21 月と星のダイアローグ
「それから……どうなったんだっけ……」
アリアは膝を抱え、海面に映る月をぼんやりと見ながら言う。
「ごめん……忘れちゃった。でも、誰かが助けてくれたんだと思う。こんな化物みたいなわたしを。そうでなければわたしはここにいないもの。それからしばらくは、どこかで普通に生活してた……はず。この腕を隠すための魔法を身につけて、お金のために働いて、ものを貰ったりして……そしたら、どこかの時点で隻腕の竜の話を聞いて……わたしはすぐに気付いた。そいつがわたしの腹から出てきた竜だ、って……だからわたしは、その竜を探し始めた。自分が何者なのかを知るために。わたしと繋がってるのは、あの竜だけだから」
滔々と喋り続けたアリアの唇が閉じ、沈黙がやってきた。閉じ切った静寂をこじ開けるように波の音が鳴る。
ゴールは夜空の星を見上げながら、次に言うべき言葉を探していた。アリアから語られた話は到底信じがたいものだったが、別段いまのアリアの姿と矛盾するところもなく、嘘を吐いているようにも思えなかった。だからこそ言葉に詰まった。遥か昔に生まれ、捨てられ、拾われ、人の悪意に揉まれ、裏切られ、
しかしいまの話で、アリアがなぜ隻腕の竜を追うのかがようやく分かった。それをヒノエに言えない理由も。そして、分かっていることはほとんどなにもないということも。
「でもね、ゴール」とアリアは言う。「結局こんなこと、ヒノエにはなんの関係もない。なにはどうあれ、ヒノエの母親はわたしの腹から出てきた竜に殺された。確かにわたしはたくさん苦しんだ。でも、だからといってヒノエがわたしを許さなきゃならないなんて道理はない。そうでしょう?」
すこしの沈黙を置いて、「そうだな」とゴールは言った。「しかしそれは、ヒノエがきみを恨む理由にもならない」
アリアは拗ねたように小さな声で「どうかしら」と呟く。
「確かにその竜はきみの腹から出てきたのかもしれないが、だからといってきみに罪があるわけではない。きみが直接ヒノエの母親に手を下したわけでもない。悪いのはその竜だ。ヒノエがきみを責める道理はない。話せばきっと分かってくれる。ヒノエはきみのことを、恨んだりなんかしない」
「でも、わたしがいなければあの竜は生まれなかった。わたしがあの日まで生きていなければ、ヒノエの母親はきっと死なずに済んだ。ヒノエもずっと、あの村にいられた。幸せなまま暮らせてたのよ。わたしさえいなければ」
「……ほんとうに、そうだろうか?」
ゴールはヒノエとの会話を思い出す。
『……ゴールは、昔に戻りたいですか?』
『いいや、そういうわけではない。ただ……慣れ親しんだこの地を去るのは、やはりすこし寂しい。やむを得ないのだがな』
『……わたしも、昔に戻りたいとは思っていませんよ。ゴールと同じです』
ヒノエは、昔に戻りたいとは思っていないと言っていた。それを意外に思ったことを覚えている。あのときは誰にも踏み入ってはならない個人的な領域があるとして、風邪で弱ったヒノエに過去のことを訊くことができなかった。
アリアは、ヒノエが故郷の村でどういう生活をしていたのか、知っているのだろうか?
ヒノエは、ほんとうに故郷の村で幸せな生活を送っていたのだろうか?
