23 望まれなかった命たち――リヒナーと貧しい友人①

「**は、自由意志についてどう思う?」


 友人のスペスが言った。それが議論を始める合図だった。


 リヒナーの生まれは、海を臨む大きな街の裕福な家だった。親は貿易商をしており、勉強や教育に対する理解を持ち、そこへ対して金を払うことに惜しみがなかった。逆説的に言えば、金があるからこそそんなことが可能だった。絵画や本といった、いわゆる文化資本を大きな邸宅に蓄え、その知識の集積を子に与えた。リヒナーはそれを正しく受け取って咀嚼し、解釈した。


 そういった家庭環境もあり、リヒナーは真面目に学校へ通い勉学に励んでいた。ほとんどの同年代は自らが恵まれた環境にいることを自覚せずに、与えられた幸福を飲み込むだけの生活を謳歌していたが、たったひとりだけリヒナーと同じように志す少年がいた。


 彼はスペスといった。

 スペスの家はリヒナーとは対象的に、貧しい家だった。家までの距離は学校から遠く、ほとんど街の外れみたいな場所に建った、まるであばら屋のような様相のものだった。両親はそれぞれ肉体労働と靴の生産に従事し、ほとんどの労働階級がそうであるように、苦役と重税に喘いでいた。おそらくふたりは学校教育を受けていない。だからこそ、勉強が重要なのだと考えているようだった。自分たちにはないものがそこにはあり、そこでそのなにかを得ることができれば、子どもはこんな生活をしなくて済むと、そう思っているらしかった。


 両親は身を切る思いでスペスを学校へ通わせた。これもスペスのためだと自らに言い聞かせた。その声が届いたのか、スペスはあらゆる事柄に興味を示し、気の赴くままに疑問を持ち、知識を求めるような少年になった。本から学び、師を仰ぎ、友人と意見を交わした。両親はさらに労働に励んだ。


 そんなスペスの目下の興味は、自由意志のことらしかった。

 学校からの帰路、夕日を背に受け、足元の石畳に伸びる影を見ながら、リヒナーとスペスは歩いていた。街を南北ふたつに分断するみたいに東西へ真っ直ぐ伸びる道には、様々な人々の往来があり、賑わっていた。ふたりはその大きな通りの喧騒のなか、話を始めた。


「自由意志?」とリヒナーは言った。


「そう、自由意志。自発的に意思を持ち、それによって、なにかを成そうとする力。それが自由意志。本で見たんだ。べつに自由意志について論じる本ではなかったから、軽く横道に逸れるみたいな感じで書かれていたんだけど、それが面白い話だったんだよ。あんまり深く踏み入るには、難しすぎるみたいなんだけどさ」


 うん、とリヒナーは返事をし、話の続きを促す。スペスは続ける。


「人間は、各々が自由に選択を行う主体だ。足元から放射状に伸びる、無限にある道のなかから、ひとつの可能性を選び続けて僕らはいまにいる。もまた、無限への分岐点だ。僕らは自由意志を以て、その分岐点で選択を行い続けている。自分の意思こそが自分の運命を切り開くんだって、みんなそう思っている。でも、ほんとうはそうじゃないかもしれないんだ」


 スペスがニヤリとしてリヒナーの方を向く。ここまでが導入ということらしい。どうだ、とでも言いたげな表情をしている。


 少々癪な感じもしたが、スペスという人間がどういう人間なのか、リヒナーにはよく分かっていた。教えてやろうという傲慢な考えから彼はこんなことを言っているわけではなく、これについてふたりで話し合ってみたいという純粋な好奇心が彼を饒舌にさせているのだった。


 リヒナーは、スペスが自分以外の人間になにかを饒舌に語るのを見たことがない。リヒナーもまた、スペス以外とこんな話をしたことはなかった。お互いにとってお互いは良き友人であり、少し特別な存在だった。


