囲の人の数も同じくらいだろう。秋の空気は少し冷たく、大通りは朝日に照らされていて、人は疎らだ。盗みには向かない環境に思える。そのうえ、彼がどこのポケットになにを入れているのかさえわからない。しかし一度考えてみよう。まずは金になりそうなものを持っているか否かを見極めなければならないが、一旦それは無視することとする。彼が金持ちだとは到底思えないが、いろんな状況設定で考えてみるべきだろう。


 今朝の人通りの少なさから鑑みるに、人混みに紛れて掏摸を行なうのは不可能だ。であれば、一度正面から話しかけてみることにしよう。「おはようございます」「ああ、おはよう」「今朝は冷えますね」「まったくだ、まだ秋だっていうのに」こんなところだろうか。この会話中に、彼がどのポケットになにを持っているのかを探れないだろうか。難しい気がする。ならば、触ってみるのはどうだろう。「いい外套ですね。その……年季が入っていて。あ、でもここ、埃がついてますよ」そう言いながら外套のあちこちをポンポンと叩いてみる。なにか硬い感触のものが確認できれば、それを狙うとする。たとえばそれが外套の内ポケットに確認できたとしよう。これを盗むには、どうすればいいだろうか。


 またべつのパターンも考慮してみよう。外套のポケットにはなにも入っておらず、彼はお金を持ち歩いていなかった。ならば、どこかにアクセサリを身に着けていないだろうか……あの男性が、アクセサリを? そんなふうには見えなかったが。いや、仮に身につけていたとしよう。たとえば、ブレスレットだ。男性は右手首にあまり似合っていない金のブレスレットを着けている。この場合はどうするか。


 しばらく考えてみたが、妙案は浮かばなかった。やはり人から物を盗むには、圧倒的に知識が不足している。そもそも話しかけてしまっては顔を見られることになり、相手の印象に残ってしまう。慣れないうちはマリーのように、店頭から物を盗むことを優先して考えたほうがいいかもしれない。


 少し時間が経って、人通りも多くなってきたところで、リヒナーはこちらに向かって歩いてくるスペスの姿を確認した。立ち上がってステップを下り、スペスの隣に並んで、西へ流れる人混みに混ざり込む。


「おはよう」とリヒナーが言う。「んー」とスペスが返事をする。


 スペスは歩いている時いつも考え事をしているらしく、朝は脇から声をかけても気のない返事をすることがほとんどだった。そのせいでよく人とぶつかりそうになっているのを見かける。いつか大変なことになるのではと思い苦言を呈してみるものの、その癖はまったく治りそうにもない。


 溜息を吐いて、リヒナーが言う。「いつか人にぶつかるぞ」


「たしかに」とスペスは言う。「でも止まらないんだ。仕方ないだろ」


「僕は忠告したからな」

「はいはい。それで、昨日はどうだった?」

「なにが?」

「いや、昨日はなにしてたんだ?」


「昨日は」とリヒナーはそこで言葉を区切る。脳裏にぎるのは、路地の暗闇に輝くマリーの瞳だった。


「昨日は、散歩……散歩した」

「え? それだけ?」

「うん、それだけ……なんか、頭がボーッとしててさ」

「どうしたんだよ。らしくないな」

「そうかもな……でも、どうせひとりで釣りをしてもサーカスを見ても、つまらないんだよ。やっぱりスペスがいないと」


「なんだよ、それ」スペスは照れくさそうに笑った。






 手品師には破ってはならないとされる三つの原則がある。ひとつ、いまから起こる現象を説明してはならない。ふたつ、同じ手品を繰り返してはならない。そして最後に、タネを明かしてはならない、というものだ。これらの原則を破ることは観客に気付きを促しかねない。つまり、予測をさせてしまう。