昔に戻りたくないというのは、暗にいまのほうが良いと言っているように思えた。母親が生きていて、村で幸せな暮らしを送っていたはずの昔よりも、いま――アリアといっしょにいる時間のほうが良いと。
それは、なぜか。
おそらくアリアと同じように、ヒノエもまた過去のことを隠している――というよりは、言いたくない、または言えないのだろう。影を踏み合うみたいに、お互いの秘匿する思い出がふたりにとっての枷となっていた。だからふたりは、歩み寄ることはできても、抱きしめ合えるほど近づくことができない。ゴールにはそう感じられた。
ふたりの距離は、思ったよりも遠いのかもしれない。
アリアは過去の経験から、ヒノエが自分の元から去ったり、ヒノエに敵意を向けられることを、極端に恐れていた。ペトローヴに裏切られ、アルケーを亡くしたときに覚えた喪失感が心に深く根を下ろしていて、その根は失神と覚醒のなかで絶え間なく続いた苦痛と繋がっている。ヒノエとの関係が壊れるということはつまり、自分の身が引き裂かれることとほとんど同義だった。それがどれほどの痛みを伴うものなのか、アリアは身を以て知っている。
裏を返せば、アリアはヒノエにそれほど大きな愛情を持っているということでもあった。あるいは償いの気持ちがそうさせているのかもしれない。この子が愛される筈だった分、この子を愛してあげないと。死んだ母親の代わりになってあげないと。そうして責任を取らなければならない、と。
ゴールからするとそれは悲しい話だった。アリアが責任や罪悪感を負う必要はまったくなく、むしろアリアも現在進行系でその竜に苦しめられているというのに、負う必要のない重責を負い、トラウマとして残る痛みの記憶が、人と深く繋がることを拒絶しているようだった。
アリアは虚ろな目で、ゴールの言葉の続きを待っていた。
ゴールはその瞳の奥に淡い希望の灯を見た。どうにかそこへ辿り着こうと、乾いた唇をひらき言葉を紡ぐ。
「ヒノエは……ヒノエは、昔に戻りたいとは思っていない。あの子自身がそう言っていた」
「そう、なんだ」アリアは波に消え入りそうな声で言った。
「それはつまり、昔よりもいまのほうがいいと言っているように、私には思えた。どういうわけか、母親が生きていて幸せに暮らしていたはずの頃よりも、いま、きみといっしょにいるほうがいいと言っているのだ。確証はないのだが、おそらく」
アリアは黙っていた。
「私はヒノエが村でどういった生活をしていたのか、なにも知らない。私も訊けなかったのだ。なんだかそこは、きみの過去のように、踏み込んではならない場所に思えて……だから訊くことができなかった……きみは、ヒノエの過去について、どれくらい知っているのだろうか」
「わたしは……」アリアが薄く湿った唇を小さくひらく。「わたしも、あなたと同じ。なにも知らない。そんなこと、思いもしなかった……でも、だからといって……」
「アリア」
ゴールはアリアの正面に移動し、膝をついて視線を合わせる。月光と波の音を背負い、潤んだ紫の双眸を見つめる。
「これは提案だ。適当に聞いてくれていい。アリア。明日だけ……いや、明日でなくてもいい。でもいつか、一日だけでいい。きみは、自分のために生きてみるんだ。誰かのためじゃなく、誰かに生かされるでもなく、誰かを追うこともなく、思うままに一日を送るんだ」
アリアは悲しげに笑った。「なにそれ」
「きみにはそういう時間が必要なんだ。きみはたくさんの鎖に縛られすぎている。時間の重みとか、誰かの命とか、そういった荷物を一旦下ろしてしまおう。忘れるわけじゃなく、一度、背負った鞄を下ろすんだ。身軽になって、好きなように一日を過ごして、それからまたその鞄を背負い直そう。その鞄はとても重い。きみには重すぎるかもしれない。何日も、何年も抱えたままじゃ、きっとつらい。だから、度々そういう休息を取ろう」
「意味が、分からないわ」アリアは小さな声を絞り出した。喉になにかが詰まっているみたいだった。
「自分を罰するのはもうやめにしよう、アリア。しかし、それを完全に断ち切るのは難しいことだと思う。だから、まずは一日だけ、自分を許してあげてほしいのだ。たとえばその日は、重荷を宿に置いて、街へ出るんだ。きっと、よく晴れた日だ。私やヒノエを連れていきたいのなら、そうしよう。その一日だけはつらいことを忘れて、知らない街を探検するみたいに歩いて、露店に並んだ果物やアクセサリを見て、日が落ちたらみんなで少しいいご飯でも食べよう。夜にはあたたかい部屋でぐっすり眠って、朝起きたらまたみんなで朝食をとって、それからまたいろいろなことと向き合おう。そのときは、私もヒノエもそばにいる」
