22 少年少女の回顧

 耳がいいのも考えものだ。迫ってくる敵をいち早く察知できる場合もあれば、知りたいこと以上にものを知ってしまう場合もある。ヒノエは暗い部屋のベッドの上で、ぼんやりとそんなことを考えていた。


 もうすぐゴールとアリアが出ていってから三十分ほどになるが、戻って来る気配はまったくなかった。部屋に充満する夜の静寂が耳障りで、まるで耳が聞こえなくなってしまったみたいな感覚に陥る。


 ふたりは海を見に行くと言っていた。ヒノエには言えない話がある、ということらしかった。

 ヒノエはゴールのために水を持ってこようと一階へ下りたときに盗み聞いたふたりの会話を思い出しながら、溜息を吐く。


 アリアさまには、五年いっしょにいたわたしには言えなくて、一週間くらい前に初めて会ったゴールには言えることがあるんだ。


 べつにアリアを疑っているわけでも、嫌いになったわけでもなかった。ただこの穴の空いた家に置いていかれて、自分も胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになっていた。おそらくふたりは気を遣ってこんな夜更けに家を抜け出して海へ向かったのだろう。気付かれないよう、心配させないようにそうしたのだと自分に言い聞かせるが、胸に空いた穴へ煙が入り込んできているみたいな苦しさを覚えた。大きく息を吸い込んで、その憂鬱の煙も巻き込んで溜息として吐き出そうと試みたが、うまくいかなかった。


 どうしてこんなに苦しいのだろう。なにがそんなにつらいのだろう。

 ヒノエは部屋を覆う暗闇を見つめながら思考を巡らせる。


 単純に、こんな夜更けにひとりでいるのが寂しかった。ほんとうはここにいる筈のふたりがいないことで、空っぽの家はさらに空虚に感じられる。その虚ろのなかにひとり置かれていると、いま感じている寂しさが、音として聞こえてくるようだった。静寂は胸に空いた穴によく響いた。それが苦しかった。


 そのうえ、夜中にひとりで家にいるというこの状況が、昔のことを想起させた。

 遥か東国の小さな村に、暗い部屋でひとり床に就き、虫の鳴き声に囲まれ眠れない夜を過ごす十歳の頃の自分がいる。母はその夜も戻ってこない。父は生まれてから見たことがない。しかし近寄ってくる足音が聞こえてくる。そこから歩調や体重、興奮や背徳が感じ取れる。不快で下卑た足音だ。


 ヒノエはベッドから身体を引き剥がすように勢いよく起き上がり、扉の方を睨みつける。近寄ってくる足音はないが、不安に駆られ身体が反応した。心臓が跳ねているみたいだった。

 だいじょうぶ、と自分に言い聞かせる。確かにあの男は竜に殺されはしなかった。でも、だからといってここまで追いかけてくる筈もない。あの男にも村での立場がある。


 アリアとゴールが、あるいはその片方でもいいから、この場にいてほしかった。自分が見つけた自分自身を、ふたりに打ち明けたかった。そうすることでふたりと深く繋がれるような気がしていた。そんな矢先、ヒノエはここに置いていかれた。アリアに抱きしめられたことを思い出し、ゴールに耳の治療をしてもらったことを思い出す。ふたりの手は温かかった。あの熱は嘘じゃなかった。アリアに抱きしめられることで自分の形を理解し、ゴールと心を通わすことで鏡に映る修羅を御した。しかしその予熱は失われつつあった。自我が揺らぐ。耳鳴りがする。足元に亀裂が走り始めているみたいな感覚を覚える。


 居ても立っても居られなくなり、ヒノエは部屋を出た。アリアとゴールに会いたかったが、いま海へ行くのはふたりの気遣いを無下にしてしまうような気がして憚られた。でも知っている誰かに会いたかった。ひとりでここにいたくなかった。こうなると、ヒノエがこの街で知っている人間は限られる。そのうえで居場所が分かる人間はひとりしかいない。


 きょうの昼頃に道で聞いた話だと、昨夜、脱獄犯ゴールと竜の出現に紛れて、火事場泥棒が現れたらしかった。彼はフォボス城へ忍び込み、『月の泪』という絵画の窃盗を試みたが、ギヨームという騎士によって捕らえられたとのことだ。ゴールを追って中心街へ向かう途中、アリアが道端の騎士に「盗人が現れる」という旨を伝えたことが功を奏したようだった。騎士は話半分にそれを聞きながらも、いちおう警戒していたのだろう。シエリの調律騎士団は優秀らしい。

 そしてその盗人はいま、東海岸付近の地下牢にいるらしかった。そこは重犯罪者が収容される牢で、近いうちに処刑が執り行われるような悪人が幽閉されている。たとえば最善世界律を破る思想犯や、城へ侵入し盗みを働くような悪人が。


 ヒノエは階段を下り、壊れた扉を通って外に出た。月は眩しく、春の夜の空気は冷たい。足元を確かめるみたいにして歩き始める。どれだけ歩いても地面は崩れたりしない。夜風が背中を押す。暗闇を切り裂くみたいに駆け出す。周囲に人の気配はまるでない。


 きょうを逃せば彼には二度と会えない。アリアとゴールが戻ってくるまでに話をして帰ろう。ふたりにはもう心配も迷惑もかけたくない。


 だから早く、リヒナーに会いに行こう。






 地下牢に幽閉されてから丸一日ほど経ったが、リヒナーはまだ一睡もできていなかった。瞼は重く、頭痛がするほど身体は睡眠を欲しているが、斬られた足の痛みがそれを許さなかった。