「面白い」とリヒナーは言った。実際、興味深い話だった。


「だろう!」とスペスは満面の笑みで言う。「**なら絶対に食いつくって自信があった」


「それで?」とリヒナーが続きを促すと、スペスが言った。


「たとえば、いま、僕らは歩いている。もちろんこれは僕らが歩こうと思って歩いているわけだ。なにかに動かされてるわけじゃない。実際になにが起こっているのかというと、僕らが自発的に足を動かそうとしたとき、脳内にが起こって、それから一秒もしないうちに筋肉の運動が始まり、ようやく一歩を踏み出している。そういったことを繰り返して、いま僕らは歩いている」


って、なんだ?」

「僕が読んだものには、脳を通っている魔力の変化だとか書かれてた」

「魔力? じゃあ魔法の使えない人間にも、脳には魔力が流れてるっていうのか?」

「書かれていたことを鵜呑みにすると、そういうことになるな」

「怪しいもんだな。よく分からないものを魔力って言ってるだけなんじゃないか?」

「そういう可能性もある。けど、とにかく脳に変化が生じているのは確かみたいなんだ」

「ふうん……でも、それがなんなんだ? べつになにもおかしい話じゃない。結局は動かそうと思って動かして、歩こうと思って歩いているわけなんだろ?」


「面白いのはここからなんだ」とスペスは言う。

「いま言ったなかで大事なことはふたつ。ひとつは、自発的に足を動かそうとしたとき、脳内を流れる魔力に変化が起こること。もうひとつは、その変化があってから一秒もしないうちに足の運動が始まること」


「うん」リヒナーは自分の足の動きを意識しながら、気のない返事をした。


「このことから、意識的な意志が生じる時点も、そのふたつとはズレることが推測される」

「意識的な意志が生じる時点?」

「『足を動かそう』って意志が現れる時点。『動かすぞ』って思った瞬間のことを言ってる」

「つまり……その『動かすぞ』って思った時点と、脳内の魔力の変化が起きる時点と、運動が始まる時点には、それぞれズレがあると推測されるってことか」

「そう! そしてそれらは、実際にズレているみたいなんだ」


「ほお」リヒナーは半分関心、半分疑心を持って言う。


「ここで問題になるのは、そのズレている三つの時点――意識的な意志が現れる時点、脳内で魔力変化が起きる時点、運動が生じる時点――がどのような順序で生じるかだ」

「ふつうに考えれば、まず『動かすぞ』って思ってから脳の魔力変化が起きて、それから運動の開始だろう」

「そう思うだろ? 僕らの直感ではそうだ。でもそれは、僕らが勝手にそう感じているに過ぎない。実際には、違うんだ」

「そうなのか」

「実際には、まず脳の魔力変化が起きる。それから意識的な意志が現れて、運動が始まる。僕は最初に、脳の魔力変化が起きてから一秒もしないうちに運動が始まるって言ったけど、『動かすぞ』っていう意志は、その一秒にも満たない間に現れる」


「運動が開始される条件である脳の魔力変化は、意志が生じるよりも前に開始されている」リヒナーはスペスの言いたいことを頭のなかで整理し、自分に言い聞かせるように声として発した。


「そう! それはつまり、意志は自発的な運動を起動させていないことを示している。脳の魔力変化は、意志が生じるよりもずっと前に、無意識から始まっているんだ」

「無意識がいま僕らの身体を動かしているっていうのか?」

「そのとおり。すると、そこには自由意志がないように思われる。でも、まだ絶対に自由意志がないと言い切ることはできない。事実、この世界は無意識の氾濫による無規範状態アノミーにはなっていない。僕らは理性を持って、己を律している。まあ、そうとも言えない奴らもいるけど、少なくとも僕と**は人として正しくあろうとしている。だろ?」

「まあね」

「確かに無意識は脳に魔力変化を起こして、運動を生じさせる。でも、さっきも言ったけど、それまでには一秒にも満たない時間がある。そしてこの僅かな時間に、意志という関所があるわけだ」


「ああ」とリヒナーは思わず声を上げる。「無意識からの命令を通すか通さないかは、意志に委ねられているってことだ」


「そう! そうなんだよ!」スペスは興奮を抑えきれない様子で言う。「無意識からの命令を通す関門の開閉は、僕らの意志がやる。となると、自由意志は、すでに始まっている脳の魔力変化を運動として生じさせるか、あるいは停止させるかを選ぶというかたちで存在していることになる」