「でも……」とアリアは言うが、続く言葉は出てこなかった。
「きみはきみのために生きていいんだ。アルケーに託された命であっても、それをどう動かすかはきみが決めていいんだ。いまきみは、自身が何者なのかを知るために隻腕の竜を追いながら、ヒノエのために生きているように見える。それはべつに悪いことじゃあない。でも、それだけではだめなのだ。きみが何者なのかが明らかになり、そのうえヒノエが死んだとき、きみはどうすればいいのだ」
波の音が相槌を打つように、少し空いた沈黙の間を埋める。
「私は怖いのだ。死ぬのは怖いが、死ねないのはもっと怖い。きみもきっと怯えていることと思う。そんなきみを思うと、私は大海のど真ん中で、波の
「なにそれ」アリアは右目から涙を流しながら、小さく笑った。
「長々と言ったが、つまり……」
「いいわよ」
「え?」
「どう? わたしの顔色は」
「あ、ああ……」
アリアは座ったまま目を閉じる。下りた瞼に押され、左目からも涙がこぼれた。膝を抱えていた腕を解き、足を真っ直ぐに伸ばして、なにかを待っていた。
ゴールは膝で立ち、アリアを抱きしめた。アリアも弱い力で抱きしめ返してくる。小さな身体は熱かった。アリアの第三の腕が動き、ふたりを覆い隠す。まるで抱きしめるみたいに。
「つまり?」とアリアが耳元で囁くように言う。
「つまり、きみは……きみ自身は、どうしたい。ヒノエと、どうなりたいのだと、そう言いたかった。アルケーや隻腕の竜は関係ない。きみとヒノエ、ふたりだけの話だ」
「わたしは……」
アリアはそこで言葉を区切り、大きく息を吸った。肺が膨らんで、身体が動く。衣擦れの音がよく聞こえる。それから長く息を吐いた。熱い吐息が少しゴールの耳にかかる。
「わたしは、ただ……ヒノエと楽しく、お喋りがしたい……」
「ああ……でもきみは、それができなくて途方に暮れている」
「うん……」
「それは、どうしてだろうか?」
「わたしが……竜を産んで、その竜が、ヒノエの母親を……殺してしまったから……それが、後ろめたい……いつもヒノエと話すとき、頭のどこかで、そのことを考えてる……わたしがいなければ、この子はもっと幸せでいられたのに、って……」
「ああ。でもほんとうは、きみが後ろめたい気持ちを抱える必要はないんだ。それはその竜がやったことで、きみにはどうしようもなかった」
「……ほんとうにゴールの言う通りだとしても……やっぱりわたしは考えてしまう。わたしがいなければ、アルケーに拾われなければ、生まれてこなければ、って……」
「そんな……そんな悲しいことを言わないでくれ」
「わたしだって……わたしだって悲しい。アルケーが残してくれた命なのに……わたしはこんな人間で……ごめんなさいって……いつも……いつも考えてしまう」
「きみは確かに悲観的で臆病で、諦観しているかもしれない。でも、それは決して悪いことじゃあない。私は、きみが達観した人間だと思っていた。少なくとも私には、そういうふうに見えていた。いまは……そうではないが……でも私は、いまもきみのことを強い人間だと思っている。こんなところできみは崩れたりしないと、そう信じている」
「うん……」
「アリア。ヒノエに、話してみよう。きっと、だいじょうぶだ。それを乗り越えさえすれば、きみとヒノエは、楽しくお喋りができる。ヒノエも、きみと心の底から通じ合いたいと思っている。なにも心配することなんてない」
アリアはゴールの肩に顔を擦り付けるように首を左右に動かした。涙を拭っているのか、否定の意思を伝えたいのか、ゴールには分からなかった。それでも続けて言う。
「私はきみの味方だ、アリア。きみが過去のことを打ち明けてくれて、私は嬉しい。これで私は、きみに少し近づけたと思っている」
「うん……」
「ヒノエもきっとそう思ってくれる。あの子は、人の痛みが分かる子だ。ヒノエ自身もまた痛みを抱えている、きみと同じように。きみの過去の話は、ヒノエのその痛みを和らげることもできるはずだ。ヒノエのために、そしてなによりきみがきみ自身を許すために、きみは過去のことについて話さなきゃならない。つらいことだとは思う。でも、私に話せたんだ。きっとできる。それにそのときは、私もついてる」