 騎士に捕らえられた後、事務手続きみたいに消毒と止血が行われ、いまは両足に包帯が巻かれている。治癒魔法は施されなかった。これでは歩くこともままならない。いずれにせよこのまま処刑されるのだから大した治療はいらないという判断だろう。どうせ悪党なのだから放って置いても構わない、というふうに。


 地下牢内は薄暗く、湿った空気が満ちていた。反省を促すみたいに鼻の奥までかび臭さが入り込んでくる。ここにはゴールを脱獄させるときに来たことがあったが、覚えのないにおいだった。


 格子の向こうには、長い廊下を徘徊するふたつの火球があった。これには見覚えがある。光源として利用されている誰かの魔法だ。揺蕩たゆたう炎はまるで意思を持っているように見えるが、実際にはただ決められたふたつの地点を行ったり来たりしているだけだ。それでも少なくとも自分よりは自由に思えた。無垢で明るく、じゃれ合いながら家と学校を行き来する子どもみたいだった。


 自分も昔はそうだった、とリヒナーは炎を見つめながら思う。


 記憶のなかで隣を歩いているのは、貧しい家に生まれた頭の良い男の子だった。彼とはよく馬が合った。興味の赴く方向が似ていて、議論でもあまり感情的にならない子だったから、ふたりでいろんなことについて意見を交わしながら学校からの帰路についた。夜には帰路での彼の意見について考え、翌日の朝、学校までの道で新しい自分の意見を発表したりしたものだった。


 懐かしい記憶が胸の奥をきゅっと締め付けた。しかしそれもすぐに足の痛みで上書きされてしまう。過去を振り返ることもままならないのか、とリヒナーは苦笑した。


 もうなにも考えたくなかった。どうにか眠りにつきたかった。肉体も精神も疲れ切っていた。目を閉じるが、意識は痛みに鋭く反応し続けている。瞼の向こうの光が眩しい。光に晒された自分は、もはやどこにも行けないような気がした。夢のなかにさえ逃げ込むことができない。

 それも仕方のないことだ。これらすべては罰なのだ。自分は最初から、そういった因果のなかにいたのだ。リヒナーは途切れ途切れになり始めた意識のなかで自分に言い聞かせる。


 頭の奥に心地よい熱が生じていた。それは徐々に全身へ広がっていく。温かい水に沈んでいくみたいな感覚に包まれる。その熱は足の痛みと鍔迫り合いを始め、意識を昏倒に連れて行こうとしていた。


 ああ、ようやく眠れる。そう思った時だった。

 パン、パン、とどこか近くで、なにかが小さく爆発するような音が二度鳴った。それによってリヒナーの意識はふたたび牢のなかに連れ戻された。


 いったい、なんの音だろうか。

 リヒナーは浮上した意識を、ふたたび格子の向こうへ向けた。見える範囲に人影はないが、なにかが近づいてくる気配を感じる。こんなところに来るのは看守しかいない。あるいは脱獄の手助けをするかわりに協力を要請する盗人なんかが来たのかもしれない。しかしそんな物好きがふたりもこの街にいるものだろうか。


 目を閉じ、今度は耳を澄ます。ゆっくりと近づいてくる足音が聞こえる。成人のものにしては音が小さい。看守ではないのだろうか。この足音には力を持っている者特有の威圧感や横柄な印象がない。


 徘徊する炎が、近づいてくる何者かの背後から光を投げかけ、リヒナーの入っている檻の前まで伸びる長い影を落とした。足音がだんだんと近づいてくる。パチ、パチ、となにかが小さく弾けるような音も聞こえてくる。


 リヒナーは眼前に伸びる影の根本に意識を向ける。やがて視界の端に、ひとりの少女が入り込んでくる。

 少女はリヒナーを見つけると檻の前で立ち止まり、幽閉された哀れな囚人を見下ろした。


「ヒノエ……?」


 リヒナーは格子の向こうに立つヒノエを見上げて言った。


「こんばんは、盗人さん」ヒノエは言う。「お元気ですか」


「なにしに来た」

「リヒナーに会いに来ました」

「どうやって入った。看守がいただろ」

「はい。ふたりいたので、殺しました」

「……は?」

「冗談です。気絶させただけですよ」


 ヒノエは小さく肩を揺らした。暗くて表情はよく見えないが、もしかすると笑っているのかもしれない。


「気絶って、どうやって」


 さあ、とヒノエは言う。その口の横で、赤い光の筋がパチパチと音を立てながら瞬いた。まるで空間に亀裂が走っているみたいに見える。それは空を粉々に砕く雷に似ていた。


 なるほど、とリヒナーは思う。さっきからパチパチ鳴っているのは、ヒノエのだったのだ。そして微睡んだ意識を牢に連れ戻した二度の小さな爆発音は、ヒノエの雷の魔法によるものだ。ふたつの雷撃は、ふたりの看守の意識を奪い、ひとりの囚人の意識を檻に連れ戻した。


「そんな魔法が使えたのか」

「リヒナーのおかげですよ」

「僕の?」

「はい。あなたのおかげで、使えるようになりました」


 徘徊する炎がヒノエの顔を照らす。その表情は暗く、冷えていた。蔑むような視線が、リヒナーに容赦なく向けられる。


 その冷たい視線は、リヒナーに昔の友人のことを思い出させた。

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