24 望まれなかった命たち――リヒナーと貧しい友人②
休日は街に出るとリヒナーは決めていた。学校でも家でも文字ばかり見ていると、目の奥のさらに奥、頭のなかの核のような部分が熱を帯びるような感覚がしてくる。それを冷ますためにも、長く外気に触れて気分を一新させたかった。自分は勉強ばかりの頭でっかちじゃないと、自分に言い聞かせるためでもあった。それにそうすることで、スペスに少し近づけるように思えた。リヒナーとスペスは、お互いにお互いを羨んでいる部分があった。
秋の晴れた青空は高く、空気は少し冷たく澄んでいた。リヒナーは石畳の大通りを行き交う人々の流れを縫いながら、特に宛もなく歩く。決めているのは『街に出る』ということだけで、目的地があるわけではなかった。先週の休日には釣りをしてみたが一匹も魚が釣れなかった。その前の週にはサーカスを見に行ったものの面白さがよく分からなかった。確かに感情を揺さぶられはしたが、それだけだった。
スペスがいれば、きっと釣りもサーカスも楽しく感じられただろうな、とリヒナーは思う。礼拝のため教会へ向かう人々の列を横目で見ながら周囲にスペスの姿を探したが、こんな場所に来ているはずもなかった。吐いた溜息は、雑踏に飲み込まれる前に子どもの笑い声にかき消された。
振り返ると、はしゃぎまわるふたりの子どもの姿が目に入ってきた。両方とも男の子で、どことなく顔が似ていた。おそらく兄弟だろう。ふたりはどこへ向かうでもなく、リヒナーの目の届く範囲で蝶のように自由に動き回っている。少し離れたところに、両親と思しき夫婦が上品に笑いながら歩いているのが見えた。
リヒナーには兄弟がいなかったし、両親がいっしょに外を歩いているのを見たこともなかった。だからその光景を少し羨ましく思い、そして疎外感を覚えた。まるで自分がこの場に不釣り合いな人間のように思えてならなかった。
いたたまれなくなって、早足で路地に入った。昼でも薄暗い路地にはゴミが散乱していて、それを目当てにしていた二匹のネズミが人の気配を察知し、小さく鳴いて奥へ消えていった。そうなると、もうここにはリヒナーしかいなかった。それはそれでまた寂しかった。
結局この日は、ただ街を散策するだけの日となった。日が沈み始め、赤く染まりつつある大通りを歩く人の数も減ってきたところで、リヒナーは踵を返し家路についた。
いまから、二時間かけて歩いた道程を二時間かけて戻ることになる。いったい僕はなにをやっているのだろうか、と自問するものの、自分のなかに明瞭な答えは存在しなかった。このことから得られる経験は、なんでも言語化できると思ったら大間違いだということだけだ。このことをスペスに伝えようと思っても、うまく言葉にできる自信がない。
傾く日に急かされるように早足で歩いていると、やがて道の両端に店舗の並ぶバザールに入った。もう夜も近いというのにどこの店の前にも店主がいて、客足も多く賑わっていた。通り抜けるのを面倒に思い路地に入り込もうとしたとき、人混みのなかにスペスの母親の姿を見つけた。
スペスの母はマリーといった。日々を靴の生産に費やしていることもあってか、着古されたよれよれの服に、肩の辺りで束ねた白髪交じりの長髪が、飾り気なく感じられた。全体としてはくたびれた印象を受けるが、目には鋭い光が灯っていた。それを見ると、やっぱりスペスの親だ、と思えた。
それにしても、マリーおばさんはこんなところでなにをしているのだろうか?
興味が湧いて、路地に身を隠しつつ少し覗き見てみることにした。スペスの家は裕福ではないが、マリーがバザールでなにを買うのかが気になった。
マリーが立っていたのはアクセサリ屋の前だった。棚にはシンプルな金属の腕輪から、クッションに鎮座する剥き出しの宝石などが置かれている。なかでもマリーが気にしているのは、もっとも手前に置かれている飾り気のない金の指輪だった。
リヒナーが真っ先に疑問として抱いたのは、スペスの家にそんなものを買うほどの余裕があるのか、という点だった。もしかすると存外、懐事情は明るいのかもしれない。そう思った矢先、マリーが金の指輪を、鍬で掻くように手に取った。そしてそれをそのまま袖にすべり込ませ、代金の支払いもせずその場を早足で去った。
自分の目を疑った。
スペスの母さんが、マリーおばさんが、指輪を、盗った?