 盗みにもほとんど同じことが言える。ただし、そこには観客が存在しない。当たり前だが、手品を見に来る人間は騙されようと思って席に着く一方、物を盗まれる人間は盗まれるために物を持っているわけではない。盗みは誰の感情も動かさないのが理想だ。その場では人を楽しませることもなければ、悲しませることもない。ただ現象としてそこに現れて消えるのみだ。まるでそよ風みたいに。


 なんて甲斐のない行為なのだろう、とリヒナーは思い、本を閉じた。

 しかし、そうすることでしか成せないことがあるのもまた確かだ。


 窓から赤い陽が差し込み、床に四角く光を落としている。死肉を啄む飢えた黒い鳥がどこかで鳴いている。

 放課後、学校の図書館にはリヒナー以外は誰もいなかった。一度スペスと一緒に家まで歩き、別れてからまた学校に引き返してきたので、もう時間も遅く、校舎にもほとんど人の気配がない。静寂に浸った夜と夕刻の狭間は不気味な時間ではあるが、人がいないのは都合がいい。


 いくつかの目ぼしい本に軽く目を通してみたが、結局それらの知識を盗みに活かすにはもっとよく咀嚼したうえで、自分なりに変換して出力する必要がある。『こうやって盗め』というような知識が得られない(盗みの指南書なんてものは当然なかった)以上、あとはもう手を動かすしかない。


 とはいえまだ時間はある。マリーは昨日盗んだ金の指輪を持って帰った。それを換金すればしばらくは生活できるだろう。実際に行動を起こすのは、もう少し先でもいい。


 陽が落ちて、灯りなしでは紙面の文字が判別できないほどに外が暗くなってから、リヒナーは図書館を出て帰路についた。道には職場から家に帰る労働者が多くいて、みんな背中を丸めて冷えた空気から身を守るように歩いている。


 自分も彼らのように労働で金を稼げればいいが、両親はそれを許されないだろう。両親――特に父は、学校教育を重要視しており、当然そこに金を払っている。学校を辞めて働くなんて言った日にはなんと言われることか。それに、学校を辞めてしまえばスペスとも一緒にいられなくなる。そうなっては本末転倒だ。学業を修めつつ金を稼ぐにはこうするしかない。なにかの手伝いで得られる小遣い程度の金では足りないのだ。


 しばらく労働者に混ざって歩いていると、彼らのなかにいつもとは違う空気感を覚えた。大きな紙袋を抱えて帰る者、酒瓶片手に酩酊している者、酒場に並んで入っていく者。彼らは銘々に歩いているように見えて、なにか暗黙の了解のなかにいるようだった。なんというか、皆どこか心が浮ついている。羽振りがいいのだ。


 そしてリヒナーは思い至った。彼らはこの日のために働いているのだと。労働の対価を受け取る、この日のために。


 であれば、彼らの羽振りがいいことにも納得がいく。いま彼らには持ち合わせがあるのだ。家へ帰る前に一杯引っ掛けていこうという者もいれば、買い物の大荷物を家族の元へ持って帰ろうという者もいる。


 だんだんと、この場に素面しらふでいるのが自分だけみたいに思えてきた。幸福に満ちた空間に迷い込んだ異物として、リヒナーは周囲に目を光らせた。頭のなかを占めているのは、盗みのことだった。この場でこのような悪心を持っているのは自分だけだろうという確信めいたものがある。素面でいるということは、狂っていることとほとんど同義であるように思えてくる。彼らが身体に鞭を打って稼いだ金を奪おうと目論んでいる素面の人間が、まともであるはずがないのだから。


 しかし、結局はどこかで行動を起こさなければならない。リヒナーは自分に言い聞かせ、周囲の人間を観察する。気になるのは、酒瓶片手に酩酊している男だ。アルコールで身体が火照っているのか、冬も近いというのに脱いだ外套を手に持って振り回していた。よほど機嫌がいいらしい。