「うん……」
「できそうか?」とゴールは子どもを宥めるように言う。
アリアは声を出さず、小さく頷いた。
「そうか。えらいな、きみは。立派だ」
「なによ……わたしのほうが、あなたより年上よ……」
「だったらなんだというんだ。きみはいままで頑張った。そのうえでさらに勇気を出した。褒められて然るべきだろう。齢なんか関係ない」
「うう……」
「泣くな。私よりも歳上なんだろう?」
「ガキ扱いしたくせに……なんなのよ……もう……」
「冗談だ、冗談。好きなだけ泣けばいい。どうせ誰も見ていない」
「あなたが見てるじゃない……」
「見られたくないのなら、向こうへ行ってようか」
アリアは腕に込める力を強めた。第三の腕がもぞもぞと動き、より月光を遮るようなかたちになる。ふたりは影のなかで、お互いのかたちを確かめるみたいに抱き合ったままでいた。
「あなたのそういうところ……好きじゃないかも」
「なにがだ」
「分かってるくせに……」
「なんのことだか私には分からんな」
第三の腕がふたたびもぞもぞと動き出す。鋭い爪が、ゴールの背を軽く押す。痛みはなく、アリアがほんとうに傷つけようとしているわけではないことが分かる。
ゴールは言う。「この腕は、ほんとうにきみの思うように動くのだな。こんなふうに繊細な動きもできる。ちゃんときみの腕だ」
アリアは黙っていた。
「でも、きみにはあまり似合っていないな。こんなに強そうな腕なのに、きみはそれよりも少しだけ弱い」
「うん」とアリアは言う。「弱いわたしは、きらい?」
「いいや」とゴールは言う。「人間らしくて素敵じゃないか」
波の音が聞こえる。人のかたちの熱が腕のなかで息吹いている。ゴールとアリアは月光から隠れるように、しばらく息を潜めて大きな竜の手の影のなかに留まっていた。夜が明ける気配は、まだなかった。
アリアはゴールの腕のなかで、そのまま溶けて消えてしまいそうな感覚のなかにいた。海に溶け出した自分の意識がばらばらになり、肉体も消滅し、自分だったものの欠片が、水といっしょに誰かの両手に掬われている。そんなイメージが脳裏に浮かんで、それもまた海へ溶けていった。
何十回も波の音を聞いた後、ふたりはふたたび月光に晒された。第三の腕が
「落ち着いたか?」ゴールは訊く。
「うん」とアリアは言い、立ち上がった。「ありがとう、ゴール。明日、ヒノエに話してみる」
「そうか。応援している」
「あなたもそばにいるのよ」
「ああ、分かっている」
「……それじゃあ、帰りましょう」
「そうだな」ゴールはそう言い立ち上がる。
アリアは靴を履いて、ゴールの先を歩いていく。砂浜に刻まれる足跡は、来たときにつけたものよりも深く大きく、力強く見えた。
「アリア」とゴールは離れていく背に呼びかける。
声を聞き、アリアが長い髪を揺らして振り返る。まだ濡れた目が、月の光を受けてきらきらしていた。
「きみはどうして、私を連れて行こうと思ったのだ」
「どうして、って」アリアは目を細めて優しくほほえんだ。「あなたがアルケーに似てたからよ」
「そうか」
なるほど、とゴールは思った。
初めて顔を覗き込まれたとき、アリアの目に畏怖と郷愁を思わせる光の揺らぎを見たことを思い出す。あのときアリアは、ゴールという人間のなかに、アルケーの面影を見ていたのだ。最初見たときにそう思ったとするなら、似ているのは顔か、あるいは雰囲気だろうか。もしくは匂いという可能性もある。香りは五感のなかでもっとも記憶とよく結びつくと聞いたことがある。だとすれば、もっとも似ているのは年齢か。お互いに干し草のような匂いでもしたのだろうか。
ゴールは深遠な夜空を見上げ、星の海のなかにアルケーを探した。が、当然見つけられなかった。仕方がないので月の近くでもっとも明るく輝く星をアルケーとして、その星に心のなかで感謝を述べた。アリアを救ってくれてありがとう、と。
前を向き、アリアの背を追うように歩き始める。波の音が遠ざかっていく。
少しずつ、夜明けが近づいてきていた。
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