マリーは振り返らず、早足でリヒナーが潜んでいた路地の前を通り過ぎた。
息が詰まった。まるで自分が悪事を働いたかのような罪悪感に包まれる。いったいなにをすべきなのか、よく分からなかった。しかし、なにもしないわけにはいかなかった。
おずおずと路地から身を出し、人の波をかき分けながら駆け足でマリーを追いかける。追いつきかけてはどう声をかけるか逡巡し、速度を落とした。見るに、マリーが物を盗むのは初めてではないように窺えた。手口は鮮やかとは言えないが、不慣れというわけでもなかった。
日がほとんど沈みかけ、人通りも疎らになったところで、マリーに声をかけた。
「マリーおばさん?」
リヒナーの声にマリーは振り返った。一瞬、怯えるような瞳を覗かせたが、すぐに作り笑いを浮かべて言う。
「**くん? どうしたの、こんな遅い時間に」
「ああ、いや」リヒナーも同じように作り笑いを浮かべる。「バザールで見かけたので、その……」
バザールという言葉を聞いて、マリーの顔は徐々に青ざめていく。額をひとすじの汗が伝う。
平静を装ってマリーが言った。「あら、そうなの? それがどうしてこんなところまで?」
「マリーおばさん」とリヒナーは真剣な面持ちで言う。「そんなに、苦しいんですか?」
その言葉を聞いて、マリーはすべてを察したようだった。緊張に引き攣っていた表情が徐々に和らぐと、やがて口元には笑みが浮かんだ。目元の鋭い光は跡形もなく消え失せ、瞳が曇る。マリーの心を覆ったのは、諦めだった。
喉になにかが詰まっているみたいな感覚がした。自分がマリーおばさんに――スペスの母さんにこんな顔をさせてしまったのだと思うと、胸が傷んだ。それでも、なにも言わず黙っているという選択肢はなかった。彼女が親友の母親であるからこそ、その悪事を見過ごすことができなかった。
「……向こうで、話せないかしら」
マリーが弱々しく笑い、路地を指差す。リヒナーが頷くと、ふたりは暗くなりつつある大通りよりもさらに暗い路地へ足を踏み入れた。マリーは早足で歩いていくが、リヒナーはこのまま奥へ進むともう明るい場所には戻れないような気がして、すぐに立ち止まった。背中に黄昏の残光を感じながら、路地の闇に半分飲み込まれた自身の影を見つめる。もう数歩奥へ進もうものなら、影は完全に闇のなかに溶けてしまう。それがなんだか恐ろしく思えた。
しばらくしてマリーは振り返り、リヒナーと向き合う。路地は静謐に満ちていて、人はおろか、ネズミや羽虫の気配すら感じられない。ただ暗闇のなか、淡く曇った眼光がリヒナーに向けられていた。
あらためて場所を変え向き合ってみると言葉に詰まったが、先に口火を切ったのはマリーだった。
「**くん。学校は、たのしい?」
想定外の質問を受けて、目の奥で光が爆ぜるような感覚がした。一瞬だけ真っ白になった頭を振り、マリーの質問に「はい」と小声で答える。
「そっか」とマリーは言った。「スペスは、うまく馴染めてる?」
今度は難しい質問がとんでくる。リヒナーの目から見るとスペスは、周囲の人間に溶け込めているかと言えばそうではないし、かと言って孤立しているわけでもない。周囲に馴染めない人間がふたり寄り合っているのを馴染めていると言えるのであれば答えは「はい」だが、マリーがなにを意図してこんなことを訊いてくるのか分からず、その胸中を勘繰ってしまう。盗みのことを煙に巻こうとしているのだろうか。
ふたりのあいだに沈黙と空白が広がっていく。それが弾けて夜へ消えてしまう前に、リヒナーはふたたび「はい」と答える。そう答えたほうが会話は続くように思えたし、マリーを落ち着かせてこの場に留めておけるような気がした。
マリーが弱々しく微笑む。「あの子、**くんのことばかり話すのよ。余程気に入ってるみたい。金持ちの子どもはみんな怠惰だけど、**くんだけは違う、って。**くんだけは真面目な話を茶化さないし、すこし難しい話も通じる、って。いつも聞いてるわ」
自分もスペスも同じように思っているのだと、リヒナーはこの時ようやく気がついた。そしてマリーがなにを言いたいのか、それも理解した。
マリーは、スペスが普通に学校生活を送ってほしいだけなのだ。夢という重圧を背負わせて送り出したものの、スペスはちゃんとそれに応えようと友人と楽しく勉強している。自分のためにも息子のためにも、その環境を変化させたり動かしたりしたくないのだろう。いまのスペスの居場所は学校で――特にリヒナーの隣であると言いたいのだ。
この状態を維持するには金を工面する必要があるが、手段を選べるほど彼女らは環境に恵まれていなかった。だからマリーは盗みを働いた。おそらくいまから、それを見なかったことにしてくれと頼まれることになる。**くんもスペスと仲が良いでしょう、というふうに。