「でも、そうだとするならおかしいことにならないか? 自由意志によって無意識からの命令を拒否することができるっていうんなら、その『拒否』はいったいどこから現れたものなんだ。これも無意識から現れたものということになるんじゃないか?」

「そのとおり。突き詰めるとそういうことになってしまう。無意識から湧いたものを拒否するのもまた無意識というなら、結果的に自由意志は存在せず、人間が自由に選択を行う主体であることも否定され得る。僕らは無意識の要請によって動いたり止まったりしているだけで、自分の意志で行動しているという錯覚のなかにいるわけだ。であれば、そこには『責任』も存在しないことになる」


「なるほど」リヒナーは腕を組んで、小さく身体を左右に揺らす。「理解はできるけど直感とズレすぎていて、頭がおかしくなりそうだ」


「なあ」とスペスは言う。「**は、自由意志についてどう思う?」


 前提の共有を済ませると、ふたりは自由意志について話し合いを始めた。それはまさに暗中模索と言えるような作業だったが、ふたりにとっては、未知の迷宮に挑んでいる探索者が抱くような高揚感を覚える時間だった。東西へ真っ直ぐに伸びる大きな道のなか、真っ赤な夕日の熱に背中を押され、ふたりだけが迷宮を彷徨い歩いていた。


 夢中で話しながらしばらく歩き、少し身体が火照ってきた頃、大通り沿いにリヒナーの家が見えてきた。貿易商の親が建てた、文化資本の詰まった豪奢な邸宅だ。リヒナーは別段その家が嫌いなわけではないが、まだ帰りたくないという気持ちから歩く速度を少し落とした。スペスも歩幅を合わせ、ふたり並んでゆっくりと歩く。お互いに、まだ話し足りなかった。こんなにも面白そうな話題をここで打ち切ってしまうのが、心底勿体ないように思えてならなかった。おまけに明日は休日で、きょう別れてしまえばこの話の続きができるのは明後日になってしまう。それが名残惜しかった。


 家の前まで辿り着くとリヒナーは来た道を振り返り、スペスに向き合う。夕日の眩しさに思わず目を細めると、それを見たスペスが笑った。まだ喋りたいことは山ほどあるのに、立ち止まって向き合っていると寂しさに喉を塞がれてしまい、言葉が出てこなくなる。迷宮の出口はこんなふうに、いつも静かでつまらない。


「それじゃあ」と先に言ったのはスペスだった。「また明日」


「明後日な」とリヒナーは言う。


「ああ、そうか。じゃあ、また明後日話そう」

「うん。それにしても、どこでそんな本見つけたんだ?」

「母さんが知り合いから貰ったって、持って帰ってきた」

「へえ。マリーおばさんの知り合いは選書のセンスがいいな」

「確かに。まあ、**の家ほどじゃあないけどな」

「なんだそれ」

「僕は**の家が羨ましいよ」

「暇なら来ればいいのに」

「貧乏暇なしとはよく言ったもんで、実際、休日だからって暇なんてことはないんだな、ウチは」


 そうか、とリヒナーが言うと、スペスは歯を見せて笑った。それからあらためて「じゃあな」と簡素に別れの言葉を投げ合い、ふたりは別れた。

 だんだんと遠ざかって人混みのなかに埋もれていく友人の背中を、リヒナーはしばらく見守っていた。スペスが家に着くのは日が暮れてからになるだろう。


 リヒナーはスペスの姿が見えなくなってから、戸をあけて家のなかに入った。火を通した白身魚と香辛料のにおいが、温かい空気とともに鼻まで運ばれてくる。夕飯の支度をしている母の鼻歌が微かに聞こえる。自分が恵まれた環境にいることを思い、そして、ひとり帰り道を歩くスペスを想った。


 人は生まれながらにみな平等だと誰かは言う。そんなものは、嘘でしかない。

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