 普段ならば絶対に近寄らない類の人間だが、きょうは別だ。道行く労働者たちのなかでも彼はひとりで、もっとも不用心に見えた。アルコールによって注意が散っていて、明日にはきょうの記憶さえ残っていないかもしれない。仮に盗みに失敗したとしても、まだ逃げられる可能性もある。


 酩酊している男がふらつきながら路地へ入っていくのが見えた。汚れた壁に手をついて奥の方まで歩き、まるでいつもそうしてるみたいにその場に座り込み、酒を胃に流し込んだ。それから長い息を吐いた。


 リヒナーは立ち止まってそれを見ていた。周囲の労働者たちは足を止めず自宅の方へ流れていく。大河のなかで、自分と酩酊したあの男だけが、止まった時のなかにいるようだった。


 酩酊男はしばらく深く呼吸を繰り返していたが、その場から動く気配はなかった。終いにはそのままの体勢で眠り始めた。


 チャンスだ、と思った。心臓が跳ねて、身体が強張る。やるなら、いまだ。


 リヒナーは少々時間を置いてから、周囲の視線を縫うようにして酩酊男の眠る路地に入った。夜の帳よりもさらに深い闇がそこには満ちていて、自分の心を映し出しているようだった。


 喧騒から息を潜めるみたいに、酩酊男は静かに眠っている。空っぽの酒瓶を足元に転がし、外套も石畳の上に放りっぱなしだ。


 リヒナーは足音を殺し、息を潜め、酩酊男に近づく。しゃがみ込んで、地面に敷かれた外套の生地を確認するみたいに撫でる。よく見えないが、触るだけであちこちに穴が空いていたり、糸がほつれていたりするのが分かる。ポケットの方へ手を滑らせると、硬い感触があった。ポケット内に手を入れて、掴んで引っ張り出す。金貨が一枚と、銀貨が二枚。それを握りしめ、自分のズボンのポケットに仕舞う。


 長く息を吐いて、酩酊男を観察する。まだ気持ちよさそうに眠っている。起きる気配もない。


 続いて酩酊男のズボンのポケットを弄ってみる。入っていたのは、紙束が入った革の袋だった。口が紐できつく縛られている。ほどいて、中身を確認する。十数枚の紙幣が入っている。心臓が大きく跳ねた。外にまで漏れ出しているのではないかというほど、心音が大きく鳴っている。左手を自分の胸にあてて深呼吸をしながら、紙幣の入った革の袋も自分のポケットに仕舞う。そして夜よりも深い闇に向かってリヒナーは歩き出した。靴音を鳴らさないように、罪悪感から声を漏らさないように。


 入った方から逆側へ路地を抜けて、リヒナーは家の方へ向かって駆け出した。


 これは仕方のないことなのだ、と自分に言い聞かせる。

 幸福の総和は決まっている。誰かが幸せになるためには、誰かが不幸になるしかないのだ。


 初めての盗みは成功した。終わってしまえば、呆気ないものだった。

 しかしそれから一週間、リヒナーはいつ自分の悪事が暴かれるのだろうかと気が気でなかった。スペスとの議論にも身が入らず心配された。


 次の休日になって、リヒナーは盗んだ金をそのままマリーに渡した。マリーには泣いて感謝された。

 盗んだ金も手放してしまえば罪悪感も薄まったが、冷静になって思い返すと、自分が金を盗んだあの酩酊男も、階級はマリーと変わらないのだ。翌朝目覚めた酩酊男は、賃金として受け取った金を失くしたことに気付いて、絶望しているかもしれない。


 でもそれは、マリーやスペスにも起こり得たことだ。リヒナーは自分にそう言い聞かせ、自分の行為を正当化するように努めた。


 そしてその次の日からリヒナーは、が外れたように物を盗むようになった。喉元を過ぎてしまえば、酩酊男から金を盗んだ時の高揚も少し恋しく感じられた。

 そんなことを続けていると、脳も心も麻痺していった。リヒナーは数ヶ月のあいだ、気付くことができなかった。少しずつ、自分が壊れていっていることに。

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