確かにこの事実が明るみになれば、環境は劇的な変化を遂げる。マリーを擁する周囲の関係性は歪み、ただでさえ学校での立場が(貧乏であるために)それほど良くないスペスにも、奇異の目が多く向けられるだろう。しかも告発したのがリヒナーとなれば、スペスとの関係も壊れてしまうかもしれない。それは避けたかった。
しかしそうなると、マリーの盗みを黙認することになってしまう。リヒナーとしてはそれを許したくはなかった。悪事を働いた者には相応の罰が下るべきだという考えからそう思ったし、こんなことを続けていればいずれは見つかってしまうから、いま止めさせなければならないとも思った。今回はリヒナーが見つけたから話し合いに発展したものの、他の人間に見つかればそうはいかないかもしれない。裏を返せば、そうでもしないと家計は苦しいということでもある。このようなリスクを取ってまで物を盗らなければならないほど、マリーの家は切迫しているのだ。リヒナーはそれに気付き愕然とした。
すべての問題を解決し、この場を丸く収めることは不可能なように思われた。マリーが盗みを止め、スペスが学校へ通い続ける。ただそれだけのことが、高い壁となって立ちはだかった。
金か、あるいは金になるもの、そして食べ物があればいいのだ。
父に頼んでどうにかしてもらえないだろうか。家は裕福で、あとひと家族を養えるほどの金はあるはずだ。しかしだからと言ってその金を払いはしないだろうとも思う。結局、父からすればマリーは他人で、階級も違う。わざわざそんな人間に手を差し伸べる理由がない。たとえそれが息子の親友の家であったとしてもだ。
マリーとリヒナーのあいだには長い沈黙が流れていた。そのなかでリヒナーは、すべての問題を解決する方法に思い至った。頭の奥で白い閃光が瞬くと同時に、心臓が鉛のように重く感じられた。思いついた手段は、分の悪い賭けだった。しかしそうすればマリーは物を盗まなくて良くなるし、スペスも学校へ通い続けられる。
これはスペスのためでもあり、自分のためでもある、とリヒナーは自らに言い聞かせる。スペスが奇異の目に晒される可能性を排除し、ふたり一緒に学校生活を送るには、こうするほかないように思えた。他にも手段はあるはずだがなにも思い浮かばない。でも、いま言わなければならない。状況は予断を許さないように感じられた。視野が狭窄する。足元の影が、路地の闇に飲まれていく。
「マリーおばさん」とリヒナーは言う。「もう盗みはやめてください。スペスが知ったら、きっと悲しみます。スペスが学校へ行くためにやっていると知ったら尚更です。だから……」
「だったら」とマリーが声を震わせて言う。「だったら、どうすればいいの……? 働いても働いてもわたし達の生活は苦しい。スペスを学校へ通わせるためにはどうしてもお金が要る。スペスが**くんと一緒に居るためには、こうするしかないのよ」
どこかでこんな
この世には取り戻せないものが四つある。口から出た言葉、放たれた矢、過ぎ去った人生、そして、失った機会。
リヒナーはすべての問題に対する解を口にするか否か迷っていた。口にすればもう後戻りはできず、行動を起こすしかなくなる。しかし、いまここで口にしなければ機会を失う。いずれにせよ、マリーの悪事を知ってしまった以上、後悔を抱えてこれからを過ごすことになるだろう。矢のように過ぎ去る人生を、あの時言えばよかった、あるいはあの時言わなければよかったと思いながら。
言うか言わざるかを最後に決めるのは、結局は自分の意志だ。そこにはやはり責任が伴う。吐いた言葉には責任が乗り、すべてが元には戻らない。だから、慎重に決断をする必要がある。「やっぱりやめた」は通用しない。それはマリーやスペスに対する一種の裏切りになってしまう。そして、裏切らないように強く決意をするのも、また意志の力だ。
リヒナーは固く結んでいた唇をひらき、深呼吸を置いてから言った。
「僕が、盗みます。盗んだものを、マリーおばさんの家まで持っていきます。だから、もう、盗みはやめてください」
路地の暗闇の向こうに、困惑するマリーの瞳が見えた。リヒナーはその目に灯る光を、真っ直ぐに見据えていた。
こうしてリヒナーは盗人になることとなった。彼が一五歳になる秋のことだった。
友人への善意から始まった盗みは、時を経ると、思いも寄らないかたちに変容していった。その時までリヒナーは、意志の力を信じていた。
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